駄文2017/12/16

・そういう日もある


ものすごい嫌なことが起きて、しかも自分以外の誰のせいにもできず、次第に落ち着いてきたものの、もう何もやる気がしない。



その、やる気が本当にゼロになるまでの、いわば落下してから地面にぶつかるまでの間の短い時間で、何か書けることがないかと思ってやってみる。



・落ち着くまでの経緯


別に物事が上手くいかないことや、人に迷惑をかけるようなことが今に始まったことではないのだから、突然の事態に、感情的に高ぶっているに過ぎなかったのは分かる。



はじめに、この世の全てと自分の全てを呪い、完全な無気力の根拠を作ろうとしていた。悪態を一通りついて、そういう気分のムラが収まってきたら、一人で悩まず家族に相談。具体的な今後の対応について考えて、想定されるいくつかのパターンに向けて心構えをした。



人間が完璧じゃないからといって、失敗が許されるということにはならない。しかし責めるか責められるかして、精神論でしか対策を打たないのもおかしい。



おそらく最適解を導き出そうとして、今までの失敗から情報を得ようとする脳の働きが、「自分は何をやってもダメだった」という記憶の生成に結びついてしまうのだろう。それとは切り離して、客観的に、伝え聞いた他人の話だと仮定した場合の「アドバイス」を受け入れる。



その段階までいけば、当初の万物に対する憎悪と悲嘆は鎮まるので、いきなり極端な行動に出なくてよかったなと本当に思う。



・失敗と愚かさについて


どうして必要以上の感情と愚かさがあるのだろうかと思う。まるで失敗することが生きる目的であるかのように、自分にまとわりついて離れない。



すべての人が失敗することなく、あるいは失敗の被害を被らずに生きていく社会にどんな問題があるのか。どうしてそのようにならないのか、などと思うけれど、社会に対して何かを要求することは、これはおこがましい事だった。



失敗が必要なのではなくて、失敗の前に、それが発生するに足る、要素が蓄積されていたのだという考え方もある。



それでいくと、起こった失敗は全て「理にかなって」おり、再発を防ぐためにはその「理」を組み替えなければいけないが、ここでも愚かさが邪魔をする。つまり、「分かっていてもやらない」「分かっていても忘れる」などが、失敗の再発を担保するのだ。



百歩譲って、愚かさそのものはもう拭いきれないものであるとして、次に考えなければいけないのは、愚かさが失敗に結びつく経路を断つことになるのであろうか。



その場合、考えられる方法は「失敗を繰り返す」ことである。これが唯一の方法であるような気すらする。やらない選択肢をもう選べないほどの、忘れることが出来ないほどの、数かぎりない失敗を延々と繰り返すことで、愚かさと失敗の関係を崩す工夫と習慣をその経路に埋め込むことができるというわけだ。残酷な矛盾だと思う。



ではそのために次に考えなければいけないことは「どのような失敗が望むべき失敗か」ということになる。被害が小さく、しかし鮮烈な記憶で刻み込まれ、用意周到に失敗を回避することが、まったく苦ではなくなるような失敗、それを求めることが、失敗の厄災を小さくできる方向性なのかもしれない。



さらに言うと、上記のような理想的な失敗を生み出そうとするのではなくて、見落としがちな小さな失敗について、その印象を何らかの形で拡大することができれば、その被害が小さいまま、教訓としての効果だけを増幅することができる。そこまで考えて、なるほど「叱る」というのは、感情との結びつきを強めることでそれを実現させる、一つのやり方なのだということに気がつく。



ただ、印象としては、現代に至って「叱る」という仕組みが、従来ほどは機能していないということがあり、これは「失敗を防ぐには失敗の繰り返しが有効である」ことの根拠である「愚かさ」と、その周辺の認識が変質しているためだろうか。



前提として、年長者の言うことは黙って聞くことが美徳である、と年長者が年少者に言うことが当然としてまかり通る社会ではなくなってきたのだとしたら、年長者がその正しさゆえに「叱る」ことができたものを、年長者も正しさを持ち得ない(正しさを確信させる説得力を持たない)社会だとしたら、「叱る」は単に「嫌な思いをさせる」だけの行為になる。



そこにどんなに「お前のためを思って」とか「今言われないと後で後悔する」とかいうフィクションがのしかかろうとしても、その屋台骨である「正しさ」(これも厳密には屋台骨になりうるフィクション)が揺らいでしまえば、被虐者は直接的にでも(反発)、間接的にでも(自虐・無気力)、その物語に参加することを拒むことができてしまう。


そこでは問題として取りざたされていたものが、「年少者の愚かさ」から、「年長者の愚かさ」のほうにすり替わってしまう。



・何の話だ


失敗とは何か、失敗を防ぐものは何か、失敗を防ぐことを妨げるもの、はさらにそれを成立させない構造は、そういうことを考えていたら、何かの愚痴っぽくなってきてしまったのでここで止めておこうと思う。



ただ単に、嫌なことがあった。恥ずかしくて、情けない失敗があった。でもそれでヤケを起こさないで済むことができた。それだけの話だ。



しかしきっと「愚かさ」のせいで、あるいは失敗そのものの性質が求めるところによって、似たような失敗をまたすることがあるのだろう。嫌だけれど、それはもう想定しないわけにはいかない。いや、今までも想定していたはずだった。



ともかく、そういった来るべき、だが望ましくない未来においては、この文章に立ち返ってこれることに何か意味があるのかもしれない。あるいは、立ち返ることに意味がなくても、意味がなかった、という内容の文章を新たに作って、そこにまた立ち返ることがあるのかもしれない。未来に対する投擲はどのようにも繰り返されて続いてはいく。

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