めぐり会う偶然と、連なる世界の必然に

三角海域

1

 その出会いは偶然だった。

 風が桜の花びらを舞わせるある日、僕はあの人に出会った。

 研究棟からの帰り道。少しあいた扉の先に見える、一人の女性の姿。

 記憶を掘り返す中で、もっとも鮮明なビジョンとして浮かんでくるのが、あの姿だ。

 初めての出会いだったから、というのもあるかもしれない。

 僕がぼんやりとその姿を見つめていると、あの人は「見つめるのは構わないが、せめて私に姿が見える程度の距離でやってくれないか」と言った。

 それが出会い。どうしてそこで逃げなかったんだろうと思い返すこともある。今にして思うのは、きっと、あの瞬間から、僕はすでにあの人に惚れていたんだということ。

 なぜか珍客である僕をあの人は気に入ったようで、それからも僕はあの人を訪ねるようになった。

 研究室でコーヒーを飲みながら、楽しそうに論文を読みふけっている姿はとても美しかった。

「研究者としてなすべき科学とは証明だ。だが、私個人としてなすべきことは覆すことなんだよ」

 覆す。あの人はよくこの言葉を使っていた。

 それはどういう意味なんですか?

 僕が問いかけると、あの人は飲みかけのコーヒーを研究室の流しに捨てた。

「こんな何気ないことにまで、科学の理屈というのは存在している。この現象にはどんな意味があるのか。これはこうすれば説明がつくんじゃないか。科学の始まりはそこにある。コーヒーがカップから流れ落ちるのも、宇宙の膨張を理論で説明しようとするのも同じことなんだ。みながアインシュタインになることはできないが、彼の好奇心を模倣することはできる。10元連立非線形微分方程式にロマンを感じることができたなら、それでいい。科学の面白さというのは、ロマンから始まるのだからね」

 当時の僕は、相対性理論というものがあるなんて知らなかったし、特殊相対性理論と一般相対性理論というふたつの理論の総称が相対性理論というのだと教えてもらっても、なにがなんだか分からなかった。

 だけど、あの人の語る言葉はものすごくエレガントで、理論を説明するだけでもひとつの物語を聞いている気分になれたから、聞きいることができた。

 科学はロマンから。こういうことなのかな? と自分の中で納得がいったのを覚えている。

 春の涼風が夏のうだるような熱風に変わっても、あの人は変わらずそこにいた。

 汗を拭う僕を涼しい顔で見守って、冷たい水を一杯差し出してくれた。

「走ってきたのかい?」

「いや、ええ、まあ」

「どうして?」

「なんというか……えーと……言わなきゃだめですか?」

 ほとんど告白に近い返しをしてしまったのではと思うのだが、あの人は一瞬きょとんとして、次の瞬間腹を抱えて笑い出した。

「面白いね、君は。やっぱり面白いよ」

 結局、あの人がどういう風に僕の言葉を受け取ったのかは分からずじまいだった。

 まあ、しょうがなかったのかもしれない。

 だって、当時の僕はまだ中一だったんだから。




「それ、マジ? 野崎世志乃に会ったことあるって?」

 あれから数年たった。割と当たり前になった都会の雪を教室の窓から眺めながら、僕はなんとなくあのころの思い出を語った。

 数年。そこまで歳月を重ねたわけじゃない。だけど、何故か遠い過去のことにも思える、甘い思い出。

「なんで? 接点ないだろお前とじゃ」

「父さんの忘れ物届けにいった帰りにたまたま見かけたんだよ。で、ぼーっと見てたら、部屋に呼ばれた」

「マジかよ。超羨ましい」

 当時は科学というより、あの人が語る科学の話に興味があっただけで、話をきかせてくれるあの人自身のことを僕はほとんど知らなかった。

 彼女の名が野崎世志乃といい、高名な研究者であるということを知ったのは、父さんに彼女との出会いを話したことがきっかけだった。

 そのころ季節は夏から秋に移り変わっていて、汗がにじむこともなくなりかけた時だった。

 出会いから季節をふたつ越していたのだというのが驚きで、また喜びでもあった。あの人との距離が、少しずつ縮まっているように思えたから。

 父さんは大学の研究員をしていて、生物学が専門だった。

 野崎世志乃は量子力学を専門としているが、サブジャンル的に様々な研究に手をだしていて、そのひとつひとつで多大な影響を及ぼしていたという。

 特に、彼女の年齢が、当時十八歳だったということも大きい。

 十二歳で科学に興味を持ち、その数年後には理論で大学に研究所を構えるまでになり、その後は遊び場を手に入れた子供の様に雑多に研究を重ね、その闇雲に見える研究でいつも結果をだす。

 天才。

 示し合わせたように、誰もが野崎世志乃という女性をそう形容した。

「で? やっぱり美人だったわけ?」

「どうだろうな」

「うん? 実物はそうでもなかった?」

 容姿に注目していなかったというのが答えだが、どうなのだろう。

 巷じゃ天才美少女と呼ばれていたようだし、当時の科学誌に載っている写真を見る限り、とても美しい顔立ちをしているのは間違いない。

 ただ、記憶を掘り返すと、容姿云々よりも、論文片手に楽しそうに科学を語る姿ばかりが目に浮かび、顔立ちを細かく思い出すことはできないのだ。

「エレガントな人だったかな」

「エレガント? なんだよそれ」

「言葉そのままの意味だよ」

 僕は話をそこできりあげて、ギターケースを抱えて教室を出た。友人が慌てて後に続く。もう少し話を聞きたいようだったが、これ以上話すことはない。

 恥ずかしいとか、そういうことではない。

 秋を越し、冬の兆しが見えてきたころ、あの人は、野崎世志乃は失踪してしまったのだ。


 高校を出て、長い坂を下る。

 雪はパラパラと静かに降り注いでいて、先を歩いている女子生徒たちが雪を見ながらきゃっきゃっと騒いでいる。

「なあ、お前さ、野崎世志乃がいなくなる直前まで会ったりしてたんだろ?」

「ああ」

「じゃあ、なんでいきなりいなくなったか、心当たりとかないのかよ」

「ないわけじゃない」

「マジ? なんだよ、教えてくれよ」

「言っても信じないよ」

「言ってみなきゃわかんないだろ」

 最後に会った時は、いつも通りだった。

 心当たりといえるものがあるとすれば、大学の広場にあるベンチで一緒に缶コーヒーを飲んでいた時の会話だ。

「多世界解釈というのは、机上の空論だと思うかい?」

 突然、そう訊かれたのだ。

「多世界?」

「ここではないここの世界に、私がもう一人いるというのはあり得るかどうか、ということだよ」

「こことは違う、ここの世界?」

「そう。そこには私であって私でない者が存在し、君であって君でない者が存在する。時間の流れにifはないが、もし他の世界が存在するのだとしたら、一定であるはずの時間の流れの中にifを見出せる」

「ここじゃない世界に行きたいんですか?」 

 少し悲しかった。僕と別れてしまってもいいと言われているようで。

「別れじゃないさ。私は、違う私として君と出会うだけだよ」

「だけど、ここにいる僕はここにしかいないです」

 子供っぽいなと思う。中一なんてこんなものだと言ってしまえばそれまでだが、当時の僕は必死だったんだ。本当にあの人がどこかに行ってしまいそうだったから。

 しばしの沈黙。嫌われたかなと思った。あやまろう。そう思い、あの人の方を見た。

 息が止まった。

 口を塞がれたのだ。

 あの人の、唇に。

 短い口づけ。ファーストキスの衝撃で僕は放心状態だった。

「感覚というのは電流と同じだ。しびれたかい?」

 言葉がでてこない。僕は必死にうなずいた。

「ここにいる私は、君が私を観測しているからここにいるんだ。だから、君がいると考えれば、私はどこにでも存在している」

 そう言ってほほ笑む顔は、とてもエレガントで、ここにいることへの未練なんて微塵も感じさせなかった。

「ここにいるあなたが、ほかの〈ここ〉に行ってしまったら、僕の目の前にいるあたは、消える?」

「うむ、理解が早い」

「それなりに一緒にいましたから」

 嬉しそうに笑う彼女を見ていると、切なくなる。淡い初恋なんて言葉で片付けたくなかった。

「消える。というより、ただの信号になるのかもしれない。肉体は次元を超えるのを阻害する枷でしかないから、飛ぶとなると、私の存在を無機質な信号にしなくてはならないと考えている。他の世界を観測するためにはね。先人たちの多世界解釈の理論のおかげで、その答えにすぐさまたどり着けた」

「そんなことが、できるんですか?」

 できる。と答えるだろうか。わからない。と答えるだろうか。

 答えを待つ。

 そして、彼女は言った。

「ロマンがあるだろう?」

 どっちでもなかった。だけど、その言葉を聞いて、僕は本気なんだなと感じ取った。

 だって、科学はロマンが入口で、天才はそのロマンを現実にできるのだから。

「せめて」

「うん?」

「せめて、ここにいる僕が、あなたにメッセージを伝えることはできないんですか?」

「うむ。メッセージか。まだ私にも分からないが、信号となった私の存在がなんらかの波形であったとしたら、それに合う波形を重ねることができたら伝わるかもしれないな」

 そこで会話は終わり、それからはいつも通りに戻った。

 僕はもう引きとめるつもりはなかった。

 考えていたのは、どうやって旅立った彼女にメッセージを伝えるかということだけだった。



「で? それが理由なわけ?」

 呆れた調子で友人が言う。

「だから、話しても信じないって最初に言っただろう」

 コンビニで買ったおでんをつまみながら、僕らは並んで話していた。

「もしかしてさ、軽音部入ったのもそれが理由だったりするわけ?」

「言ったら信じるか?」

「純情だね、まったく」

 そんな純情ボーイに大根をプレゼントしようと言い、自分の大根を僕の容器に入れる。

 波形と聞いてエレキギターが浮かぶというのが凡人的というか、それ以下な気もする。

 でも、届けるというのに、ギターと歌というのは相性がいいように思えたのだ。

 あの人は本当に旅立った。

 ここじゃないここへ、肉体を捨てて。

 ちゃんと届くかどうか不安だ。

 それに、ここ以外の僕はちゃんと彼女と出会たのだろうか。

 そうであってほしい。

 連なり続ける世界の中で、偶然の出会いを繰り返すことができたら、あの時の出会いは必然だったと思えるから。だから、僕は歌を歌う。あなたに届くように。

「帰るか」

 友人が言う。

「ああ」 

「そういえば、曲のタイトル決めたのかよ」

「決めたよ」

 〈必然〉

「シンプル過ぎないか?」

「いいんだよ」

 この言葉の中には、たくさんの意味と思いがこめられているんだから。


 いつか、この曲があなたに届くといい。

 その時が、僕の思いがあなたに届く時だと思うから。

 めぐり合う偶然と、連なる世界の必然。

 願わくば、なるべく早くこの思いが信号(こくはく)となりますように。

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