十四章 奮い立つ者

 昼も過ぎた頃になって、ザキム・バタンは眠りから覚めた。シルクに滲みる汚い液体のように、夢の世界から濾しだされてしまったのだと判るのに、しばらく時間がかかった。


 家中は暗闇だった。鎧戸の隙間から、微かに光が迷いこんでくるばかりだ。


 天井の向こうから忍び寄ってくるのは、葉を打つ雨音。百の指が家中を叩き鳴らしているような不快なドラミングである。

 

 最悪の寝覚めだ。


 遺物堀の仕事をサボって、今日でかれこれ五日が経つが、ほとんど家をでていない。

 さすがに引きこもっているのも窮屈になり、今日くらい森の中を散歩しようかと思っていたところ生憎の雨だ。半身を上げると、窓を揺らして激しい雷鳴まで雪崩れこんできた。すっかり気が滅入ってしまったが、今更、夢の中へ引き返すこともできそうにない。


「くそっ、あのジジイの呪いじゃねぇだろうな……」


 ザキムは巨大遺物の許に出現した老爺の姿を忘れられずいた。


 心房の肉に食いこんだ恐怖の楔。

 毛羽立った毛布の中で震えながら目をつむるたび、朝が来ればこれが悪夢だと解る、と言い聞かせてきた。しかし五日が経っても、やって来るのは同じ朝だった。

 冷たい遺物の感触は消えず、ろくに水浴びもしていない所為で、土や汗の臭いがこびりついたまま離れない。

 

 水浴びに行きてぇが……。


 この雨の中、川へ入るのが自殺行為だということくらい、おつむの小さなクソガキでも判る。


 なにからなにまでろくなことがない。やはり、呪いなのか。意外にも信心深い遺物堀はそう考える。


 ふと、薄暗い家の中にいるから、こんな暗澹とした気分になるのだろうかと思った。なにもない時間ほど、心に巣食う闇を濃く感じてしまうものだ。外はひどい雷雨だが、このままじっとしているよりは、多少雨に濡れるほうが心地好いかもしれない。

 

 善は急げだ。ザキムは床の上に放置された雨よけ外套を麻のシャツの上に羽織り、錆びたピンで留めた。


 大樹の家を出て、音を遮る壁がなくなると、雷鳴の音は皮膚の裏側を掻き毟るように響いた。


 一歩踏み出す度に、ぬかるんだ地面に足を取られる。

 見れば、下生えに隠れてこそいるものの、エブンジュナの大地はひどくぬかるんで泥のようになっている。どうやら雨脚が強いだけでなく、随分前から降っているようだ。


「ホントにろくなことがねぇ……」


 ザキムは地面に唾を吐き捨て、エブンジュナの外を目指すように東へ歩を進めた。

 腰に収めた短刀に指先を添えながら。


 いくら住み慣れた土地であろうと、ここが大いなる自然そのものであることに変わりはない。自然は生ける者への恵みであると同時に、最大の脅威でもある。


 比較的温厚な獣が多いからこそ拓かれた里ではあるが、広大な森に獰猛な肉食動物が存在しないなどということはありえない。三ヵ月に一度は里人が喰われたという話を耳にするし、普段は山岳地帯に棲む大怪鳥峯主ホスが餌を求めて子どもをさらっていったという事例もある。


 一瞬でも気を抜いたものが餌となる。それが大自然の口中に住まうということだ。

 

 今もザキムは雨音と雷鳴の中に、草木を分けて行進する獣たちの気配を感じている。雨天にこそ巣に帰った獲物を探しに穴蔵から這い出してくるものもいるくらいだ。天候の変化が安全を保証してくれるわけではない。

 

 しかし、ザキムは奇妙な違和感を覚えていた。

 獣たちがこちらを警戒、あるいは獲物としてつけ狙っているようには感じられなかったからだ。

 そもそも彼らの気配は、長らく自然と共生してきた里人であっても、容易に感じ取れるものではない。動物としての触角だけで、人間が獣に勝ることはできない。


 獣に襲われるのは日常茶飯事だ。その度に死ぬような思いをしてきた。事前に相手を察知できたためしなどほぼない。自然との距離感を心得ているつもりでも、怪我する時はするし、死ぬ時は死ぬのだ。微かな物音や痕跡を頼りに、危険を察知するのが関の山なのである。

 

 だが今は感じている。肌が粟立つほど、濃厚な気配を。

 短い雑草に覆われた地面の上を、バシャバシャ音を鳴らして駆ける音まで。

 

 やっぱり、おかしいぜ。普段のケダモノどもはこんなにマヌケじゃねぇぞ……。


 獲物を追いかける獣、あるいは追いかけられる獣でも、極力、足音を忍ばせる術をもっているものだ。そうでなければ追うものは飢え、追われるものは食われてしまう。


 にもかかわらず、獣たちの足取りは忙しなく、本能的な恐怖に我を忘れているようだった。


 様々な跫音きょうおんが混じり合い、こだまをなしているのが判る。

 それぞれの足音が異なっていても、音は一つに重なり、東から西へ、一筋の川のように流れている。

 

 東へ進むものは一匹たりともいない。

 だが、東にあるのは整備された街道だ。攻めてくるものなどいないはずだった。

 東から西へ駆ける、醜い化け物を除いては。

 

 おい、嘘だろ……?

 

 遺物の呪いばかりが気がかりだったザキムは、それが本当の脅威でなかったことに、ようやく気付かされた。

 

 森が震えている。


 恐れをなした獣たちが地を踏み鳴らす中、半狂乱の悲鳴を上げ、森の外から人族の群れまでやって来た。


 雨や泥が跳ね、静謐に満たされていた森が蹂躙されてゆくのを眺めながら、ザキムは最悪の予想が確信に変わるのを感じた。


 前へつんのめり、転げ、雨のカーテンを破り捨てるように手足をばたつかせながら、哀れな逃亡者たちが猛進する。血走った目に、こちらの姿が映っているようには見受けられなかった。

 

 森はなおも震えている。


 人波の向こうからバキバキと木々の悲鳴まで迫ってくる。

 枝葉を打つ雨の音は、こんなにも大きかっただろうか。

 なにかが砕ける音が続いた。次いでなにかが飛び散る音。


 森が、森が震えている!


「うわあああああああああっ!」


 断末魔。


 辺りを、逃げ出してきた人々が通り過ぎようとする。ザキムの肩に肩を打ちつけ、突き飛ばし、転がすようにしながら。肉体をもつ旋風つむじかぜのように。

 

 そして、それはやって来た。


 最も残酷な自然の脅威が。

 ヨトゥミリスが。


 エブンジュナの逞しく壮麗な木々を軽々と叩き割りながら!

 

 我に返ったザキムは、すぐさま踵を返そうとした。

 大金を手に西へ逃れようとした男だ。無論、その胸には生への狂おしいほどの渇望がある。


 しかしヨトゥミリスの足許には、もう一つの小さな影が駆けていた。それが彼の足を重くさせた。


 全身をびしょびしょに濡らした幼い少女だった。外からやって来たところを見るに、自然に不慣れな生活を送ってきたのだろう。そこここに切り傷をこしらえた様が痛々しかった。

 

 少女と目が合った。

 その唇が動いた。


 四つの形に。


 ゴムのように引き延ばされた時間の中、ザキムの目には、それが「た、す、け、て」の言葉のように映った。


 ところが禿頭の遺物堀は、頬の裏を噛むと、今度こそ踵をかえし駆け出したのだった。

 

 わりぃな、ガキ。俺じゃあんな化け物に敵うわきゃねぇんだ。

 ガキを犠牲にすれば、多少時間を稼げる。先に行った奴らは疲れきってんのか、それほど速くねぇ。追いつける。追いついたら、あいつら張り倒して生贄になってもらおうじゃねぇか。生き残るのは、俺だけでいい!

 

 腹の底で渦巻いたドス黒い感情に、さすがのザキム自身も顔をしかめた。


「死にたくねぇのは、どいつも同じなんだ!」

 

 己の善意をズタズタに引き裂こうとでもするように、ザキムは叫んだ。

 後方で泥の弾ける音が響いた。


「たすけてえええええぇぇぇッ!」


 追い縋る金切り声を、しぼり出された命の声を、ザキムは何故か閉めだすことができなかった。


 頭上で白い大樹の如く枝分かれした巨大な稲妻が閃いた。


 鼓膜を覆うように吹き付ける風の音は優しかった。雷鳴も悲鳴もすべてを覆い隠そうとしてくれるから。


 しかしザキムの脳裏には、先の悲鳴が谺し、胸を抉っていた。一歩を踏み出だす間に、様々な思いが身体中を廻った。


 いつの間にか、ザキムは足を止め、風の音を振り払っていた。手近な樹木に指先を這わせ、肩越しに背後を見ていた。

 

 四つん這いになって進む少女の姿があった。その背後から十フィートほどの巨体をもつヨトゥミリスが迫っていた。


 距離はもう残り僅か。三度も稲光が瞬けば、少女の身体は巨人族の醜い手の中で血の泡と化すだろう。


 誰のものか幼女の顔は、薄らと血で濡れていた。雨に血が流されると、それは赤い涙のように見えた。


 ザキムは努めて笑おうと頬に力を注いだ。真正のクズであり続けようとした。


 ……俺はそういう人間だろうが。


 何故か、足が震えた。踏み出せなかった。少女から視線が離れなかった。

 

 どうせ助けることなんてできねぇ。次に犠牲になるのは俺自身だぜ?


 意思に反して、震えた爪先が巨人へと向き直った。

 抜き放った短刀が、血を求めてキンと鳴いた。


 空に稲妻。

 その閃光が刃にギラリと危うい力を与えた!


「うおおおおおっ!」


 ザキムは駆け出した。短い刃を手に。

 

 なにしてんだ、俺は?

 

 己の終わりを感じながら。


「「「うおおおおおっ!」」」


 そして聞いた。


 己の咆哮に応える森の声を。

 東へと駆ける者たちの声を。


「「「うおおおおおっ!」」」


 泥を跳ね上げる遺物堀たちの唄を!


「おめぇら、ザキムに続けぇ! あのクソ巨人をぶっ殺せぇ!」


 ガンズの咆哮が遺物堀たちを奮い立たせた。


 ガオラト山の麓からぞろぞろと現れた馬車から、怒号を一つにした人族の群れが跳びだしていった。


 彼らは口々に拙い詠唱を口にした。たちまち風や炎の弾が、その手や口から迸り、ザキムの脇をかすめてヨトゥミリスを襲った。


 幼女に掴みかかろうとしたヨトゥミリスの手は弾かれ、血を飛ばし、ぶすぶすと黒い煙を吐き出した。


 巨人は致命傷こそ受けなかったが、いきおいに押され怯み、呻き声を上げて一歩後ずさる。

 

 なおもザキムは走った。仲間たちの援護に悪態をつきながら。


 その隣に、いつの間にか小柄な人影が並んだ。

 見ると、クソみたいに生意気なガキの顔があった。なぜか不敵に笑っていた。その手には、しょんべん垂れのガキには不釣り合いな巨大なつるはしが握られ、泥を掻いていた。


「クソがぁ!」


 ザキムたちは炎や風の間を駆け抜け、蹲った幼女の許へ辿り着いた。

 すぐ後ろにはヨトゥミリス。魔法を手で払いながら悔しげに唸る化け物がいた。


 ザキムは他人の寝床に忍びこみ宝をくすねるコソ泥のように、巨人の足許から幼女を抱え上げ、踵を返した。


 眼前の獲物を奪われたヨトゥミリスは烈しい怒りをあらわに、拳を振り下ろした。


 ザキムはステップを踏んで紙一重で躱した。

 跳ねた泥の塊が背を打ち、太い鞭で打擲されるような痛みがはしったが、足は止めなかった。


 その横を何人かの遺物堀が駆け抜けていった。皆、各々得物を手に、牙を剥きだし奮い立っていた。


 ヨトゥミリスはすぐに遺物堀たちに囲まれた。方々から魔法が撃ち込まれ痛みに喘いだ。その隙に刃物をもった遺物堀たちが腱を切り裂いた。血がしぶいた。巨人が体勢を崩し、仰向けに倒れた。


 巨人は暴れた。駄々をこねる子どものように、全身をバタつかせて暴れた。三人の遺物堀がそれを受けて弾き飛ばされ、血の塊を吐き出した。


 それでも攻撃の手は緩まなかった。皮膚を裂き、肉を抉り、眼を焼いた。大根のような指をさばいていった。大きな獲物を前にした蟻の大群のように、彼らは少しずつヨトゥミリスを弱らせていった。


 そして特大の稲光が空を埋め尽くした直後、ついに脳天へ大つるはしが叩き下ろされた。

 圧倒的な質量をもったそれが遠心力をくわえ、ヨトゥミリスの巨大な頭をざくろのように割ったのだ!


 巨人族はびくびくと痙攣し、血の泡を吹いた。遺物堀たちは間髪入れずその上へ跨ると、全身を滅多刺しにした。それぞれの顔が返り血で真っ赤に染まるまで、それは続いた。


 やがてヨトゥミリスは、ぴくりとも動かなくなった。跨った遺物堀の一人が、ふらつきながら立ち上がった。その手が血塗られた得物を掲げた。


「やったぞぉ!」

「「「おおおおおぉぉぉっ!」」」


 森が勝利の快哉に震えた。


 ザキムはそれを不貞腐れながら一瞥し、幼女を荷馬車の中へ運んでやった。

 幼女の顔は蒼褪め、苦悶の表情を浮かべていた。しかしその胸は荒く上下し、時折、呻き声をあげる。生きているのだ。


「……クソったれのガキが。てめぇの所為で危うく死ぬところだったじゃねぇか」


 ザキムは悪態をつくと、泥の上に唾を吐いた。自分の着ていた雨よけの外套を、幼女へかけてやり、荷馬車の幌を下ろした。


 ほっと胸を撫で下ろす。胸に当てた手のひらから、自分の鼓動が伝わってくる。生き残れた。


 ……俺も、クソガキも。


――ところが、そんな遺物堀たちの勝利の余韻も、すぐに絶望の風にさらわれて消える。


 エブンジュナの森の東方面は、ヨトゥミリスが暴れたせいで木々が薙ぎ倒されてしまっていた。いやに見晴らしがよくなり、雲の中を駆けぬける稲妻の様子はもちろんのこと、マクベルへ続く北東の街道までもが見て取れた。


「おい……なんだよ、あれ」


 だからこそ彼らは、見てはならぬものを見てしまった。


 絶望の巨影を。


 遥か北東、アオスゴルのあったその場所で立ち上がった、九つ頭のヨトゥミリスの姿を。


                 ◆◆◆◆◆


 ヴァニ・アントスもまた、〝九つ頭〟を前に正気を失いかけていた。

 悲鳴を上げるべきか、泣き崩れるべきか、あるいは乾いた笑いを笑って狂ってしまうか。


 判断を急かすように、空は割れ、絶え間ない雷鳴で雨音を切り払った。


 瞬けばモノクローム。

 幻影めいた光景は、大つるはしを手にした少年を数分前の過去へと引き戻した。


 樹冠を戴いたヨトゥミリス。

 その足許で跪くようにして倒れ込む少女。

 殺戮の王へと挑みかかる無謀なる挑戦者。

 そして、咆哮。


 あの時、ザキムは死を覚悟していたはずだ。遺物堀の男がたった一人で巨人族を討てるはずなどない。少女を背負って逃げられるはずもない。それどころか、少女を逃がすことすら果たせなかったに違いない。

 

 それでも走ったのだ。


 ヴァニにとって憎しみの対象でしかなかった男は、クズ野郎だと決めつけていた男は、無謀な正義の許にふみ出してゆくことを選んだ。


 ヴァニはその勇猛な決断をたしかめるように、幌の下りた馬車へ歩みよった。つい先程、ザキムが離れていったばかりの馬車だった。


 幌をめくり上げると、小さな息遣いが感じられた。薄暗い闇の中に小さな人影が蹲っていた。

 雨に冷えたせいか唇は青紫に染まり、表情は歪んでいかにも苦しげだった。それでも彼女はたしかに息をして、まだ生きていることを教えてくれた。


『――心ある者は気まぐれでの。時に過ちを犯しもするが、時に誰かを助けることもあるんじゃ』


 ヴァニは祖父を愛してきた。だから彼を守るため、彼の愛する世界を守るために魔法使いを志し、その言葉を守り続けることを誓ったのだ。


 しかし魔法使いの道を断たれ、最愛の祖父がこの世を去った後、遺された言葉の数々は、どれも虚しい幻影か、あるいは稚気じみた夢のように感じられたのだった。


 表面上は祖父の言いつけを守っていても、ヴァニの中には常に疑念がとぐろを巻いていた。戒めのために大つるはしを背負うようになってからも、胸の奥で、鼓膜の裏で、脳の芯で、祖父への不信めいたものが育ち続けていた。

 

 だが今ならば、もう疑うことなく、祖父の言葉が正しかったと分かる。自分の信じ続けてきたものが、真実だと胸を張って言える。

 祖父が何故この世界を愛し、自らの手足を失ってまで命を守ろうとしたのかも。

 

 じいちゃん。


 ヴァニは、そっと幌を下ろし、山のような巨人に背を向け歩き出した。


 俺も走らなくちゃ。無駄でも無謀でも、立ち止まってたらログボザの奴らと同じだ。動き出さなくちゃ、俺たちが生きてきたこの時間が全部壊れちまう。


 そんなこと、させるか……!


 遺物堀の少年は、馬車の前面へ回り、繋がれた驢馬の索具を外そうと試みた。

 すると、中途で肩を掴まれた。

 振り向くと偉丈夫が立っていた。


 祖父以外の家族をもたなかったヴァニが、唯一兄のように慕ってきた存在。

 ビル。


 この時、彼の口許に愛しいパイプはくわえられていなかった。濁った青い目には、普段の空虚をどこかに置き忘れてしまったかのように、濃い恐怖が融けていた。


「どこへ、行くんだ……?」


 震えた声が雨音を縫って届いた。ビルのそんな声音を初めて聞いた。


 目頭が熱くなった。

 あの九つ頭の化け物にミズィガオロスを滅ぼされれば、こうして仲間の新しい一面を見ることもできなくなってしまうのだ。


 ヴァニは震えた声で返す。

 湧き上がる恐怖を腹の底にまで押しこめながら。


「昏き森、遺物の荒野へ行く」


「そんなところへ行ってどうする? それより逃げる方法を考えなくちゃいけねぇだろっ!」


 ビルは珍しく気を取り乱していた。思い出したように身体中をまさぐりパイプを探り当てると、ぎこちない手つきで咥えた。葉はこめられておらず、火もついていない。それでも懸命にありもしない煙を吸いこもうとし、パイプに流れる雨水を飲んでむせ返った。


「離してくれ、ビル。時間がない」


「……お前、正気か? あんなの、どう見ても魔法使いがいくら束になろうと倒せるわけねぇ相手だぜ。逃げる算段を考えるべきだろうが。あの化け物から逃げる方法を」


「いや、逃げられない。この島に逃げ場なんてどこにもない」


「じゃあ、どうしろって――」


「だから、遺物の荒野へ行くんだ!」


 ヴァニは声を荒げ、ビルの手を振り払った。


 ちくりと胸が痛んだ。

 ビルに反発したのは初めてのことだった。まだ「じいちゃん」を「じいたん」と呼んでいた頃でさえ、このパイプ男に声を荒げたことなど一度もなかったのだ。


 けれどこの痛みも、死ねば感じることはできない。

 ヴァニは、ようやく荷馬車に繋がれた驢馬を放して、背中へ跨った。

 茫然として固まった遺物堀たちに一瞥をくれる。


「小さいかもしれないけど荒野にはまだ望みがある。だから俺は行くよ、オルディバルのところへ」


 そう言い残すと、ヴァニは驢馬に手綱を打ちつけた。

 驢馬が嘶き、棹立ちになって暴れた。乱暴な乗り手を振るい落とそうと身体を捻らせた。


 ヴァニは濡れた鬣に指を絡めしがみついた。拍車をかけて、前進を促す。

 すると驢馬は、いよいよ痛みに耐えられなくなったのか、嘶きながら駆け出した。

 すぐさまヴァニは驢馬に強化魔法を行使し、全速力で蹄を踏ませた。


 雨でぬかるみ、危険を増したヘンベの谷を通って。

 かつて昏き森と呼ばれた不毛の地へと。

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