三章 酩酊

 デボラ班に与えられた装備は、決して潤沢とは言えなかった。


 着替え用のシャツやズボンが一着ずつ、雨よけの撥水外套一着、粗削りな魔杖一本、狩猟用ナイフ一丁。食料は、ベニモグラの燻製肉がおよそひと月分。水筒のビールは一週間もつかどうか。あとは手を突っ込めば、すぐに底の触れる財布があるばかり。


 大樹のマント、鴉鉄からすがねの鎧の着用は認められていない。ひと月を想定した長旅であるため、重量のある鎧を着こまずに済むのは却ってありがたくも思えるが、解しかねるのは、徹底的に「魔法使い」としての要素を欠いていることだ。


 バランからの指令にもあった通り、デボラ班の面々は、小人族に身分を明かしてはならない。


 なんとも胡乱な話だ。〝元枢会〟、あるいは魔法使い上層部は、まるで小人族の存在を疑わず、むしろ知悉しているかのように思える。


 だが小人族は遥か昔、住処としていたエブンジュナの森を去り、南西を目指し旅立って行った。その後の消息は知れぬままのはずだ。クルゲの里の家屋構築技術以外は、痕跡すら残されていないはずである。ゆえに実在を疑われ、ログボザの吹聴する神話のなかで生まれた架空の種族とさえ言われる。


 上はなにかを知っているはずだ。それを隠す様子もない。


 ところが、そんなことを気にかけているのは、デボラ班の中で、彼女ただ一人だけらしかった。


 枢都の大門に吐きだされ、東雲の空を遠くのぞむ彼らは、各々物憂げな呟きをこぼす。それは最早、愚痴などではなく、終わりの見えぬ旅に臨まなくてはならないことへの不安や恐怖の滲みだった。


 中でも、デボラを除けば唯一の女性魔法使いであるメズの動揺ぶりと言ったらひどいもので、歔欷きょきとして涙を呑んでいる。


 見ているこちらまで、辛くなる。けれど班長として皆を統制せねばならないデボラには、涙を流すことさえ許されなかった。


 枢都南大門の目先に伸びるのは、果てしない濃緑の世界だ。生きとし生ける者を助け、また無情に殺す世界である。


 デボラはこの生死まじわる世界へと、皆を導かなければならない。責任の重みが、胃をキリキリとしめあげる。


「絶望的な旅だけど……幸い南方には宿場街が多いわ。適度に休息をとって、ゆっくり行きましょう」


 メズを慰めていたウルとビチャス、そしてメズ本人は、睨みつけるように班長を見た。一方、ロガンとキルフの二人は労わるようにデボラを見つめた。


 胃の腑にたらふく鉛玉を押しこめられたような心地がした。

 だが、すぐに思い直す。


 味方がいるだけマシね……。


 デボラは小さく嘆息し、均された街道を歩きだした。ロガンとキルフが黙って付き従い、他の三人も俯きがちに続いた。


 二十ヤードも進まぬうちに、デボラ班は森の中に呑まれた。門をでる際にも聞こえていたはずの葉擦れの音が、いやに妖しく感じられた。咽返るような土のにおいが頭をぼんやりとさせる。街道に沿って歩いているだけなので道に迷うようなことはないが、真っ直ぐに伸びた道は、却って無知な人間を惑わせようとしているかのようだ。


 それは彼らに行くべき標がないからかもしれない。


〝元枢会〟が発令した今回の任務は、やはり小人族の実在を裏付けているように思える。デボラはその一縷の希望に縋りたかった。


 だが仮に小人族が実在するとしても、所在不明であることに変わりはない。その上、デボラたちには長旅の経験がなく、常に不安がつきまとう。班の士気を維持するだけでも骨が折れそうだ。


 しばらくは無言の行進がつづく。

 いっそのこと、三人が自分の悪口でも言ってくれたほうが楽な旅路かもしれない。

 デボラは次第に自虐的になっていった。


                ◆◆◆◆◆


 デボラ班の旅は、何事もなく過ぎてゆく。


 枢都をでてから、今日で三日。すっかり日も暮れてくると一行は、フェンソンという宿屋で、盛大に酒を酌み交わした。


 いよいよ本格的に旅へ臨む景気づけ――というような殊勝な酒宴ではない。

 ただの自暴自棄だった。


 酒と言っても、普段から飲んでいるビールに過ぎなかったが、さびれた宿屋の集会酒場は、自棄になった彼らを、ひどく酔わせた。財布の底を叩かんいきおいだ。


 無論、デボラも例外ではなかった。散々飲んだ挙句、「あんたたち、陰でこそこそ文句言ってんじゃないわよ!」と、ろくに文句を言われてもいないのに、例の三人へ食ってかかった。


 勿論、反撃も食らった。とにかく誰もかれも泥酔していた。「空気読め!」、「メズの気持ちを考えろ!」、「ウンコ女!」と、それはもうひどい非難を受けた。最後に関してはただの悪口だ。自分の〝不幸〟が広く知れ渡っていることには正直へこんだ。


 だが、酒の力は強い。哀しみは怒りへと変換され、次の酒を求める。小間使いの若者が露骨に顔をしかめても、デボラのいきおいはまったく衰えなかった。


「ったく……。バカじゃないの? なにが任務よ、なにがドワーフよ……」


 仲間たちの姿はすでにない。テーブルを囲む人影もまばらだ。赤ら顔の男たちが肩を寄せ合って眠っていたり、調子の外れた歌をいつまでも口ずさんでいる輩がいたり。

 弛緩した空気が流れている。ぶつぶつと悪態をたれ流すデボラだけが、却って異質だった。


「ずいぶん酔ってんな、ネエちゃん」


 そこに物好きな男がやってきた。背の高い、無精髭の男だった。砂塵を被ったような奇妙な外套をまとっている。


 不躾にとなりへ腰を下ろし、重く鈍い音を鳴らした。間髪入れず、手に持ったこんもり泡の湧いたビールを呷る。喉が滝のように唸った。


「カアッ! うめぇ……」


 男は、一息で飲み干した。豪快な飲みっぷりだ。


 デボラの充血した眼差しが、男と容器を見比べる。にへらと歪んだ唇から、濃いアルコールのにおいを吐きだしながら。


「あんたぁ、なかなか強そうじゃないの」

「べつに強かねぇさ。こうやって飲んだほうが美味いから、こうしてるだけだ」


 デボラは謙遜する男を睨んだ。


「なによぉ……。男のくせに、怖気づいたの? 勝負しないのぉ?」


 男は容器をかかげ、小間使いを呼ぶ。疲弊した様子の若者が酒を注ぐ。器から白い泡がこぼれる。ここにはビールしかないのだ。


 デボラはそれをやる気と見て、自分の器にも酒を注がせたが、男から返ってきたのは、乾杯の音頭でなく苦笑だった。


「ネエちゃん、やめとけ。ぶっ倒れるぜ」

「大丈夫よぉ」


 不明瞭な声で答えながら、こめかみを揉む。もう一方の手が杖に伸びた。


「……それより、あんた何者?」


 緩んだ目許が鋭く眇められ、唐突に問い詰めた。

 デボラの眼差しは、剣呑な光を帯びていた。


 男は口の周りについた白い髭を乱暴にぬぐい、首を傾げた。


「あん?」

「とぼけんじゃないわよ……」


 デボラは酩酊している。


 しかし彼女は、警戒をおろそかにしなかった。こういう場所には手癖の悪い輩が必ずいるものだし、酒で増長して暴れだす者もいる。女を手籠めにしようとする下卑た輩も珍しくない。


 だがこの男は、もっとたちが悪そうだ。

 男がさも愉快そうに目を細めた。


「……何者に見えるね?」

「さあね。物騒なものは持ってるようだけど」


 男の腰を一瞥する。

 座りこんだ際のあの音。間違いなく得物をもっている。


「防区じゃ得物をもつのが当たり前だぜ?」

「ここは枢区よ。ヨトゥミリスはでない」

「まあ、そうだな」


 男はテーブルに肘をつく。今度はちびちびと泡を舐めた。


「そう怖い顔しなさんな。俺はべつに、あんたを取って食おうってわけじゃねぇ」


 デボラは脳裏に魔法詠唱の文言を連ねる。悠々と酒を飲んでいるように見えるが、まるで隙がない。取って食うつもりはないと言ったが、とてもそのような態度には見えなかった。


「じゃあ、どういうつもりよ?」


 訊ねると男は腕を組む。茫洋と虚空を見つめ、首を傾げる。

 やがてその唇を湿したとき、予想だにしない答えが返ってきた。


「……ドワーフ」

「……!」


 デボラは中腰になり、椅子を蹴った。詠唱まで紡ぐことはなかったが、腰におさめたナイフを握り、杖を手に取っていた。


 小間使いの若者が、呆れた眼差しを寄越した。


 男は微動だにしなかった。クスクスと笑っただけだ。


「……どうやら聞き間違いじゃなかったらしいな」

「なんですって?」

「あんた、ぶつくさ言ってたろ。任務とかドワーフとか」


 咄嗟にデボラは、舌のうえに言霊を転がした。杖を握った指先にチリチリと雷光が閃いた。


 男が目を瞠り両手をあげた。


「おいおい、物騒なのはどっちだ……! 落ち着けよ」


 詠唱の文言を呑みこみ、睥睨する。


「目的はなに?」

「あんたを知ることだ」

「口説いてるつもり?」


 デボラは手許を鳴かせた。雷がパリパリとのたうった。

 男は顔をしかめる。


「おいおい、冗談じゃねぇぞ。俺はあんたが何者かを知りたかった。だから声をかけた」


 雷が男の頬をかすめる。デボラは力を手中に握りこんだ。


「名乗るなら、まず自分から。それが礼儀でしょ」

「まったくだな」


 男は蒼白になりながら肩をすくめた。そして言った。


「俺はダウナス。元々は〝旅団〟にいたが、今は独りだ」


 デボラの眼差しが怪訝にゆがんだ。


「〝旅団〟? 狩人の?」

「ああ、そうだ」


〝旅団〟といえば獣を狩り、それを家畜商に売りさばいて生計を立てている狩人の集団だ。一つのところに定住することなく、方々を渡り歩いて活動することから、そのように呼ばれている。


「……ふぅん。私はデボラよ。それで、狩人がなんの用なの?」


「元々は、だ。訳あって、俺はもう〝旅団〟の人間じゃねぇ。旅人の用心棒みたいなことをして、なんとか口に糊してる。要は金がないんだ」


「残念だけど、私もお金はもってないわ」


 馬鹿げた話だが、こうして酒を飲んでいる間に、財布はひどく軽くなっていた。途端に自己嫌悪が胸を侵した。


「だが、鉱山へ行くんだろ?」


 そこへ不可解な問いが飛んできた。

 デボラは目を眇める。話が読めない。

 この男はなにを言っている?

 こちらの疑問をよそに、ダウナスは淀みなく続けた。


「ドワーフは物作りのために、山ほど鉱物を使うらしいじゃねぇか。鉱山をそのまま根城にしてよ。〝いん〟の鉱山地帯には、その名残りがある。あんたはそれを探しに行くんだろ?」


 デボラは嘆息する。


「……なるほどね」


 ようやく得心が入った。ダウナスがなぜ近づいてきたのか。


 どうやら民草の間では、胡乱な噂が広がっているらしい。誰が広めたかは知らないが、ドワーフの住処をつき止めれば、一獲千金の好機が巡ってくると信じられているようだ。


 デボラは杖を投げだし、カウンターの端に座りなおした。


「残念だけど、そんな事実はないわ」

「なに……?」


 ダウナスが苛立ちと不審をこめて目を眇めた。口許にちぐはぐな笑みが浮かんだ。


「それは噂よ。〝陰〟に入って帰ってきた者は、未だかつて一人もいないわ」

「そんなバカな!」


 ダウナスが食ってかかった。今にも掴みかからんいきおいだった。


 デボラはその肩を押しかえし当惑した。なぜこの男が、こうも胡乱な噂話を信じられるのか理解に苦しんだ。


「とにかく、私たちは鉱山へ向かうわけじゃ……」


 言いかけて、デボラはその先を呑みこむ。


 この男の素性を思い出したからだ。

 たしかに言っていたではないか。

 〝旅団〟にいた、と。


 デボラはそこに一縷の望みを見たような気がした。


「いや、待って。あなた……」

「ダウナスだ」

「そう、ダウナス。あなた口は堅いほう?」

「べつに軽くはねぇと思うが。そもそも話し相手もいねぇしな」


 その眼差しには、猜疑が散らばっている。しかし前のめりだ。


「私たちに関することを口外しない。約束できる?」

「条件次第だな」

「そうよね」


 デボラも前のめりに、仕かける。


「私たちは〝陰〟へ行く。でも、鉱山のお宝には興味ないの。だから、手に入れた金目のものは、全部あなたにあげる。その代わり、あなたの知恵を貸してもらえないかしら?」


 言い終えるまでに、ダウナスの表情は二転三転した。


 最終的にはり付いたのは思案顔だった。

 しばし黙考した後、鋭い眼光がデボラを射抜いた。


「知恵ってのは、具体的になんだ?」

「自然を渡り歩く術……というのかしら」

「まあ、うん。なんとなく解った。仲間は何人いる?」

「私を含めて六人」


 一瞬の沈黙。


「お前たちの目的はなんだ? 可否はともかく、旅の期間はどの程度に考えてる?」


 これにはデボラも沈黙を返した。小さく唇を噛み、俯く。


「……ドワーフの捜索。期間は決まってないわ」


 答えると、ダウナスが目を瞠った。


「なに? なんて言った?」


 周囲の耳目を警戒しながら、デボラは繰り返した。


「ドワーフを見つけ出すの。それまで私たちは帰れない」

「バカな……」


 ダウナスの口から、愕然とした呟きが漏れた。

 これには卑屈な笑いを返すしかない。


「本当に馬鹿みたいな話よね。ドワーフがいる確証なんてないのに……」


 旅を続けるには、慣れた人間が必要だ。ダウナスのような人間が、なんとしても欲しかった。


 だが、こんなむちゃくちゃな旅に、誰が付いてくるというのか。


 嘘八百を並べたて騙すこともできただろうが、自分たちがこんな思いをしているのだ。道連れにはできなかった。


 暗澹とした思いで、ダウナスを見つめる。


 すると、その相好が途端に崩れた。

 哄笑が弾け、眠りこけていた客のいくらかが、不快に瞼をもち上げた。

 ダウナスは構わず笑い続けた。


「なにが、おかしいのよ」


 デボラは震えた怒気を吐き出した。

 ふざけた指令に振り回され、死地に赴かねばならない人間を前に、この男は嗤うのか、と。


 よほど騙して、搾りつくしてやればよかったと思い直した。


 ところが、ダウナスの眼差しは、意外なほどに渇いていた。

 デボラは、はっとして怒りの言葉を呑みこんだ。


 やがて、ダウナスは笑いを鎮め、残ったビールを一息に呷った。アルコールと怒りが、吐息となって吐きだされた。


「やっぱり、この世の中はクソだな……。使われる側の人間のことなんざ、なにも考えやしねぇ」


「……なによ、藪から棒に」


 困惑するデボラを前に、狩人の男は、その経歴に相応しい眼差しを向けた。


「あんたらは、マジにやるんだよな?」

「え?」

「ドワーフだよ。探しに行くんだよな?」

「ええ、そうだけど……」

「じゃあ、俺を連れてけ」


 不意に視界がぐらりと揺れた。こめかみを鉄槌で叩きつけられたような衝撃だった。

 わけが分からず、ビールを呷った。しかし中身は空。雫がわずかに唇を湿すばかりだ。


「それは俺の杯だぜ、ネエちゃん」

「……!」


 慌てて器を投げだし、再度こめかみを揉む。頭が痛い。理解できない。都合の良い夢を見させられているのではないか。


「どうして?」


 デボラはそれだけを訊ねた。

 ダウナスはそれだけで、すべてを理解したようだった。


「情が湧いただけさ。なんだか似てる気がしてな。放っておけねぇと思った」

「口説いてるの?」

「そうかもな」


 男を熱く見つめる。酔いが回って、頭がクラクラする。思考も緊張も、どこかへ失せてしまった。


 好い夢を見ているなら、わざわざ抗う必要もないだろう。

 デボラは頭を下げた。


「お願い、あなたの力を貸して。約束は守る。鉱床も財宝も、見つけたものは全部あなたにあげる。だから」


 床を見下ろしたまま、デボラは片手を差しだした。


「私たちを救って。この理不尽から」


 返答はすぐにあった。乾いた感触が指へ絡んだ。

 頭を上げると、無精髭のなかの白い歯列が見えた。


「任せときな」


 決然と請け負うと、ダウナスは杯を掲げた。


「それじゃあ、乾杯だ」


 デボラもすぐに居住まいを正し、杯を手に取った。平穏の感触があった。


「ええ、乾杯っ」


 二人は同時に杯を呷った。ぬるい酒が喉の奥を伝い、じんと胃の腑を焼いた。

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