二章 老爺は闇に笑う
「あいつは死んで当然のクズ野郎だった」
あばら家のソファで寝転んでいたガゼルがごちると、テーブルを挟んで向かいに座っていたミラは、同意を求められていると感じたらしい。曖昧な頷きを寄越した。
ガゼルは
朽ちかけの板壁は、真っ赤に濡れている。二年前に没した〝主人〟の血が、今なおこの場所に滲みついているかのように。
命というのは厄介なものだと思う。たとえ肉体が滅びたとしても、関わりが残したものは他者の中に残るのだ。
懐からナイフを取りだし、刀身を明かりにさらせば、そこにもまた血のような赤が伝播した。ガゼルはその奥に目を凝らしながら、薄ら笑いを浮かべた。
「でも、感謝しなくちゃなぁ……」
枢都西端。
打ち捨てられたように佇むスラム街。
そこで育ってきた者にとって、生きる術は使えるものを使い、奪えるものを奪うことにある。
だから、奴が路頭に迷った子どもたちを拾ってきては、スリをやらせ私腹を肥やしてきたことについて、恨み言をいうつもりはない。
むしろ、その点については感謝すらしている。道端で物乞いをするしか能のなかったガゼルを拾い、生きるための術を教えてくれたのは、他でもないあの男なのだから。
だが、裏切りと暴力に満ちたスラムに生きる男が、温厚で親切な善人であるはずはなかった。そんな甘ったれの小便垂らしに待つのは、道端で蝿にたかられ腐りゆく運命だけだ。
〝主人〟は金の次に暴力と血を愛した。仕事の如何に関わらず、虫の居所が悪ければ子どもたちを殴り、汚水の中に顔を押しこみ、ランプで肌を炙り、爪の間の肉を錆びた針で掻きまわした。
虐待を受けた子どもが悲鳴を上げれば、奴はさらにひどい仕打ちをした。中には死んだ者もいた――はずだ。
子どもたちは生きるために痛みに耐えなくてはならなかった。痩せ細った腕に自分の歯型を刻みながら。
ガゼルもそうして生き抜いてきた。
ところが、ガゼルが〝主人〟に抱いた殺意は、彼の暴力から発露したものではない。
〝主人〟から受ける暴力は無論、ガゼルにとっても苦痛だった。だが彼の堰を破るきっかけは、暴力でなく、奴の心を空かした〝余裕〟のほうにあったのだ。
実のところ、ガゼルが拾われたばかりの頃、〝主人〟は子どもを叱り、殴りつけることしか知らない男だった。拷問じみた虐待で悦に入ることはなく、ただ自分が生き抜くため、子どもたちを教育していたに過ぎなかった。
だが、子どもが有用だと解った〝主人〟は、私腹を肥やし余裕を得た。調教のためでなく、ただ退屈から逃れるために暴力を振るうようになったのだ。
ガゼルはそれを許さなかった。
何故なら、対等でないからだ。
ガゼルは精神的に対等な関係を理想とした。それをひたすら追求しながら生きてきた。
〝主人〟が明日を憂い振るう暴力は、彼にとって対等なものだった。そこには形こそ違えど、子どもたちと同じ苦しみが同居していからだ。
一方、己の悦のための暴力は、彼の〝対等〟には当てはまらなかった。悦に入るため、退屈を消化するための暴力に、肉を裂かせてやるつもりはなかった。
あの日、〝主人〟を殺したあとアヌベロを蹴ったのも、ガゼルに言わせれば正当な暴力でしかない。誰もが殺人の恐怖におびえ吐き気を堪える中、一人吐きだしてしまったアヌベロが悪いのだ。
ガゼルは突如、夢から醒めたように家の中を見渡す。
死体から剥いだ衣服の状態をたしかめるミラ以外、家族の姿がないのだと、今更にして気付かされた。
「ミラ、みんなはどこへ?」
衣服から顔を上げたミラが、傾いたドアを一瞥して言った。
「寝てる。今日は二人もヤったんだ。疲れたんだよ」
「ああ」
ガゼルは無感情に相槌を打って続けた。
「たしかに殺すのは疲れるな。力がいるし」
「……そうだね」
ミラが視線を落としたのが判った。
ガゼルはソファから起き上がり、ミラの傍らに立った。
肩に優しく触れれば、身体全部がびくりと震えあがった。
あばら家の長は、その耳朶に向けてそっと息を吹きかける。
「……もう誰も人を殺すのに迷いなんかない。生きるためには、他人のものを奪わなくちゃいけないからな。そりゃ、ケチな盗みを続けていても、生きてはいけるだろうさ。だけど、俺たちだって少しくらい豊かになりたい。少しでも日の光の下で生きてる奴に近付きたい。お前もそう思うだろう?」
「……っ」
俯いたミラが首肯を示すことはない。
肩から伝わる緊張で、怯えているのが判る。
これまで一度たりともミラを殴ったことはないのに。罵声の一つも浴びせたことはないのに。
「俺だって相手を選んでるんだぜ? ただ徒に殺させてるわけじゃない。俺たちはクソの中で虐げられてきた。生まれ落ちた瞬間から。運命を選ぶことなんてできなかった」
ガゼルの目に暗い火が灯る。
物乞いとして生き、大人の大きな足に蹴られた日々のこと。漁ったゴミの中から汚泥を口に含んだ夜。腹を壊して喘ぎ泣いた暑い午後。〝主人〟から受けた虐待の年月。
様々なものがその目に過ぎり、やがて口許に柔和な笑みが浮かんだ。
ガゼルはミラの細い顎に指を這わせると、その顔を無理やりもち上げた。栗色の乾いた髪が肌を掻く。怯えた目が薄らと濡れている。陽光を受けて煌めく朝露のように。
「……でも、誰もがそうなのさ。運命を、理不尽を選ぶことなんてできない。爽やかな朝を迎えて、美味い飯を食って、いい女を抱けると思ってる奴らが、俺たちに殺されてゆくのは、そういうことだ。俺たちは、幸せを幸せとも気付かない、なにも知らないバカどもに、今日を生きることの恐ろしさを教えてやる〝運命〟そのものなんだ」
ミラがゆっくりと瞬きをする。濡れた瞳が一層輝く。
可愛い
迷い、躊躇し、葛藤し、苦しむ。
ずっと、その美しさとともにある。
ガゼルは顎を掴んだ指を、栗色の髪に絡めた。そして前にかかった髪を持ち上げ、額に優しくキスをした。
「ミラ、お前はそのままでいい。優しい俺の義妹であり続けてくれればいいんだ」
そっと身を離すと、急に眠気が襲ってきた。
あばら屋の長となったガゼルは〝主人〟のように、ただ家の中で惰眠を貪っているわけではなかった。義弟たちに殺しを命じる一方で、自身もまた肥えた豚を殺し、次の標的を探る日々を送っているのだ。
「俺もそろそろ寝るよ」
愛する義妹にそう告げたあと、ガゼルはソファで横になった。
そこでふと、先の挨拶は愛情が足りていないのではないかと思い至った。
目をつむる間際、ガゼルはこう続けた。
「ミラ、俺のことが気に入らないなら、眠ってる間に殺してもいいよ。おやすみ」
◆◆◆◆◆
ミラは、
ランプの明かりに薄らと濡れた肌は、朱色に光って見える。〝主人〟が死んで、平然と強盗殺人を犯すようになってから、子どもたちの生活は豊かになり、皮の下には肉も増えた。
だけど――。
ミラは己の手を見下ろし、過去を覗きこむ。
明かりに濡れた床の赤。それがあの日の赤へ近づく。
生唾を呑むと思い出される。〝主人〟のはらわたを破壊したあの感触。
ミラは震える手で、点検中の衣類を払い飛ばした。机に突っ伏し、明かりを遮った。
虐待の苦しみから解放されるためには仕方がなかった。〝主人〟が生き続けていれば、ミラたちの心は破壊されていたかもしれない。あるいは殺されていたかもしれない。
でも富を得るために、人を殺さなくちゃいけないのかな……?
ガゼルが言ったように、豊かな暮らしに憧れがあるのは事実だ。泥のような不味い粥よりも、ふっくらとしたパンを食べたいのが本音だ。
他人から奪わなければ生きていけない世の中にあることも承知している。
欲しいものがあるなら、変化を求めるなら、奪わなくてはならないのだ。葛藤し、心中で嘆くだけではなにも満たされず、変わることもない。清い水を飲むことも、腹を膨らますこともできない。
そして己の中の苦しみを取り払うこともできない。
現状を変えるためには、奪わなくては。他人の手中に握られているものを。
たとえば、義弟たちに殺しをさせる苦しみを消し去るためには、ガゼルの手の中にある、絶対の権利を奪わなくてはならない。かつて彼自身が企て、〝主人〟をこの世から消し去ったように。
ミラは立ち上がり、ソファへと歩み寄る。
袖の中に手を差し入れる。中には革の帯が縫われ、ナイフの刃が収められている。それを抜き放ち、せり上がってくる二年前の記憶と吐き気を、頬の裏を噛んで殺した。
袖から手を引きだすと、鋭い刃の表面に明かりの赤いぬめりが生じた。〝主人〟を殺したものとは異なる、新しいナイフだった。
刀身の厚みが薄く僅かに内側へ反ったこれは、確実に相手の肋骨の間を縫い、心臓や肺を破壊する。獣の解体に用いられるハンターナイフや食事の際に用いられるテーブルナイフと違い、殺すことに特化した死のナイフだ。
三ヵ月前、十四歳の誕生日を迎えたミラに、ガゼルがくれたプレゼントだった。「お前が一人でも生きていけるように」と。
震える唇から糸のような息が漏れる。
応えるように鼓膜を撫でるのは、かすれたガゼルの寝息。目下、ソファの上に寝転がった義兄は、目許を腕でおおった無防備な姿をさらしていた。
微かに上下する胸へ目がけこの刃を振り下ろせば、反撃を許す間もなく、一瞬で相手を絶命させられるだろう。カエルのように情けなく手足をバタつかせ死ぬ義兄の姿を想像するのは、決して難しくなかった。
できる、できる。あたしにはできる。あたしはあいつを殺したんだ。あの時と同じことを、同じことをするだけだ……!
目をつむり、そう言い聞かせたミラの手には、じっとりと汗が滲んでいた。手の中でナイフが滑り、くちゃりと嫌な音をたてた。
ミラは薄らと瞼を持ちあげ手許を見つめた。
刃は赤く染まっていた。
「い、っ」
咄嗟に口を押さえ、悲鳴を押し殺す。
ガゼルは
恐るおそる朱色の刃に視線を戻す。
血に濡れているわけではなかった。ランプの明かりが映っているだけだ。手のひらのぬめりも血液によるものではない。ただの汗だ。
くそっ……。
ミラは兄に踵を返し、元いた椅子にとびこんだ。ナイフを帯へおさめ、テーブルに突っ伏して唇を噛みしめる。
やっぱり、無理だ……。もう、人を殺すなんてごめんだよ……。
ならば答えは決まっている。
この理不尽の世に生まれた以上、他者から奪う以外の術は一つしかない。
「……逃げよう」
ミラは頭を上げ、朧に揺れるランプの明かりを見つめる。
問題はどうやって逃れるか、だ。
スラムには、外と通じる門が存在しない。それゆえ下層から中層へ出る必要がある。だが、下層と中層は、門によって隔てられている。
門が開かれるのは、一日に二度だけだ。早朝、下層民を日雇い仕事へ送りだす際と、彼らが帰ってくる夕方にだけ、その重い口はひらく。
しかしそのタイミングは、ガゼルたちの移動時間でもある。普段、あばら家に残っているミラが一緒に出ていけば怪しまれる。
それ以外に門を抜ける方法は、中層の商人たちとの取引をちらつかせ、門衛に賄賂を握らせることだ。子どもたちの稼ぎを得るため、ミラはもうすでに何度も商人と取引をしている。今更、怪しまれはしない。
だが、それも魔法使いの監視がつくため、成功の望みは限りなく薄い。仮に監視の目を免れられたとしても、内と外とを繋ぐ大門に門衛の目が光っている以上、脱出の望みは皆無である。
つまり、正当な手段での脱出は不可能。
最も手っ取り早いのは、スラムの壁を越えることだ。スラムの外は直接外の世界と通じている。壁さえ乗り越えることができれば、ガゼルの支配から逃れられる。
無論、それも不可能と言っていい。
スラムを囲む壁の高さは、三十フィートほどもある。そこここが疵付き、ひび割れているので、ある程度は自力で登ることもできるが、上へ行くほど指をかける個所は少なくなり、いずれ登れなくなる。体力面を考慮しても無理だ。
そもそも外へ出られたとして、その後の生活はどうする?
惨めにのたれ死ぬ運命を待つだけだ。あるいは獣の餌になるか。いずれにしても、ろくな死に方はしない。
ミラは小さく嘆息した。
結局、道は一つだけだった。
死ぬまでずっとガゼルの許で生きるしかない。
殺しを強要される義弟たちを遠巻きに見やりながら、懊悩の日々に耐えてゆくしかないのだ。
「……まだ起きてたんだ、ミラ姉ちゃん」
その時、ミラの耳に、蚊の羽音のような小さな声が届いた。
ミラは寝室の戸口に立つあわれな義弟に目を転じた。ランプの明かりに濡れる肌は恐ろしく白く、前髪の中に隠れた双眸は井戸の暗がりのように光がなかった。
齢九歳にして多くの血を舐めることとなった、哀れな義弟――アヌベロであった。
「ベロこそまだ起きてたの。それとも悪い夢でも見た?」
ミラは義弟に優しく声をかけてやる。殺人の日常に身を浸し、心が歪んでしまっても、アヌベロはまだたった九歳の子どもだ。彼には本来なら、もっと穏やかで愛情に満ちた環境が必要だった。
無論、ここにいる誰もが、穏やかで愛情のある環境とは無縁だ。自分の接し方が、果たして正しいのかどうか、ミラには解らなかった。
アヌベロが眠気眼をこすってかぶりを振った。
「なんか目が覚めちゃって。そしたら、姉ちゃんの声が聞こえたから」
「声が?」
「うん、逃げようって」
ミラは苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、ガゼルを一瞥する。
恐るべき義兄は、やはり身動ぎ一つせず、穏やかな寝息をたてている。ミラの声も、アヌベロの発言も聞かれていないようだ。
ミラはそっと胸を撫で下ろし、己の迂闊を呪った。
「……たしかに、独り言はいったかも。でも、そんなこと言わないよ。あたしはお姉ちゃんだもの。ベロたちを置いて出ていったりするわけないでしょ」
「そう、だよね」
そう言った義弟の声には、どこか残念そうな響きがあった。
思い当たる節はある。
唯一、ガゼルに甘やかされ、殺しに手を染めなくてよい自分は、義弟たちに恨まれているはずなのだ。ガゼルという畏怖の象徴がなければ、真っ先に家を出されていたかもしれない。
ところがアヌベロは意外なことを言った。
「ぼくは、逃げたいよ……」
ミラは驚くよりも、肝を冷やした。今にもガゼルが起きだしてこないかとひやひやした。
どうやら、それはアヌベロも同じらしかった。ソファにちらちら視線をやりながら、小さく拳を握っている。小刻みに震え、袖口の解れた糸を揺らしていた。
ミラは小さな義弟の許に身を寄せる。
「じゃあ、ベロも来る?」
囁くと、アヌベロは鳩が豆鉄砲を食ったような顔でこちらを見返した。
そして、すぐに眉を八の字にして俯いた。
「逃げられるの?」
「……」
ミラはなにも答えなかった。
代わりに、義弟の肩に腕を回し、玄関のドアに視線を送った。
一緒に考えてくれる?
心中で囁いた。
アヌベロは、その声を察したようだった。数回ミラとドアとを交互に見比べたあと、猫のように足音を殺して玄関を出たのだった。
ミラもそれに続いた。ドアを潜る間際ガゼルを見たが、彼は起きだしてこなかった。
とはいえ、家中の脅威であるガゼルの許から逃れても、スラムの夜は子どもたちには危険すぎる。まだなにも起きていないうちから、小心者のアヌベロは辺りをきょろきょろ見回して怯えた。
ミラも同じ気持ちだった。あばら家の中にいたとしても安全を保証されないこの場所では、夜の街に出ることなど自殺行為にも等しい。
幸い、周囲に人影は見当たらなかった。後足を一本失くした猫が暗闇の中でぎらりと狩人の目を光らせただけだ。
ほっと胸を撫で下ろすと、アヌベロも安心したようである。あばら家を見下ろすようにしてそびえ立つ壁を眩しそうに見上げた。
「……残念だけど、逃げ出す算段はないの。あたしの力じゃ、とてもあの壁を越えることはできそうにない」
義弟の肩にそっと手をのせ、目を伏せる。
結局は逃亡など絵空事だ。寂寞とした空に浮かび上がる無数の、届かない星の一つに過ぎない。
アヌベロもそんなことは解っていたのだろう。ミラの手に自らの手を重ねて静かにかぶりを振っただけで、情けない
そんな時間がどれほど長く続いただろう。
悲哀に溺れた二人の意識を現実へ引き戻したのは、あの三本脚の猫の唸り声だった。
二人は咄嗟に振り返った。
薄暗いスラムは、月明かりがなくては、なお暗い。黒い蒸気が空から垂れこめてくるかのようだ。
それゆえ、建物と建物の間にできた狭い通路に立ったシルエットは朧だった。ミラと同じほどの背丈にも見えるし、防区に出現するとされるヨトゥミリスのような巨体にも思える。
ミラはアヌベロの肩に手を置いたまま、あばら家へ駆けこもうとした。
ところが、二人はすぐに足を止めた。
月光をせき止めた雲がちぎれ、黄金が散った刹那、通路から這い出すようにして現れた顔に、見覚えがあったからだ。
片足を引きずり、馬の尾のように長い髭を垂らしたその老人は、〝牙なしのアゾルフ〟に相違なかった。
彼は、スラムに居を構えていながら、ナイフの一本さえ隠し持っていない暴力とは無縁の老爺であった。その佇まいは、誰の目から見ても異質。スラムで彼を知らぬ者などいない。
「ガキが二人、情けない顔をしとるもんだから慰めに来てみれば、死人でも見たように怯えられるとは哀しいもんだ。こんなうらびれた掃き溜めに、わざわざゴーストが遊びに来るとでも思ったか?」
アゾルフの言葉はかすれて口汚いが、その声音にはこちらを安心させる不思議な柔らかさがあった。一音一音が耳になじむ。肩から力が抜けてゆくような心地になる。
「アゾルフさん、どうしてここに?」
訊ねると、アゾルフは小さく肩をすくめた。
「この糞と腐肉の街は、全部ワシの庭のようなもんだ。自分の庭を見て回るのに理由が必要か?」
「いえ、すみません……」
「べつに怒ってるわけじゃねぇ。謝られるとばつがわりぃや。ワシは話す必要のないことを省略しただけ。なにも考えねぇで小便垂らすのに、いい場所はねぇかと探してたなんて、べつにお前さんたちも聞きたかねぇだろ? もう言っちまったが」
アゾルフはそう言って黄色い乱杭歯を見せて笑うと、音もなく歩み寄ってきた。
アヌベロはそれが恐ろしかったのか一歩後ずさったが、ミラはじっとアゾルフの様子を眺めていた。
「ところでお前さんたちこそ、こんな夜中になにしてんだ? 仲良く夜遊びか? それともあれか、ワシと同じで便所でも探してたか?」
ミラとアヌベロの二人は、おもむろに顔を見合わせてから壁を見上げた。この非力な老爺が、ぐるりとスラムを囲む巨人のような壁を乗り越えられるとは思えず、沈黙を返すしかなかった。
アゾルフは濁った目で、二人の視線を追うと、
「お前さんたちがなにを望んでるのか、このアゾルフ様にはすぐ理解できたぜ。ミラの嬢ちゃん、金は持ってるか?」
「……え、今はなにも」
ミラは当惑した。
アゾルフに勘付かれたことだけではない。突然、金の話をされるなどとは夢にも思っていなかったのだ。
しかし彼女もまた、アゾルフの言わんとしているところが理解できた。
〝牙なしのアゾルフ〟という二つ名は、実際のところ皮肉の名だ。
彼の正体は、いわゆる情報屋であり、老いた頭の中に、尋常でない量の情報を飼っている。それを活かしてスラムを渡り歩いているのだ。
恐ろしいのは、そんな生き方をしていながら、彼が今もスラムを闊歩している事実である。
情報は牙だ。どんなナイフより、剣より、鋭い死線だ。情報をもつということは、それだけで命を狙われるリスクを負う。
ところが彼は、狙われないのだ。
暴力や脅しによって情報を奪おうとした者、情報を恐れてその命を絶とうとした者は、近く通路の隅で蝿にたかられる肉となって発見されるからである。
〝牙なし〟というのは、つまり、彼が牙をもっていないという意味ではない。牙を剥いた者の牙を絶つ――命を絶つ。それが彼のもつ二つ名の所以なのだ。
刃の鎧に覆われたアゾルフが金の話を始めたということは、情報が手許にあることを意味する。彼は壁を越える方法を知っているのだ。
「……いくらですか?」
ミラは縋るように一歩踏み出した。
老いたアゾルフの背丈は、成長期半ばのミラとほぼ変わらず、視線は真っ直ぐにこちらへ向けられていた。
「……」
アゾルフはすぐには口を開かなかった。勘定をしているのか、呆けているのか、茫洋とした眼差しがミラだけを見ていた。
やがてアゾルフが笑った。悪戯を思いついた子どものように。
「やっぱり金はいらねぇ」
「え?」
「その代わり、情報を貰う」
「情報……?」
ミラは訝しんだ。
情報屋のアゾルフを満足させる情報など、ミラの手許にはないはずだった。彼女の得意なことと言ったら、服を売る際の交渉くらいのものである。それ一つをとっても、ミラより優秀な者など、この枢都にごまんといるだろう。
しかし、アゾルフの表情には確信めいたものがあった。
そして彼はこう言った。
「ガゼルが人を殺す理由を教えてくれ」
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