水中の曖昧世界【3】


「誰かに付き添ってもらわなかったの?」



 どのくらい眠ったのか分らないけれど、気が付くと保健室の先生に起こされ、寝ぼけたまま保健室のベッドに腰掛けさせてもらった。



 先生の問いに、うなずくことしかできない。



 「廊下で寝ちゃうくらい、きついんだったら誰かについてきてもらえばよかったのに。我慢しちゃダメよ?あなた、何年何組?」



 クラスを言う。



 「体育中か。それで遠慮しちゃったのね?」



 時間割が書かれたプリントを見ながら甘ったるい声で尋ねる。


 私をいたわっているのだと分かる。

 分かるから、なんかつらい。



「体育の先生、誰?松本先生?松本先生は、あなたが保健室にいるって知ってる?」

「さあ。」



 眠っていたのでかすれた声が出る。


 今日、学校で誰かに向かって出した初めての声は、空虚で、隅っこの方の闇にすぐに吸い込まれた。








 帰りのホームルームが終わると、また私は整頓された引き出しの中からきれいに並べられた筆箱やらを、カバンに移し替える。



 カーテンを開ける。



 下校する生徒の後ろ姿。

 運動場を走る体操服姿の列。





「あ、いるじゃん。」




 突然声がして振り向くと、千紘。

 つづいて陽子、実花。



 空っぽだった教室に、三人と、ひとりの透明人間。



 急に私は実体化しなくてはならなくなる。

 三人が私を見据えているから。





 陽子が先頭になって、まっすぐ私の机にやってくる。

 私はカバンの持ち手を握って、うつむく。

 髪がすだれのように前にきて私の横顔を隠す。




 じりっと痛みが走って、髪が引っ張られていることに気が付く。

 反射で睨むと、陽子と目が合う。



「はなして。」



 やはりかすれた声が出る。

 じりじりと頭皮が痛い。



「はなして、じゃないよ。」



 掴んでいない千紘が楽しそうに言う。



「ねえ、あのさあ。」



 妙にべたつく言い方で、ゆっくり噛み砕くように陽子が言う。


 一つ言葉を区切るごとに、ぐんと掴んだ手に力を入れる。

 歯をくいしばって、漏れそうになる声をとどめる。



「被害者面、しないでくれる?」


「なんか、あんたがひとりぼっちで、悲しそうな顔してたら、私らが悪いみたいじゃん?」



 千紘が、手の甲でこんこんと私の頭を軽く叩く。

 わかった?と顔を近づけて言う。



「あんまり、言うなってまた泣くよ?」



 陽子が楽しそうに言う。

 言って、ぱっと手をはなし、「きもー」と呟いて教室のドアの方に行く。

「もう終わりー?」と弾んだ声の千紘が後に続く。




 実花だけが、私の机の前に立ったまま私を見ている。


 頭皮がひりひりして、目の周りも同じ感じ。




「馬鹿だね。」



 ぽつりと、実花が言う。




 その言い方が、優しくて思わず私がとどめていたものが流れ出てしまう。


 傷だらけの机の上に、それは吸い込まれていく。



「黙ってればいいのに。上手に流されなきゃ。」




 実花ー?と陽子の声がする。

 実花もまた陽子と千紘に続いて教室を出る。







 頭皮のひりひりだけリアルであとはぼんやりした曖昧な世界に逆戻りした。


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