第3話 旅立ち
でも――それも
山道とも言えない、斜面をもたもたとゲルダは登っている。彼女の背後では控えるように、音もなく後をついてくる雷精霊が、赤い単眼を油断なく周囲にめぐらしている。
目が合う。
じっとゲルダが見つめると、さっと視線を外し、引き続き周囲を警戒する。まるでトラブルがあればいの一番に飛び込んでみせると言わんばかりだ。
なにも起きてほしくなかった。
でも雷精霊はそうではなかった。
ゲルダは冒険へと出立する日のことを思い出す――。
*
ゲルダは圧迫感の正体に、気がついた。
寝室の隅に、雷精霊が立っている。つねに実体化しておく必要もないのだろうけれど――それとも霊体化できないのだろうか。
精霊が霊体化できない。
まさかそんな、とゲルダは自分の考えに思わず笑う。
彼と契約し、一週間が経っていた。
村をあげて出立の祭りがついに終わり、今日、ゲルダは旅立つのだ。
そうなのだ。どうしてかゲルダは、ひとりの
雷精霊を召喚できたから。
唯一の肉親である祖母は、精霊召喚の成功を心から喜んでくれた。その笑顔に、素直にうれしくなる。と同時に、申し訳ない気持ちにもなった。もし山越えが、冒険を乗り越えることができれば、ゲルダは村を離れなければいけない。王都での快適で優雅な暮らし――そんな仮定の話で、ひとりにやにやしているわけにはいかない。でも、気を引きしめるつもりが、どうしても頬がゆるんでしまう。
無機質な赤色単眼と、目が合う。浮ついているゲルダを諌めるような視線だった。
「なに?」思わず反発してしまう。「なにが言いたいの?」
《我問今後》
「――――」
ゲルダは不思議に思う。
それにしたって自分が知っていることぐらいはわかりそうなはずなのに。
これからなにがあるのか、雷精霊は理解していない。
その事実に、不満を感じる。
はっとする。そんなふう考えていることに気がついて、つい最近まで精霊ひとつまともに召喚すらできなかったというのに、ほんとうに自分の単純さに笑えてくる。
まあいいや。
ゲルダはうなずき、雷精霊に説明する。
これから私たちは山を越える。そこで力を示すことで冒険を達成したことになる。なにで判断するのか?
それは――。
「ゲルダ!」ベルが飛び込んできて、叫ぶ。「ほんとうに参加するの!?」
「ベル? いまさらそんな、どうしたの?」
「ってうわ、びっくりした。なんで雷精霊がいるの? ――あ、違った。リコルから聞いたから。あなた、本気なの?」
「本気もなにも、せっかく精霊が召喚できたんだから」
「わかってる? 王都にはひとりしか行けないんだよ」
知っている。山越えは勝ち残り戦だ。十四歳で成年と認められた儀式者が、最後のひとりになるまで死力を尽くし、争うことになる。精霊の力を借りるがゆえ、その闘いは凄惨なものになりがちだ。
「手加減しないから……」
ベルが思い詰めたように言う。忘れていたわけではない。ただゲルダはいまだに現実であることを認識できていなかった。
ことここに至ってようやくゲルダは自分がどういう立場にあるのか、把握しつつあった。ベルに、リコルに精霊の力をふるわなければならない――。
「やっぱりわかってなかったみたいね」
ゲルダはうなる。浮ついた妄想をしている場合ではなかった。きっとベルやリコルはずっと前から心構えをしていたはずだ。なぜならゲルダよりも早くに、精霊の召喚に成功していたのだから。自分の考えの甘さに、ゲルダは身動きが取れなくなってしまう。
その時だった。
すっと、ゲルダの前に黒い壁が現れた。
雷精霊が、ゲルダとベルのあいだに立ちふさがった。
雷精霊はベルに腕を伸ばし、彼女の首に太い指がかかりそうになって、ゲルダは気がついた。
「だめ!」
ゲルダの叫びにあわせて、ベルがバックステップで雷精霊の腕から逃れる。ベルは流れるように
しぼり出すようにベルが言った。
「……そう、覚悟は決まってるってこと」ベルが強い視線でゲルダを射抜く。「リコルは渡さないんだからっ!」
「え?」
返事はなく、ベルは寝室から出ていった。
少し湿度の上がった寝室に、ベルの強い視線がまだ残っているようで、ゲルダはとても居心地が悪かった。こんなふうに喧嘩したことなど、数えるほどしかなかった。もし喧嘩したとしても、いつもリコルが仲裁してくれていた。でも今回は別だ。彼には相談できない。そんなことをすればもっとベルの機嫌が悪くなることは目に見えている。
それよりもなによりも――。
「雷精霊!」
思わず、声を荒げてしまう。
「さっきのは、なに? 私はなにも言ってない。なにも指示してないよ」
赤色単眼が不思議そうに首をかしげる。精霊もそんなふうに疑問を示すのだと、場違いにゲルダは思った。
《敵殺。主求》
だん、とゲルダは強くその場で足を地面に打ちつける。
「そんなこと、求めてなんかない!」ゲルダはまた強く地面をふむ。「ベルは敵なんかじゃない!」
だん、と踏み込み、ゲルダは雷精霊の首根っこに飛びつき、頭突きをかます。
「いいか、雷精霊! こんど私の指示なく、ベルとリコルに手を出したら契約を解除するからな! 二度と勝手なことをするな!」
赤色単眼はすこしも動じたようには見えなかった。
「返事!」
《我了》
これでどうにかなるとは思えなかった。でもゲルダにはこうやって約束させることしかできない。契約は、絶対のはずだ。ただこの規格外の精霊にそれもどこまで通じるのかわからなかった。
だからゲルダはふたりと出発をずらした。遅れて出発した。そもそも馬が雷精霊を怖がって乗れず、始めから徒歩になってしまった。
*
でもこれなら、ふたりと闘わなくてもいいし。
ゲルダは息の上がった頭で、そう考える。山道はまだまだ続き、徐々にごつごつした岩肌のみになって緑も減ってきている。
一息、入れるために立ち止まり、下界をのぞむ。
その時だった。
眼下から風に乗って上昇してくる無数の影があった。
「やばい」
ゲルダは低くつぶやくと、あたりを見回し――少し戻ったところに大きな岩が折り重なっている場所を見つけると、すぐに走り出す。
岩場の影に走り込んで、もといた場所を見上げると、
「早く、こっち!」
ゲルダは叫ぶが、雷精霊は一顧だにせず、影が迫っくるのを待っている。すでになにがやって来ているのか認識しているのだろうか。
遠目でも特徴的な
傍目にも雷精霊の様子は変わったところは見られなかった。
翼竜が二体、左右から雷精霊に向けて急降下する。一体は上空を旋回し、様子を見ている。
きっと翼竜は驚いただろう。
雷精霊は避けなかった。
突撃してきた右の一体に向き直り、その頭を丸太のように太い両腕で受け止める。衝撃を感じさせない身軽さで、そのまま左から飛んでくる翼竜に投げつける。
絡まりあった翼竜は、ぎゃあぎゃあと喚き声を発して、どうにか一体は空中にその身を留めるも、さきに投げられたほうはあえなく墜落した。何度か地面で羽ばたくも、すぐに事切れる。雷精霊に受け止められた時点で、致命傷を負わされていたのだ。
雷精霊は、空中で体勢を整えているもう一体へ、放電した。そうわかったのは閃光が走ったからで、あいかわらず雷精霊に関する音は、気持ち悪いくらい聞こえなかった。雷が光れば、音が遅れて聞こえるという常識が、雷精霊には通じなかった。
二体が瞬く間に倒され、状況が不利と見て取ったか、上空の翼竜は逃げ出した。
「雷精霊、だめ!」
ゲルダは思わず叫んでいた。
翼竜は絶対に逃してはいけない。仲間を連れて復讐にくるからだ。それが彼らが
熱い風が頭上を吹き抜け、遅れて轟音が鳴って、上空の翼竜が爆発した。
ばらばらと、焼け焦げた肉片が落下する。
「
ゲルダは岩場を振り仰ぎ、目を見開いた。
「リコル!」
「やあ、ゲルダ。遅かったね、待ってたんだよ――」
蜥蜴様の
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