十五章 大地鳴動
大気を凍らせる音がパキパキと鳴り響いていた。
〝九つ頭〟が踏みだすだけで、足許から生じた衝撃が寒波を伴って吹き荒れ、地上の時を止めてゆく。その動きは極めて鈍重であり、一歩のたび、三の稲妻が閃き万の雨が降った。
しかしそのたった一歩が、アオスゴルのあった中洲を激流の中へ沈め、一帯を冥府めいて凍てつかせ銀にそめ上げた。今やエヴァンのしがみつく楡の根も泥も氷像と化し、そこここの幹がパキと乾いた音をたて割れていった。
その時、破裂音にびくりと震えあがったサイフォンが、ついに理性の皮をはがされた。恐怖が喉をつき破ろうとするように悲鳴が溢れだした。樹上を暴れ回り下生えへと転落し、母を呼んで
ホルクスは太い枝へ移動すると、担いだパックを横たえ、自らも腰を下ろし項垂れた。最後まで班長の後ろにひかえていたマベルも、とうとう乾いた声で笑いはじめた。遠い幸せな幻想に現実を忘れようとしているようだった。
エヴァンもいっそ笑ってやりたい気持ちだった。自分たちがこれまで守ってきたものが、攻撃の意思すらない、ただの歩みで蹂躙されてゆくのだから。
氷河の中、琥珀めいて封じられた教会の残骸に目を転じる。
奴らは、こうなることを知っていたのだろうか。
死は避けられぬものだ。生を受けたからには、死も訪れる。
だから死を恐れる者には、それを受け入れるための暗示が必要になる。宗教を欲する。
ログボザは、他の神々を封じ、他宗教を衰えさせ滅ぼしまでした。
何故そこまでしたのか。
何故あんな教義を掲げてきたのか。
エヴァンにはそれがずっと疑問だったが、ログボザは死に対してだけでなく、死に連なる運命すべてに安寧をもたらそうとしたのかもしれない、と思えてきた。
いずれ、このような滅びがやって来るのを知っていたからこそ、あんな教義を掲げてきたのではないかと。
「ふっ……」
エヴァンは己を嗤った。
他を生かすために杖を掲げてきた私が、よもやこんな馬鹿げた考えに陥ってしまうとはな……。
次第に力が抜けてゆく。魔法の効力はすでになく、心を支えてくれる希望もなかった。
その手からトネリコの杖がこぼれ落ちるまで、長い時間はかからなかった。雨音を縫って氷を打つ音が響いた。
その時である。
「オオオオオォォォ……」
氷山の如き巨体がふらつき、激流の中に片脚を突っ込んだのは。
エヴァンは楡の木に爪を立てしがみ付いた。仲間たちも反射的に身体を強張らせた。
「これは……?」
大地が揺れていた。
地中で巨大な赤子が産声を上げるかのように、激しい地鳴りが鳴っていた。
エヴァンは我に返り、仲間たちの様子を窺った。パックはまだ気を失っており、サイフォンは錯乱したままだったが、他の二人はどうやら無事らしかった。必死の形相で爪を立て、飛び降りることを恐れる猫のように身体をたたんでいた。
揺れはなおも続く。天地を裏返すかの如く。
エヴァンは辺りを見渡す。
遥か西方の山々から緑が滑り落ちるのが見えた。遅れて地滑りの音が鼓膜の裏側をかき毟った。
赤錆の空からは、雷がふり注ぎ続けていた。
まるで地獄だ。
エヴァンの絶望はますます深まり、死への恐怖が膨れ上がった。
そして彼は、またも恐るべきものを目の当たりにした。
雨に煙るはるか遠方、西の方角に、それは現れた。
雨の帳の向こうに見えぬはずの峰々の一部が、意思をもって動き出したかのような黒き巨影が。
「何故だ……。何故、西から……」
揺れが止まった。
「ヨトゥミリスが現れるのだ……」
◆◆◆◆◆
カルティナ班はマクベルに防衛線をしき、ヨトゥミリスの侵攻を妨げていた。
たった今、女炎使いバエルが、北側で暴れていた最後の小型の首をへし折ったところだ。
しかし戦いは終わらない。
カルティナの許に集った仲間たちは、決して非力ではなかった。彼らはエヴァン小隊に属してこそいないものの、バエルともう一人を除いた全員が防衛部隊出身の魔法使いだった。
だが今彼女たちの前に立ちはだかったのは、およそ三十フィートの巨影だった。強靭な外殻をまとう中型ヨトゥミリスである。
紺青の外殻は雨に濡れ、妖しい輝きを放っていた。腕の太さなどはマクベルを囲うオークの幹よりなお太く、踏みだすだけで、人族の足裏が地面から浮きあがるほどの威容だ。
カルティナは自身に付与した魔法を意識し、杖を握りなおした。
これをたった六人で相手取るのは自殺行為にも等しい。
アオスゴル防衛を放棄した魔法使いの使命は、地上に噴出したヨトゥミリスを確実に殲滅することだ。勝機のない戦いには臨まず、不意を衝ける状況へと誘いこみ、着実に数を減らすべきだった。
故に、正面から対峙してしまった場合の選択肢は逃走だった。中型・大型は機動力に欠ける。魔法の力があれば逃げ切るのも不可能ではない。
にもかかわらず、カルティナには逡巡があった。
復讐者たる彼女とて、厳しい試練をのり越えてきた魔法使いだ。あえて無謀な戦いに挑み、己の屍をさらすような真似はしない。
エブンジュナの森へと誘導し、地の利を活かせば、少数で対処可能であることも理解できている。
それでもこの場を放棄できない理由があった。
石敷きの地面の上に横たわるのは、ほとんどが原形を留めぬ死体ばかりだ。方々にちぎれた四肢が横たわり、血肉の醜いパターンが描かれている。マクベルの象徴であった鍛冶工房の煙突は瓦礫と化し、その下から血の赤が拡がり雨に滲んでいた。
ところが酸鼻極まる地獄の中に、たった一人息のある者がいたのだ。
それは中年の女で、露店の幌の下に力なく横たわっていた。
片脚はあらぬ方向へ曲がり頭部に損傷こそ見られたものの、治癒術師ファゼルの診断では、どうやら即死はしていないらしかった。今は幌の下で、魔法による治療を受けている。
中型がかすれた吐息をもらし踏み出した。
衝撃で瓦礫が崩れ、がらがらと音をたてる。
敵の攻撃範囲内へ入った。
カルティナはまだ迷いを断ち切れずいる。
負傷者を連れて逃げだすのは容易だ。
しかし息があるとはいえ、女の消耗は激しかった。下手に動かせば治癒魔法を施しても絶命の恐れがあったのだ。
カルティナは中型を見上げ、固く杖を握りこんだ。
「……リッキル! 水を展開して!」
指示をうけたのは、細面の若い魔法使いだった。彼は魔法の制御技能に著しく秀で、詠唱なしでも精密な魔法を展開できた。中型の接近を許した以上、迅速な対処には彼が適任だった。
「応ッ!」
細面に似つかわしくない野太い声がかえった直後、水魔法「ヴァハトン」が唱えられた。
中型が拳をふり上げた時、すでに魔法は展開を終えていた。
ヨトゥミリスの周囲に降り注いだ雨粒が一塊に
巨人は驚き、霜の目を見開いた。
たちまち、子どもが地団太を踏むように、水の塊を潰すのに躍起になる。瞳の驚愕は灰と化し、苛立ちが燃え上がった。
その間に、魔法使いたちは、ゆっくりと包囲網を形成する。
氷使いハリュトスが、近場のレンガの家へと進入した。敵に気付かれぬよう足音を殺し、姿を隠して高所を目指す。
いかに頑強な中型であっても、外殻をもたぬ眼球や頸部を射抜けば殺せる。少数で相手どるとなれば、不意をついて一撃で殺すしかない。反撃を許せば、こちらの屍が増えることになる。
ここでバエルも陣形に加わった。
カルティナは、あえて少しずつヨトゥミリスから距離を取りながら、リッキルに魔法を上へ移動させるよう目配せした。地団太によって発生する揺れで負傷者の体力を消耗させては、元も子もないからだ。
小さな頷きがあって、水の塊が上へうえへと移動をはじめた。
球は次第に収縮する。使い手との距離が離れれば、それだけ魔法の繋がりは薄れるからだ。だが、これは囮に過ぎない。注意をひけさえすれば問題なかった。
思惑通り、ヨトゥミリスは地団太をやめ、腕をふり回して水の球の破壊を試みた。
リッキルの巧みな技で、水の球は旋風のごとき軽やかさで宙を舞う。
巨人族の拳をくぐり抜け、胸の前で一旦静止。怒りの蒸気を吐きだす中型は、自らの胸を手のひらで叩きつけるも、球は指の間をすり抜けてゆく。
カルティナはレンガの家の煙突から頭をだしたハリュトスを一瞥した。
いいわ。もう少し。
指示を受けずともリッキルは次にすべき行動を理解していた。
巨人の視野を煙突から遠ざけるべく、魔法を操った。
「なっ……」
ところが、そこであってはならない事態が生じた。
水の球が突如として弾け、雨へと還元されたのである。
不意に、煩わしい蝿がいなくなったのを訝しんだ中型は、茫然として辺りを見渡した。
一方、敵の背後へ回ろうとしていたカルティナは、責めるようにリッキルを睨んだ。
しかし視線が交わることはなかった。
なぜならリッキルは、目も口もだらしなく開ききったまま、中型の背後を凝視していたからだ。
カルティナは奇襲を警戒し、視線を追った。
瞬間、痩身をつつむ
あってはならない存在がいた。
ログボザのような混沌を好む神の一派の気まぐれか。
凍てついた小山を削った彫刻めいた巨影があった。九つの頭をもつ、ありえないサイズのヨトゥミリスがあった。
腹の底から恐怖がせりあがった。
しかし彼女は、瞬時に理性の手綱をたぐり寄せた。
中型へ視線を戻し、叫んだ。
「リッキルぅっ!」
彼女たちはヨトゥミリスを滅ぼすべく鍛え上げられた魔法使いだ。動揺に隙を見せることなど許されない。怪物を狩る者たちは、生きて殺し続けるのだ。
兵長の声にリッキルが我に返った。
すぐさま「ヴァハトン」が展開され、中型の注意を縫いつけようとする。
ところが、先の叫びを聞きつけた中型は、すでに壊すべき相手を替えていた。
旋回をはじめた水の塊を無視し、拳を振り上げた。
カルティナは前回の戦いを想起した。相手は中型だが、その威力を侮れば同じ過ちを繰り返すことになりかねない。
瞬時の状況判断の末、彼女は跳んだ。
上だ。遅れて中型の拳が石の地面を砕いた。
躱した。
しかし、反撃には高さが足りない。
一方、地上の魔法使いたちは防御を強いられた。
ディーンは土魔法で大地をめくれあがらせ、リッキルは水の珠を消滅させ障壁を練り上げた。
ただ一人、炎使いのバエンだけが衝撃にはじき飛ばされた。頭から瓦礫の中へつっこみ、小さく粉塵が舞い上がった。
カルティナは犬歯をむきだし唸った。
その殺意が伝わったのか、煙突から影がとびだした。
氷で鍛え上げられた刀剣が、手中に煌めいた。
背後からの奇襲とはいかずとも、中型の注意はカルティナから離れていない。
正しい判断だ。今ならばやれる。
氷の刀剣が雨を弾き、必殺の軌道を描いた!
キィィン!
「くぅっ!」
ところが、響き渡ったのは耳障りな摩擦音だった。
弾き返されたハリュトスの手の中で刀剣が砕け散った。
巨人の首には、かすり傷一つなかった。
怪物は首を傾げていた。顎と肩の外殻が閉ざされ、弱点を塞いでいた。
だが、まだだ。
戦力はハリュトス一人ではない。
カルティナの手には、すでに碧の槍が編みあげられていた。
風が渦を巻くたび、雨粒を呑みこんで膨れ上がる。
手首へ降り立つと同時に跳躍。
高さはまだ足りぬ。風の力で上昇は可能だが、力を維持しようすれば速度が犠牲になる。カルティナの魔法は瞬発力に優れるが、継続的な力を発揮するのは苦手だった。
ならばこの高さから、できることをやるしかない。
穂先を伸ばしても喉や腋を貫くことはできない。厚い外殻に覆われた胸を抉るのも不可能。
ならば、振り抜くまで。
風の力をかりて回転したカルティナは、そのいきおいをのせ槍を横薙ぎにふり抜いた。
雨水を含んだ穂先が弾ける。
放射状に散った雨水が、中型の眼球を叩きつけた!
「ゴアアアァッ!」
悲鳴を上げて暴れるヨトゥミリス。
がむしゃらに振り回した両手が、レンガの家を瓦礫へと変える。
カルティナは風を巧みに操り、指の間をすり抜ける。拳の下をかいくぐり、瓦礫を撥ね飛ばした。
仲間たちはこの隙を活かす。
着地したハリュトスの許へ駆け出すディーン。
彼の得意とするのは土魔法。
その手がハリュトスの足場に触れ、詠唱を終えた時、魔法は展開された!
地の精霊が拳を突きあげるが如く、ハリュトスの足許から土塊の柱が生じたのである。
たちまちハリュトスは空中へと弾き出され、一息で膝裏に到達した。
落下するまでに詠唱を終える時間はない。
ハリュトスは危険を承知で、直接魔法名を唱えた。
「イース!」
前方へ突き出した手のひらから、人の指先ほどしかない小さな氷柱が生じた。
それは瞬く間もなく急成長を遂げた。無数に枝分かれし、敵の握り拳ほどもある巨大な氷の華へと変貌したのだ!
ハリュトスの腕は、成長過程でその茨に貫かれ血をしぶいたが、歯を食いしばりイメージを固定し続けた。
やがて氷の茨は砕け、華だけがひとりでに飛びだした。
ハリュトスが落下を始めたのと同時、脇をカルティナが跳びぬける。
彼女は氷の華にさらなる殺意を流しこんだ。
手刀をきり、氷の華の周囲へ旋風を生みだしたのだ。
華が激しく回転し、中型の膝裏に突き刺さるやいなや、辺りの肉を惨たらしく抉り始めた!
「ゴアッ、ゴオアアアアアァッ!」
回転刃と化した花弁が肉という肉を抉りとる!
巨躯が傾いだ。
姿勢を保とうと石積みの家屋の屋根をつかむが、重さに耐えきれず崩壊した。中型が天を仰いだ。
魔法使いたちは蜘蛛の子を散らしたように散開。
中型の周囲で次々と家屋が倒れ、怪物の唸りのような音と粉塵とがまき散らされた。
距離こそ離れたが、ディーンはこれを好機と判断した。詠唱とともに魔法を展開する!
「大地の精よ、我が声に応えよ。土は茨、巌は檻。奈落の毒を闇へと還せッ!」
巨人を覆った石塊へ対象をしぼると、それらが意思をもったかのごとく蝟集し接着された。
怪物の動きを封じこめる即席の拘束具!
土魔法は土だけでなく、自然に由来する石や岩、果ては植物までも操ることができる。それ故、扱いは爆破魔法に次ぐ難度とされるが、制御できる者にとっては極めて強力な魔法だった。
「ゴオオオ! オガアアアッ!」
中型が暴れると、拘束具にたちまち亀裂が生じた。
ディーンは絶えず力を送り続けた。砕けた石塊がみる間に修復され、中型の肉を食んで、軋ませる。
さらに亀裂。修復。
気力の戦いであった。
中型が拘束を脱し、ディーンが再び拘束する。
仲間たちは迂闊に手がだせない。中型は常に危険な挙動をつづけており、瓦礫の修復に巻きこまれればミンチ肉になるのは必至だったからだ。
無論、ディーンも距離を詰めることができない。魔法の出力が安定せず、平時以上の消耗を強いられた。
長くはもたない。彼の眼球はすでに充血し、瞼には血が滲みはじめていた。口中に拡がるのは鉄の味。鼻から薄らと鼻血が垂れる。
魔力の消耗による肉体負荷。
このまま連続で展開すれば、死の危険性すらある!
カルティナは歯噛みし、女が治療を受けている幌の下を見た。
ファゼルは絶えず治癒魔法を行使し続けている。身動ぎ一つない。
北東の方角に目を転じれば、九つ頭の氷山のごときヨトゥミリス。その肩が僅かに上下するたび、大地が震え氷の粒子が舞い上がる。
見るからに鈍重。だが、あまりに身体が大きすぎるため、想像以上の速度で輪郭を拡げてゆく。マクベルへ到達するまで、まだいくらか猶予はあるだろうが、どうやら先客がいるらしかった。
大型ヨトゥミリスが、紺青の外殻をきらめかせながら歩み寄ってきていたのだ。
悠長にしていられる時間はない。
ディーンが痙攣を始めた。
周囲を見渡す。
仲間たちは中型を取り囲んでいる。陣形は整った。
「もうよろしくてよ、ディーン!」
号令とともに、魔法が解除された。
ディーンは片膝をつき項垂れ、仲間たちが強化魔法を行使し一斉にとびかかった。
中型が石塊の拘束具を破壊したのは、ほぼ同時だ。砕けた石塊が砲弾のごとく空を馳せた。
魔法使いたちはそれを巧みに避け、あるいは砕き、懸命に起き上がろうとする中型の首へ集結する。
「ヴァハトン!」
リッキルの水魔法が中型の後頭部をおさえ付け、顔面を地面へと叩きつけた。
中型が痛みに呻き、一瞬の隙が生じた。
そこへハリュトスがたたみかける!
「イース!」
叫びとともに、使い手の腕から氷の杭がうみだされた。瞬時に枝分かれし、逆向きの樹氷と化す。ハリュトスの半身もまた氷に呑まれるが、彼は決して魔法は解除しない!
そこに必殺の力を与えるのはカルティナの役目だ。
しかしハリュトスは氷と一体化しており、旋風を発生させれば、最悪その身体を引きちぎる恐れがある。
カルティナはやむを得ず風の槍をあみ、突き下ろす。
ハリュトスもまた中型の頸部目がけ氷の大樹を叩きつける。
「ゴアッ、ゴ、ボッ……!」
凄まじい量の返り血が魔法使いたちを襲った。
人のそれより遥かに鉄臭く苦い血液。加えて異常に冷たい。カルティナは慣れきっていたが、リッキルとハリュトスの二人はきつい臭いにむせ返り震えた。
中型が手足をばたつかせ、地面を割った。魔法使いたちは揺れに耐え、カルティナとハリュトスは、さらに深く刃をねじ込んだ。
そこへ暗い影が生じ、魔法使いたちをすっぽりと覆った。
カルティナは舌打ちした。
咄嗟に風の槍をひき抜き、ハリュトスの身体から氷の大樹を斬り払った。
二人は頷き、二手に跳んだ。
リッキルもまた魔法を解除し、その場から離れた。
直後、巨大な足が中型の首へたたき下ろされた。
血肉が放射状にとび散り、醜いゼリーとなって拡がった。
大型ヨトゥミリスが滑りたたらを踏んだ。
思わぬ形で中型に留めを刺すこととなったが、勝鬨は上がらなかった。もはや大型を滅ぼす魔力など残されていない。
そもそも十に満たぬ魔法使いが集まったところで、大型を倒せるわけがない。中型を倒せたのですら奇跡に等しいのだ。
カルティナは瓦礫に塗れた一帯を見渡した。
先のストンピングの衝撃で、ディーンは地面の上に投げ出されていた。治癒を続けるファゼルも、汗とも雨とも判じがたい液体の粒を流しながら、屈みこんだままだった。
やはり、逃げるべきか。
逃げれば女性は死ぬかもしれない。
だが、逃げなければ確実に全員が死ぬ。
だとすれば逃走を選ぶのがベストだ。傷も多少は塞がったはず。彼女の体力を信じるしかない。
バエンはどうか。彼女は生きているのか。もし、生きているのなら、見殺しにするのと同じではないか。
いや、バエンは瓦礫の中に放りこまれ、あれから物音一つたてていない。ヨトゥミリスに狙われる恐れはない――と信じたい。ここはあえて放置していったほうが安全と考えるべきだ。
見たところ、〝九つ頭〟は例にもれず真西へ直進している。中途で進路を変えない限り、マクベルが壊滅することはない。
それすらも賭けに過ぎないが――。
カルティナはきつく瞬き「撤退ッ!」の指示を飛ばした。
すぐさまリッキルがディーンを担ぎ、ファゼルが治癒を中断して女性を背負った。
魔法使いたちは一斉に西を目指して駆けだし、各々詠唱の文言を口にした。
ところが彼らの逃走も詠唱も中断されることとなる。
突如、天地を裏返すような揺れが、足許を掬い上げ、イメージを散漫とさせたからだ。
大型もまたバランスを崩したが、倒れることなく、すぐさま歩行を再開した。
一方、人族には強すぎる揺れだ。一歩ふみ出すことすらままならない。
カルティナは魔法を維持していたが、不安定だった。彼女の身体を覆った碧の風は弱々しい波紋をうち小刻みに震えていた。
強化魔法や付与式のような継続使用する魔法は、時間経過にともない効力が衰えてゆく。今、彼女に残された魔法は、三を数える間も使い手を宙に浮かすことはできない。
そこへ大型が追いつく。
ディーンを担いだリッキル目がけ拳を叩きおろした。
リッキルはやむを得ず「ヴァハトン」を唱え、水の盾を生成した。
拳と盾が衝突する!
途端に、盾に波紋が生じた。
彼の盾は中型の拳ならば、数分間おし留められるほど頑丈だ。
しかし大型のパワーは、さらにその上をゆく。盾が霧散するまで、十を数える間もないだろう。表面はすでに波紋を打ち、瞬く間に大きくなる。形を維持することさえできない。
リッキルは這って盾の下から逃れる。
その間に仲間たちが詠唱を終えた。カルティナとハリュトスが引き返し、カルティナはリッキルを、ハリュトスはディーンを抱えて大型から離れた。
遅れて大型の拳が盾を打ち破り地面を砕いた。
魔法使いたちは、転がるようにして逃走を再開した。
その足がまたも止まる!
彼らが大型の挙動に注視している間に、逃走経路は塞がれていたからだ。
予想だにしない存在の出現によって。
そんな、馬鹿な……。あっちは西だ。それにあの大きさ――。
稲妻と豪雨の中、黒き巨影が浮かび上がった。
それはゆっくりと背を伸ばし、黄金の隻眼を輝かせた。頭にも黄金。王冠じみた二本の角が、ねじくれ後ろへ向かい伸びている。異様に横へつき出した肩にはそれぞれ雷色の球体が瞬き、全身は闇夜よりなお黒かった。雨に濡れている所為か、その漆黒は、神の手で磨きあげられた宵闇に似て滑らかだった。
なにより恐るべきは、その巨躯であった。
東にそびえる〝九つ頭〟と変わりないか、あるいはそれ以上ある。
まるで鋼の山。あるいは神のために設えられた夜の鎧か。
揺れが止まっているのに気付いたのは、それから一呼吸を置いてからであった。
「……み、南だっ!」
カルティナは咄嗟に指示を飛ばし進路をとった。
なけなしの魔力を消費し、風の力で馳せた。足はガタガタと震え、使い物にならなかった。
振り返ると仲間たちが、つんのめりながらカルティナのあとを追ってきていた。
その後ろから大型ヨトゥミリスが迫る。
東からは〝九つ頭〟。
西からは隻眼の黒鎧。
どうすればこの窮地を逃れられるか。
思考は麻痺し、答えを導くことはできなかった。
恐怖が足を回らせるばかりだ。南へ向かったあとのことなど考えられるはずもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます