第4話 将棋
「待ってたんだよ……」
そう言うと、リコルは微笑んだ。
よく知っている笑顔だった。ゲルダ・ノーマンスフィールドの、よく知っている男の子だった。
ただ、いまは会いたくはなかったし、笑顔を返せる余裕もなかった。
「
ゲルダは叫び、駆け出す。
雷精霊のそばを走り抜け、横目でうなずいてみせる。
音もなく雷精霊がそのあとをついてくる。
とりあえずいまは逃げの一手だ。リコルと闘いたくなかった。
しかし――火球が足元で跳ね、ゲルダは思わず足を止めてしまう。
「ちょっと、なにも逃げなくても!」
馬を駆り、リコルが背後から追いついてくる。抜け目なく、炎の壁をゲルダの逃げ道をふさぐように半円状に展開した。目の前がちりちりと熱い。手慣れた
意を決してゲルダはリコルにふり向き、言った。
「見逃してくれない?」
「ちょっと待って、ゲルダ。なにか勘違いしてない?」
ゲルダは首を振って否定した。
「ぼくはちょっとゲルダと
そうリコルは薄く笑った。
「本当に?」
「本当さ」
リコルの笑顔は見慣れたものだった。
大丈夫――ゲルダはそう思った。
そう思うことにした。
「じゃあ先手はぼくだね」
リコルがそう言うと、首に巻いていた火精霊を消した。
霊体化――場に伏せたのだ。
狭い盤。指し手の数は決まっていて、お互いが駒を打ち合うさまは、決められた楽譜をなぞる音楽の演奏そのものだった。
馬、精霊(縦横斜めに進め、場に伏せておくこともできる)、王、鷹、歩兵、槍――駒を操り、相手の呼吸を読み、ひとつの演奏のように棋譜を完成させていく。
宮廷の精霊使いは軍師の役割も担う、その演習の意味が持たされた盤上遊戯。
三人のなかではリコルが一番うまく、ついでゲルダ。
あまり上手ではなかったベルが、昔、負け惜しみのように言った言葉を、ゲルダは不意に思い出す。
「こんな風に毎日が毎日ずっと続くといいよね」
そんなはずがないのだ。
世界はうつろいゆく。それを受け入れられないのは、ゲルダただひとりだ。
ゲルダは走り出す。ゲルダの手番――王の移動だ。
だが、リコルの手番を待つ必要はない。
「雷精霊!」
一声、叫ぶ。
素直に雷精霊が駆けつけ、ゲルダの意を汲んで、炎の壁を力任せに突破する。
雷精霊に続けてゲルダも息を止め、走り抜ける。
肌が熱く、ちりちりと燃えるようだった。
背後でリコルが手番を無視され、目を丸くしているだろう。
ひゅう、と風を切る音がして、ゲルダはとっさに頭を伏せる。
祖母からお守りでもらった太い
黒く大きな雷精霊の背中に当たる。もちろん雷精霊はそれぐらいでは怯みもしないし、矢が当たった音すら響かない。
騎射――馬に乗ることと同様に誰でもできる基本的な生活の技術。
日々の糧を得るためのそれを、人に向けることがある――そう訓練されてきてはいるけれど、実際に自分がその的になることに対して、ゲルダはまったく想像できていなかった。
雷精霊が立ち止まる。
その巨体を盾に回り込み、ゲルダは走り続ける。
「いままで不思議に思ってたんだけれど、ようやくわかったよ」
自分に言い聞かせるように、リコルは喋り続ける。
「どうしてこの将棋には精霊使いはいないんだろうって。精霊はいるのにね。ゲルダにはわかる?」
それは問いかけではなかった。確信を持って発せられる言葉だ。
「ぼくはね、気がついたんだ。指し手が精霊使いだって――」
ゲルダは逃げる。リコルからではない。いつものリコルではなかった。まるで別人だ。彼はリコルではない。変質してしまっている。
精霊のせいなのか、それともこの冒険のせいなのか、あるいはその両方なのか――ゲルダにはわからなかった。
「将棋を支配するのは指し手だ。ぼくは優秀な精霊使いになって、この世界を動かしてみせるよ。だからゲルダ、ごめんね」
言葉だけの謝罪。ゲルダは思わず立ち止まって、ふり返る。
リコルの申し訳なさそうな表情と、目が合う。
あれは、誰だ?
醜く顔を歪めて笑うリコルに、ゲルダは絶句してしまう。
「精霊を召喚できたばかりで悪いんだけれど、この冒険はぼくのもので、王都への切符もぼくがもらう。だから、ほんとにごめん」
何を言っているのか、ゲルダには本当にわからなかった。
思わず地団駄を踏みそうになり――踏みとどまる。
ここは深い山の上で、ここにはゲルダとリコルのふたりしかいない。
つまりリコルの目を醒まさせることができるのは、ゲルダしかいない、ということだ。
いや、違った。
いまのゲルダはひとりではない。
雷精霊がいる。
ゲルダが呼びかけると、黒い巨体の上に載っている赤色単眼がこちらを捉える。
「いいわ、闘わせてあげる。あの、勘違いしてるリコルに現実を教えてあげなきゃ」
単眼が赤くひときわ強く明滅し、ひと目で喜んでいるのがわかる。
「行きなさい、雷精霊!」
ゲルダは叫ぶと同時にリコルに向かって駆け出す。
髪帯を外して手頃な大きさの石を拾って包む。布の端を握って手元で回転させる。狙いをつけ、遠心力をのせて投石する。
しかし、ゲルダの投げた石は、リコルには当たらなかった。リコルの兄弟馬・アーソルトの足元で、弾ける。外れたわけではなかった。ゲルダの狙い通りだった。ごめんね、アーソルト――ゲルダは心の中で謝る。
投石に驚いた馬が、後ろ足で立ちあがる。
馬上で姿勢を保つリコルに、隙が生まれる。
雷精霊にはその一瞬で充分だった。
電撃の速度で雷精霊が間合をつめ、リコルの懐に飛び込んでいる。
太い腕でリコルの弓手と首をつかみあげる。
リコルの顔が苦痛に歪む。轡から足が離れ、興奮した馬が逃げていく。
慌ててゲルダは止めようとする。それは、やりすぎ――。
「か、火精霊……!」
苦しげにリコルがうめく。
場に伏せてあった火精霊が実体化する。しゅるしゅる、と炎をまとった
意に介することなく、雷精霊はさらに腕に力を入れる。
リコルの顔がみるみる蒼白になり目の焦点がぼやけ始める。
「やめなさい!」
ゲルダは雷精霊にとりつき、強く手で叩く。二度三度叩き、制止を叫び、ゲルダは咳き込む。
火精霊がまきついているので燃えるように熱い。それでもゲルダは叩き続ける。
どうして精霊が精霊使いの命令に従わないのか――そのことに思い至る余裕はない。ゲルダは雷精霊を止めることしか頭になかった。
このままだとリコルが死んでしまう。変質してしまったからといって、彼を見捨てることはできなかった。リコルは家族だ。
だから、ゲルダは叫んだ。渾身のちからを込め、雷精霊を叩いた。
その時だった。
「詰めが甘いよ……」
リコルの声が聞こえた。
「いまのは王手だったのに……」
二足で立ちあがった
「なに言ってるの!」
ほっとして涙が浮かびそうになるのを、ゲルダはこらえる。
「でも、今日は私の勝ち!」
「精霊にふりまわされている精霊使いに言われてもなぁ……」
イテテ、とリコルはその場に座り込む。憎まれ口を叩いてはいるが、目からは嫌な感じが消えており、憑き物が落ちたような顔をしている。
ゲルダは視線を感じる。雷精霊の赤い単眼がゲルダを見下ろしていた。どこか戸惑っているように見える。
《――――》
「なに?」
《見敵》
「どこに?」
急に周囲の空気が、乾季の朝の、冷え切った匂いをまとった。
「って、うわあああ――!」
腰に太い腕が巻きつき、次の瞬間、ゲルダは宙を飛んでいた。
自分の声が遅れてついてきて、ズンと着地の衝撃が意識を飛ばし、気がつくとゲルダはふらふらと、それでもどうにか自分の足で立っていた。
元いた場所には――大きな氷柱が屹立していた。
その影から、リコルが顔を出し、ゲルダは安心する。
「ゲルダ、あなたね! 見損なったわ!」
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