二章 大つるはしのヴァニ

 ミズィガオロス島は、周囲を大海原にかこまれた孤島である。力瘤を作った腕を上下逆さにしたような形で、拳側が東、腕の付け根側が西にあたる。前腕の長さは、上腕と比率すればやや短く、拳はわずかに南西へ傾いている。


 東端にそびえ立ち海の絶景を阻むのは、南北にまで長い尾を伸ばすコトゥルマス山脈。その東部・南東部それぞれの麓には、奈落へと激流を落とす〝世果ての大瀑布〟が大きく口を開けている。


 ミズィガオロスの民が恐れる巨人族――ヨトゥミリスは、ここを這い上がってやって来るのだ。


 ゆえに大瀑布は監視され、民は襲撃にそなえる。その一帯を〝防区〟と呼ぶ。島の形状からすれば、肘の折れ曲がった部分から拳までがそれである。


 国政を司るは枢都。それを孕む領域を〝枢区〟。上腕のおよそ半分がそう呼ばれる。


 また、二区の境界線は肘先から肘裏までをほぼ一直線に横切るモントゥル山脈に定められ、その一帯には万一のときに備え、強力な殲滅部隊が常駐するのだった。


 遺物発掘の荒野は、その境界線南端から南南東に二・五リーグばかり離れたところにある、周囲を深緑の森によって囲まれた窪地だ。荒野の名が示すとおり、この地は一切の自然が存在することを許されず、草木が茂るどころか、奇岩の一つさえ転がっていない荒漠である。その面積は、およそ一平方マイルにも及ぶ。


 かつてはこの地も緑豊かな森であったという。それもミズィガオロス一美しい森が存在していたというのだ。


 それが滅びた理由は諸説あるが、未だ数百、数千年前の〝古の大戦〟を神話と信じてやまない者たちが言うには、天から現れた巨大な匙が、この地にあった森を掬い取ったのだそうだ。なんでも森の美しさに惚れこんだ天上の神が、森を使って華やかな箱庭をこしらえようとしたのだとか。


 多くの遺物が発掘される訳も、神話信仰者はこう説明する。


『神の匙が森の大地を貫いた時、大地は意外にも硬く、存外匙は脆かった。大地の底から見つかる遺物は、その時砕けた匙の破片である』


 と。


 しかし今や〝古の時代〟が、現代より遥かに超越した文明技術を持っていたことは、数々の伝記により明らかだ。

 また、その時代の終末とされる〝古の大戦〟によって、主要都市が滅び、人族の多くが失われ、未だ敵対関係にあるヨトゥミリスのほとんどが打ち倒されたことも。


 つまり、ミズィガオロス島で発掘される遺物の数々は、神の用いた匙の破片などではなく、かつて存在した超越文明のなれの果てであった。


 それを溶鋼職人や遺物コレクターに売りさばき日銭を稼ぐのが、遺物堀だ。

 魔法使いの素質に恵まれず、ヨトゥミリスを屠る戦士となれなかった弱者たち。組合から支給される賃金の少なさを嘆き、旅立っていく里人のことは妬みながら、命賭すことない貧しさに安堵する下賤の衆。


 遺物堀となって二年。ヴァニも例にもれず、卑しい自分自身と生きてきた。


 今日も複雑な心境を押し殺しながら、不毛の地に向けスコップを刺し入れる。

 神話信仰者の言とは裏腹に、その土は柔らかく、ほとんど砂を掻くようだ。


 ヴァニの周囲では、年の頃の近い若衆がスコップや鍬を振り下ろしている。皆が額に玉のような汗を浮かべ機械のように同じ動作を繰り返す様は、どこか懲役を科せられた罪人めいていた。


「ヴァニ。さっきは危なかったじゃねぇか」


 ヴァニの作業場からおよそ十分の一マイルばかり北西へ行ったところには、深く地中を穿つ縦穴がある。遺物堀の大半は、その第一採掘場で作業に勤しんでいる。ヴァニたちは第二の縦穴を掘るための整地係だが、今しがた声をかけてきた〝夢見のビル〟などは第一採掘場を担当する遺物堀のはずだった。


 ところが彼は縦穴へ向かう様子もなく、童顔の遺物堀へわざとらしく恨めしげな眼差しを送る。くわえたパイプの吸い口を意味もなくカチカチと噛み鳴らしながら。


「ビルの悲鳴は聞こえなかったぜ。あんたのことだから、また美味いパイプを吸ってたんだろ。今日の葉っぱはどんな夢を見せてくれた?」


 訊ねるとビルは、やや濁りのある蒼の双眸を細め、槌めいた肩の間に首を埋めた。どうやら肩をすくめたつもりらしいが、甲羅の中に閉じこもろうとする亀のようにしか見えず、どことなく魯鈍ろどんな印象だ。


「あんまりホットな夢じゃなかった。そんなに長い間は吸わなかったしな。それよりヴァニ、あんまりあいつらにイジワルするなよ。面倒なことになっても助けてやらんぞ」


 あいつら。

 馬車に乗り合わせていたザキムたちのことだ。


 ヴァニは土を掘り返すと、傍らに転がした巨大なつるはしの柄を爪先で弾いた。チビのヴァニが持つにはあまりにも大きすぎるそれは、背に担げばピック部分が僅かに地面へ触れるほどだった。


「べつに助けなんかいらない。俺には壁にも巨人の胸にも風穴をあけられるこの大つるはしがあるからな」


 防区の民の多くは、自分の得物を所持する。前線で戦うことはなくとも、万一の時のために自衛手段を確保しているのだ。現に、ビルが美味いパイプを吸えるのは、ナイフを携帯していたからこそである。


 人族最東端の街アオスゴルでは〝世果ての大瀑布〟から這い上がってくるヨトゥミリスを押し留めているが、その防衛も完璧とは言い難い。アオスゴルから何マイルも離れたエブンジュナまでヨトゥミリスがやって来るのは珍しいにしても、用心を怠り死んでいった者は数知れなかった。


 ヴァニの大つるはしは、その用心の証だ。


 魔法使いでない者たちは、ビルのように扱い易く作業の邪魔にならないナイフを選択するのが普通だ。しかし祖父から魔法使いの未来を託されたにも拘らず、悲願の輪郭に触れることさえ叶わなかったヴァニは、自戒の意味もこめ、あえて遺物堀の象徴たるつるはしを選んだのだった。

 わざわざ身の丈に合わないサイズを特注してまで作らせたのも、彼の慙愧の念がさせたことである。


「まあ、あいつらが襲いかかって来ても、うっかり殺すなよ。俺はそろそろ作業に戻るぜ」

「ああ、よほど手許が狂わなきゃ大丈夫さ。お互い頑張ろう」

「おうよ」


 そうして二人は別れた。

 ビルの大きな背中が縮んでいき、やがて縦穴の中へ消えた。


 すると、それを見計らっていたかのように、複数の跫音きょうおんが土を掻いた。見れば、同じ馬車に乗っていた三人の遺物堀が、肩をいからせやって来た。

 いずれも仲間内では有名な三人だ。遺物堀の中で、彼らの顔も名も知らぬ者はない。


 若いのがダルス。三本大根がモダフォ。そしてリーダー格のハゲはザキムだ。


 中でもザキムは、とびきり気が短く執念深いことで知られる。そのしぶとさには、蛇も舌を巻くほどだと囁かれ、多くの里人から疎ましがられていた。

 十年以上前の些細な諍いであろうとすべて記憶し、日夜、気まぐれな報復を繰り返しては溜飲を下げる、正真正銘のクズだ。


 ともに作業に勤しんでいた遺物堀たちは、三人の接近に気付いて露骨に距離を取った。作業の手を止め、穴から這い出ていってしまう者もいた。


「よぉ、大つるはしのヴァニ」


 ザキムは、ヴァニの戒めの名を踏みにじり、唾を吐きかけるような恨めしい声で呼んだ。


「どうも。なにか用ですか、臆病者のザキムさん? ビルみたいな腕っぷしの強い男がいると、俺につっかかっちゃこれないのか?」


 意図を察したヴァニは、臆することなく挑発した。


 たちまちザキムの額に面白いくらい深いしわが寄る。ヴァニは思わずふき出したが、取り巻きの二人はしわを一瞥すると、頬を膨らませて笑いを堪えた。


 その頃、ヴァニの仲間たちが、ついに全員姿をくらました。掘りかけの穴の中には、四人の男だけが残された。ザキムら相手に助太刀しようという殊勝な輩は、ここにはいなかった。


「ガキが。あまり調子に乗るんじゃねぇぞ。俺たちの舌を傷つけておきながら、生意気な口まで利きやがるのか」


「おいおい、舌を傷つけたのは俺じゃなくて、お前ら自身じゃねぇか。あんたのヒルみたいに膨れ上がった汚ねぇ舌を、わざわざ噛んでしゃぶったりする趣味はもち合わせてないね」


 ザキムのこめかみに青筋が浮きあがった。取り巻きの二人もさすがにイラついたのか、ポキポキと指を鳴らし痰の混じった唾を吐き捨てた。


 ……さて、これからどうすっかな。


 怒り心頭の三人を前に、ヴァニは黙考する。

 足音を聞いたときから喧嘩する心づもりではいた。かと言って、三人を打ち負かす算段があるわけではなかった。


 彼もまた、ある意味ではザキムと似ていた。

 気が短く執念深い性質なのだ。

 つまりは馬車での嘲弄にまだ腹を立てていたのである。


「てめぇの生意気な性根ェ……叩き直してやる」


 三人が怒気を吐きだし、すり足でじりじりと距離を詰めてくる。


 ヴァニは相手の動きに合わせて後退しながら、土のうえに放り出された大つるはしを斜めに背負った。


 相手は三人。


 対面するのがザキム。取り巻きは退路を断つように左右を挟みこんでくる。上手く相手を誘い出し、隙をついて反撃するのは困難か。背後ががら空きとはいえ、穴を登る間に引きずりおろされようものなら、一方的な攻撃を受けることになる。


 だがここまできて大人しく頭を下げるわけにはいかない。


 こんなクズ野郎にへなへな頭を下げるような安いプライドしか持ち合わせていないなら、端からこんな厄介な相手に喧嘩を売ったりはしない。


 降参は許されず退路がないのであれば、残された手は一つだ。


「ッ!」


 ヴァニは真っ向から仕かけた。

 ザキムへ向け駆けだしたのだ。


 威勢よく跳びだしてきた相手に出鼻を挫かれたザキムは、思わず怯み、一歩後ずさった。

 その隙に姿勢を低くした。鍬を通され柔らかくなった土を掬い取り、敵の顔面へ投げつけた。


「うわっ! てっめぇ……!」


 土埃が直撃したザキムは、目許を押さえもどんりうった。


 その間に、円弧を描き振り返る。


 取り巻きが同時に踏みこんだところだった。

 若いほうに力があるのか、大根腕が重いのか、先に肉薄したのはダルスだった。


 踏み込みから繰り出される強烈なストレートを、さらに身を低くして躱した。そこからアッパーカットで反撃を試みるが、背中の大つるはしが邪魔になって重心が前へ傾ぐ。拳を振り上げるのが遅れる。


 ヴァニは咄嗟に腕をひっこめ一歩踏みこんだ。


「おごッ……!」


 鳩尾を頭で突いたのだ。ダルスの口から空気の塊が吐き出され、肩を掴もうとした手がほんの一瞬止まった。


 その拍子にいきおいよく頭を持ち上げた。

 すると大つるはしの柄が、斜めにダルスの顎を割った。血の翼がひらかれ、ダルスの意識が天に飛んだ。白目を剥き、ゆっくりと仰向けに倒れた。


 残心の間もなく、たちどころにモダフォが襲いかかる。

 すぐさま後ろ回し蹴りで迎撃を試みる。しかし体勢が悪い。動きに若干の乱れ。


 モダフォの口端が吊りあがった。


 上半身に反して細く引きしまった下半身が、素早いステップを踏んだ。回し蹴りで回転するヴァニの軸に合わせ、モダフォの身体がぴったりと背にはりついた。そして、大熊めいた腕を拡げた。


「しまっ……!」


 剛腕が、大つるはしごとヴァニを絡めとった。

 大木を這う蔦のように太い血管が浮き出すと同時、破壊の抱擁が始まる。

 万力で締め上げられるような圧力が襲いかかる!


 メキメキと骨が軋み、肺の中の空気がいっきに絞りだされた。足裏が地面を離れ、爪先だけが土を掻く。


「かッ……!」


 口端を涎が伝った。腕の中で身を捩りもがくが、鋳型の中で暴れているような気分だ。ビクともしない。それどころか力はさらに強まり、空気をもとめ膨張しようとする肺の動きを阻害した。


 やがてヴァニは白目を剥き、泡を吹いた。脳を吸われるような酸欠状態に陥り、思考が遠のいた。


 意識がホワイトアウトするのが先か、軋む骨が折れ砕けるのが先か。

 いずれにしても敗北は目に見えていた。


 ところが結果は、そのいずれにも至らなかった。


「……ッ!」


 モダフォが顔をしかめた。

 彼は痛みに耐えていた。


 何故なら彼は、大つるはしごとヴァニを抱え込んでしまったからだ。


 身をよじるヴァニの動きに合わせ、大つるはしのピックがぐりぐりと左脛を押し潰していた。絶えず骨を削るような痛みがあった。


 それが万力のボルトを逆方向に捻りあげた。

 力の緩んだ一瞬を、ヴァニは見逃さなかった。大きく右足を振り上げると、相手の脛目がけ振り子めいて踵を落とした!


「イいぃッ!」


 反動で左足にもつるはしの抉りこみを受けたモダフォは、たまらず腕を解いた。

 着地と同時にヴァニは、腰を捻じり強烈なエルボーを鳩尾へ突き入れる!


「おっ、ぐ……!」


 振り返り、追い打ちの膝蹴りで鼻っ柱をへし折ると、二発の血の弾が飛び出し、土に滲みた。

 モダフォはなおも意識を保っていたが、かすれた呻き声をもらすばかり。蹲ったまま立ち上がろうとはしなかった。


 咳きこんだヴァニは、よろめきながらザキムの許へ戻る。

 まだ目つぶしから復帰できていない。


 痛む肋をさすりながら呼吸を整え、大つるはしを構えた。巨獣の牙のごとく、鋭く長いピックがザキムの喉へ突き立てられた。音もなく裂けた肌から赤い糸が伝った。


「てめぇ、ヴァニ……。このクソ生意気なガキめ……ッ!」


 ザキムの赤く充血した目が、ヴァニを下から覗きこんだ。


「腹立てるのは構わねぇが、少し状況を考えな。二度と息を吸えないようになりたいのか?」


 ピックをさらに押し込むと、禿頭の遺物堀は地面に唾を吐き捨てた。


「できるもんならやってみやがれ。ジジイのケツも拭けねぇションベン垂らしのガキが。魔法の一つも使えねぇ愚図が……。でけぇ口叩くんじゃねぇ」

「なに……?」


 ヴァニは殺気立ち、禿頭を睨め下ろした。こめかみに青筋が浮かび、噛みしめた唇の皮が激しい音をたてて裂けた。血の糸が流れ、顎の先で雫となってこぼれ落ちた。


 犬歯を剥きだしたザキムの浅ましい笑みが見上げた。


「もう一回言って欲しいのか、おボッちゃん? てめぇはなァ、エズのジジイの血を引いてるとは思えねぇ、落ちこぼれのクズ野郎なん――」

「それ以上言ってみろッ!」


 ヴァニは大つるはしを投げ出し、ザキムを引き倒していた。禿頭を鷲掴んだ指の骨が浮き出し、肌を白く染めた。


「俺が魔法を使えないだと? そんなことはねぇ。てめぇの腐った頭、今ここで潰れたトマトにしてやる。頭ん中に直接魔法ぶちこめば、きたねぇ脳みそくらいスープにできるぜッ!」


 激昂し理性を失いかけた相手を前にして、さすがのザキムも一瞬、恐怖の色を浮かべた。


 しかしその直後、ザキムは歪んだ笑みを刷いた。


「そりゃあ無理だなぁ」


 互いの視線が交わることはなかった。ザキムは怒りに燃えた遺物堀の肩越しになにかを認め、唇をめくれあがらせていた。


 半秒遅れて、ヴァニは気付いた。


 が、もう遅かった。

 振り返ろうと身を捩ったとき、その身体はすでに宙へ投げ出されていた。

 胃の裏返るような痛みに、呻きさえ潰れた。視界が吹雪の中に閉ざされたような灰色に滲んだ。


 幽かに結ばれた像は、若い遺物堀の頑強な脚を映し出していた。

 舌先には乾いた土の感触。耳は地面を踏みしめる音を捉える。

 ダルスの足音ではなかった。別の脚が近づいてきていた。

 視界が徐々に色と輪郭をとり戻し、腕とは対照的に細く引き締まった脚が近づいてくるのを見てとった。


「惨めだなァ、大つるはしのヴァニ。今度は、俺たちが遊んでやるから覚悟しな」


 背を汚した土を払い、ザキムが高らかに宣言した。

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