駄文2017/12/18

・非社会人


今日もつつがなく、自分勝手に過ごして一日が終わる。難しい本を覗き込んでよく分からなかったり、よく分からないものをネットに投稿したりして、毎日こんな風に暮らしていけたらと思う。



この10年間で、自分が社会不適合者であるということを自覚できたと同時に、10年経った社会の側も、不適合者に対して徐々に寛容になってきたのか、あるいは変容してきただけなのか、何の根拠もないけれど、今までよりは、マシに生きていけるのではないかという気がしてきた。



他人と協働せずに、自分の得意な分野で働く、という方向性にもう少し真剣になるべきなのだとは思う。今まで出来もしないのに、まるで「普通の人」のように振舞って何の役にも立たなかったし、「普通の人」のように振舞わなくたって、まずまともに他人の役に立つということが無かった。つまり社会に直接関わる人間、「社会人」の適性がなかった。



だけど、これは自分以外の誰かについて言っているのでもいいけれど、「『社会人』でなければ生きていけない社会」なのでは非常に困る。上手くいかなかった形とは違う社会との結びつき方を見つけ出して、胸を張れる生活水準でなくてもいいから、生きていきたい。



・ITありがとう


生活費という観点からは、住まいが首都圏や都会ではないことがありがたい。東京ではワンルーム7万でも安い方で、契約更新のたびにお金がかかると聞いたことがある。手取りの金額が大きくても、出て行く金額が大きくては意味がないというか、意味が薄い。



一方で、仕事(それも自分が望むような)があるかというと、これは都会に分があると思う。自分の歪み方にあったコミュニティや役割を見つけることができる可能性においては、人口と情報の集約が必須である気がする。



その点では情報技術がインフラ化していることが、大いに気持ちを軽くしてくれる。実際に先日、沖縄県からイラストの仕事依頼を受けることができた。自分のできることに魅力があり、それが求める人に届くことがあれば、どんな遠くからも仕事がやってくる。



・そんなうまい話はない


だがそれは、地理や情報的な制約がなくなったことで、その魅力のみをもって、市場の競争原理にさらされるということでもある。それを言ってしまうと、自分よりも上手く、味があって、コストがかからず、仕事が早い人がいるに決まっている。



実際にITを利用して、それも単騎で生活できるほどの仕事を維持できる人なんて、ほんの一握りの存在なのだろうか。そのために自分の技術を向上させることについてだって、正直に言えば、特別に激しい情熱を持ち合わせていない・・・あっ、いきなり詰んでしまった。



・いつもいる人にはなれる


技術も強みもない人間に、できることがあるとしたら何だろうと考えてみると、さいわいにも思い当たる節がある。実際の現場仕事では、別に何ができるでなくてもいいから、誰かがそこにいないといけない、いると助かる、という場面が非常に多い。



主に責任であったり、連絡・問い合わせに関する理由からではあるが、ネット空間においても常駐とまではいかなくても、定期的に出現するということで、何らかの付加価値を生み出すことが可能ではないだろうか?



それも単なる存在確認だけではなくて、何か自分に負担にならない程度の課題を設けると、雀の涙程度の能力向上が期待できるかもしれない。この場合定期的に出現しうる「ネット空間」が、ネット空間そのものを指すとすると、あまりにも広大な範囲になってしまうので、例えば特定のSNSに毎日何か決まったものを投稿していくのが良さそうな気がする。



・結局は社会だった


しかし、その作戦も、既に過当競争の中にあるのではないかという気がしてくる。というより、常駐・定期出現というのは戦略としては前提で、それを踏まえてはじめて、技術や魅力というものが問われる土俵に、上がれるのではなかろうか。



となると、土俵の外だろうが中だろうが勝ち目はないようにも思われるし、そもそも何らかの前提を共有した人間の集合地帯というのを「社会」と呼ぶのではなかったか?そして、自分はそこにはいられないのではなかったか?



結局、振り出しに戻ってしまった。



・危ない思想へ


こうなっては仕方ない。どうしても社会との直接的な関わりを逃れることができないのであれば、もう自分に都合のいい「社会」を作り出すことを考えざるを得ない。現実空間ではもちろん、ネット空間でもそれが叶わないのであれば、残る空間は一つ。脳内空間だ。



つまり自分が関わりを持ち、維持することができる架空の「社会」を想定し、そこへ向けて(本当は)頼まれてもいないのに、発信し続けること。そして現実でもネットでも起こりうる様々な他者からの直接的・間接的反応をもって、その理想の社会を「幻視」するのだ。すごい。自分は何を言い出しているんだろうか。ちょっと怖い。



考えてみれば、仕事のために必要な「魅力」や、もっと言えば「能力」だって、依頼側が相手に対して、幻視している要素に過ぎない。先述のとおり「何らかの前提を共有した人間の集合地帯」を社会と呼ぶ場合、その前提としての「幻」が、価値として共有されていればいいのであって、必ずしも一致していなければいけないわけではないし、厳密な意味において二者間でそれが「完全に一致」することは想定しがたい。



つまり・・・つまり、自分が見ている幻が、社会の求めるものと違っていてもいいというか、まずそれらが一致することはありえず、見えているものが違っているがゆえに、価値が生じることだってあり得るというわけだ?ますますわけが分からなくなってきた。



・まどろみの中へ


ひとまずはこうしよう。自分は自分に都合のいい幻を見ることにする。自分は自分を求める社会に与していて、自分がやりたくてやっていることは、その社会が求めているところでもある。だから嬉しい。これからも頑張ろうと思う。そういう幻を見ることにする。



これから先、主に経済面でその幻が崩れることはありがちだけど、それはそれでやむを得ない。自覚的に夢見ているものにとっては、目覚めは死ではなく、もう一度眠るための儀式に過ぎない。然るべき責務を負い、再びまどろみに遊べばよろしい。



などと、寝る前の時間で文章を作ると、どうも無責任に飛躍した内容になってしまう。明日はもう少し早く仕上げてしまいたいと思う。ということで就寝・・・

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