第6話 夜中の噂話

 ソディアたちが暮らすフォーリスの街は、王都と港町の中間地点に位置している。そのため、行商人たちはこの街を行商の休憩地点とし、夜の酒場は連日賑わっている。フォーリスは、そんな行商人たちが遊ぶ金で成長していった街なのだ。

 夜遊びとは、宴会や酒盛りだけではない。過酷な行商の旅に刺激を求める男たちも多く、彼らは艶美な女性との一夜を求めている。そのため、この街には子供が立ち入ってはならない風俗街が街の隅にひっそりと存在する。


 ドラムもまた、熱い夜を求めてその通りへと足を踏み入れた一人だ。

 すでに齢が二十五だというのに、彼には喜ばしい話がない。貧困な家庭で育った彼は、家族を養うために働くことで頭がいっぱいだったのだ。しかし最近では、新しく始めた武器の流通が上手くいき、少しだけ財布に余裕がある。今までは顔馴染みの行商人たちが夜の街に愉しそうに消えていくのを見送っていただけだが、今日は同行することにした。


 しかし、困惑した。いや興奮し過ぎたというのが正しいだろうか。

 今まで全く女っ気が無かった彼にとって、歓楽街に立つ女性は刺激が強すぎた。大きく開いた胸元も、惜しみなく曝け出された太腿も、その肉体の曲線美を主張するかのような蠱惑的なポージングも、何もかもが初体験なのだ。ドラムはついつい彼女たちから目を背けてしまい、声は小さくなる。そんな自分が恥ずかしくなり、自分にはまだ早かったと歓楽街を抜けようするが、それを仲間の一人が止めた。


「おいおい。ドラム。何事も経験だぜ?」

「しかし……よく考えたら、俺は女性の扱いもわからん。これでは、いざ二人きりになったとき……どうしていいかわからない」


 顔を赤くしたドラムを見て、仲間の男は彼の首に腕を回して自分の傍に引き込むと、「いいか?」と声を潜めて言う。


「いつか、お前にも本命と言える女が現れるだろう。しかし、そんなときに、お前がそんなへなちょこだと、女はどう思う? 頼りないと、幻滅するかもしれないな。テクニックが無ければ、愛想をつかされるかもしれない」


 何を言うんだと、ドラムはその腕を払おうとするが「まあまあ」と男は話を続ける。むしろ、熱弁すると言ってもいいくらいに、その言葉には気持ちが込められている。


「そうなると困るだろう? ここは、そういうことがないように練習する場所なんだよ。本命のために、練習しておくための場所なんだよ。現に、俺はここで学んだテクニックを駆使してあいつを嫁にした」

「……いいのか、こんなところにいて」

「いいんだよ。すべては、あいつを悦ばすためさ」


 ドラムは一時の情欲に駆られることはあるものの、真面目で善良な男だ。

 そんな彼には、堂々と自らの節操のなさを露呈する彼が汚らしく見える。男ならば、自分の伴侶に真摯であるべきだ。彼の軽い一言で、ドラムの決意は固まったといっても良い。


 ドラムは男の腕を強引に払うと、何も言わずにその場を去った。次第に、煩悩により鈍くなっていた思考が正常に戻る。


「俺には、ああいう所は向いていないのだろうな」


 ドラムは宿屋の近くの酒場で、酒を軽く呷りつつ呟く。

 今まで遊んできた経験が乏しいせいか、女生との話し方すら忘れてしまった。仕事の話ならばまだしも、他愛のない話など自分には無理難題といってもいい。そう考えれば、自分には女生との付き合いなど到底考えられない。


 ドラムはグラスの酒を呑みこみつつ、別れた仲間の言葉を思い出す。そして、あの男が言っていた『練習』というのも悪くはないかもしれない、と思い直す。勿論、一夜の練習などではなく、女生と話す練習だ。未だに女性とそういう経験がないドラムにとっては、それが初めの一歩として相応しいだろう。


 そうと決まれば、とドラムは酒場を見渡す。

 そしてカウンターに座っている一人の女性に目がついた。

 女性にしては長身痩躯で、背中に届く艶のある黒髪が蠱惑的だ。若くも見えるが、その憂いを帯びた表情は大人らしく、男の劣情を誘う。その女性はときに膝を組み替え、その短いスカートから覗かせる脚についつい目が行ってしまう。


「む……いかんいかん」


 ドラムは冷静になり、自分の暴走しがちな情欲を抑える。

 あくまでも女性と話す……つまりは、口説くための練習だ。その先を期待する方が馬鹿らしい。何も最初から上手くいくとは考えておらず、まずは当たって砕けろの精神で、ドラムは意を決して席を立った。


「隣、いいかい?」


 その一言を絞り出すだけでも、どれだけの酒が必要だったことか。素面であるならば、まずは出来ない行動だ。ドラムは緊張で変な表情になっていることを自覚しつつも、女性からの返答を待った。対する彼女は、ドラムを横目で一瞥すると「はい?」と首を傾げる。


「あの……何か御用でしょうか」


 これは想定していなかった言葉だ、とドラムは狼狽える。

 普通であるならば、口説きに来たとわかりそうなものだが、この目の前の女性はそれがわかっていない。そればかりか、先ほどまでの艶美な女性らしさは消え、あどけない子供らしさがその仕草から窺える。

 どうしたものかと、ドラムは混乱するばかりで次の言葉が出て来ない。その不審な男の様子に女性は首を傾げていたか、何か納得したのか「あぁ」と首を縦に振る。 


「もしかして、ご注文ですか?」

「そうそう、注文……って、あれ?」


 注文? その言葉に、ドラムは自分の過ちに気付く。

 よく見れば、彼女が着ている服装は客としては相応しくない。それは、どこからどうみてもそれは学校の制服だったからだ。学生が一人で酒場にいる異常性にドラムは混乱を深めるが、ひとつの可能性に気付く。


「も、もしかして……店の人……かい?」

「店の人……ですかね? 一応、お父さんのお店なのでそう言えるかもしれません。まあ、給金が発生しないので、やる気はありませんが。……何か注文があれば聞きますけど?」


 女性からの問いに「いや、いい」と答えると、ドラムは項垂れて、自分の失敗を反省する。若いとは感じていたが、まさか学生だとは思いもよらなかった。服装に気付かない時点で、どうやら飲み過ぎていたらしい。初めの一歩としては甘苦い経験となったな、と背中を丸めてその場を離れようとしたとき、彼女から声を掛けられる。


「あなたは、行商人ですか?」


 まさか話しかけられるとは思ってもおらず、ドラムは驚く。しかし、その簡素かつストレートの問いには「ああ」とすぐに答えることが出来た。それを聞いた女性は、「そうですか」と頷くと、言葉を続ける。


「王都からですか? それとも港から?」

「お、王都からだ……。なんだ、何か、欲しいものでもあるのか……?」


 不可解なその質問に、ドラムは眉を顰める。まるで自分の情報を聞き出すその言い方には、少しばかりの緊張感が走る。対する女性はあくまで自然体といった様子で、ドラムに言う。


「少し、お話しませんか? 王都の話を聞きたいんです」

「王都の――? それは、また……なんで」

「ほら、最近色々とあるじゃないですか。王都だと、どういうことになっているのか知りたくてですね」


 色々とある、というのは曖昧な言い方だが、どうにも女性が自分を罠に陥れようとしている風には見えない。ドラムの目には、彼女は本当に興味心だけで訊いて来たように見えた。そもそも、王都の話をして自分が不利になるような情報は無い。そして、相手は子供とはいえ、これは女性と話すことができるまたとない好機だ。


 ドラムは椅子を引き、女性の横に座る。

 それを見た女性は嬉しそうに微笑み、ドラムへと向き直る。


「私、シュガーと言います。あなたは?」

「ドラムだ。ドラム・マチェントフ」

 

 ドラムがグラスを持ち上げると、シュガーはそれに倣って自分のグラスを手に持つ。どう見てもそれは水だが、まだ子供なのだから当たり前だろう。それが何だか可笑しく、ドラムは口角を吊り上げた。


 チン、と二人はグラスを鳴らす。

 騒がしい酒場の隅で、大人と子供の微笑ましい歓談が始まった。


◆ ◆ ◆


 しばらくは子供らしい、というより学生らしい質問が多かった。

 例えば、王都とはどういう場所なのか。人はどれくらいいるのか。自分のような学生はいるのか。騎士とはどういう人たちなのか。行商人とはどんな仕事なのか、と等々だ。

 矢継ぎ早に質問が飛んでくるために、ドラムはその勢いに苦笑する。大人らしく見えたとはいえ、やはりまだ子供なのだなと微笑ましくも思える。シュガーは一通り訊ききたいことが終わったのか、「なるほど」と繰り返し頷いている。


「満足したかい?」

「はい。概ね」


 概ね、ということは、まだまだ足りないということだろう。

 ドラムはこの短時間で、目の前のシュガーという女学生についてわかって来た。行商人という仕事のせいか、商売相手の思考を読むことには慣れている。一癖も二癖もあると辛酸を舐められる取引も多いが、この女学生はとにかくストレートで単純だ。策や罠などを考えないタイプであり、裏表がないために思考が読みやすい。


「で、他に何が訊きたいんだい?」

「……なるほど、お見通しというわけですか」


 シュガーは不敵な笑みを見せて、勝負はこれからだ! という雰囲気を醸し出すが、ドラムからしたらただ遊んでいる子供のようにしか見えない。それに対して腹が立たないのだから、完璧に子供を相手にしている気分なのだろう。これでは、女性と話す練習にはならないのだが、ドラムはすでに本来の目的を忘れていた。


「今までのは、ドラムさんの口元を緩ませるための質問でしかありません。本当に訊きたいことはこれからですよ」

「ほう……?」


 ドラムは頬杖をつきながら、何を訊くのだろうな、とシュガーの話に耳を傾ける。

 シュガーは人差し指を突き出し、なぜか得意げな表情で言う。


「ずばり、星が消えた事件についてです」

「……ふむ」


 それはまた、意外だ。

 少なくとも、この年頃の女の子だと、もう少し興味があるものがありそうだが、本命が『星崩し』の話題とは。世界情勢だとか、政治だとか、経済だとか、そんなものに興味が無いような顔をして、実のところは勉強好きなのだろうか。


「それで、ドラムさん。星が消えた理由とか、何かわかってないんですか?」

「……あれから一週間が経つが、国から発表は無いな。突然の事件に、何にもわかってないんじゃないか?」


 ドラムがそう言うと、シュガーは目に見えて肩を落とす。

 どうやら当てが外れたらしい。ドラムとしては勝手に期待されて、勝手に失望されても困るだけなのだが、なぜだか罪悪感が芽生えて来る。これは、情報ではなくドラムの考えだが、「だが」と少しだけの声のトーンを落として言う。


「発表が無い、というのもきな臭い」

「きな臭い……?」

「一週間だ。あれから一週間過ぎたっていうのに、何も言わないっていうのは……言えないことがある……とも考えられる」

「おお……。つまりは、国は国民に何か重大なことを隠していると!」


 シュガーの様子は一変し、目をキラキラと輝かせている。

 やはり勝手に期待されるのも困ると考え、ドラムは「今のは俺の考えだぞ」と一言付け加えておいた。しかし、どうやら収穫アリとシュガーは捉えているらしく、元気よく「ありがとうございます!」と頭を下げて、話を聞いていない様子だった。そればかりか、すでに彼女の中で話は終わったらしく、雑談に走り出した。


「いやあ、これでお姉ちゃんに良い報告が出来ます!」

「お姉ちゃん……? なんだい? お姉ちゃんが、星崩れについて調べてるのかい? そいつはまた、殊勝なことだ」

「星崩れ……? なるほど、星が無くなった事象をそう呼んでいるんですね! 勉強になります、ドラムさん!」


 そんなことすら知らなかったのか。と、ドラムは呆れる。

 彼はグラスの酒を口に含み、その濃厚な味と頭に直接流れ込んでくるような香りを味わう。今日はよほど酔っているのか、ドラムは少しだけ浮足立っている陽気な気分だ。そもそも、この目の前の少女が些細なことでもドラムを褒めちぎるのが良くない。女の子から褒められ慣れていない彼は、つい調子に乗ってしまうのだ。


「そういえば、星崩れと言えば、もっと面白い話がある」

「面白い話?」


 シュガーが食いついてくると、ドラムも「ああ」と頷く。

 少しだけ身を乗り出し、まるで秘密の話をしようかとしているような雰囲気だ。


「なんでも、あの日から、大陸各地で見たことが無い生き物が確認されているらしい」

「見たことが無い……とは、新種ということですか?」

「いや……なんでも、生き物としては異形らしい」


 煮え切らないドラムの言葉に、シュガーは首を傾げる。回りくどい言い方をしても良くないか、とドラムは話の肝を口に出す。


「目撃情報によれば、その生き物は頭は獅子、身体は山羊、そして蛇のような尾が生えていたらしい。そして、その大きさは約三メオル。これだけでも、見た奴の正気が疑える」


 酒でも飲んでいたんじゃないか? と、ドラムはふんと鼻を鳴らしながら言う。彼はそんな噂話を信じてはいない。むしろ、下らないと吐き捨ててもいる。しかし、シュガーはその話を聞いて、何やら真剣な表情で口元に手を当てて考え込んでいる。ドラムとしてはただの与太話だったのだが、愚直な彼女はそれを本当にあることだと信じ込んでいるようだ。


「……シュガー、とかいったかい? 言っておくが、どっかの誰かが酒に呑まれて見間違えた話だ。そんな化物が実際にいてたまるか」

「……いえ、多分、いますよ。お姉ちゃんの話が正しければ……ですが」


 シュガーがそう呟くように言うと、勢いよく席を立つ。ドラムはその意味深な言葉を怪訝に思い、少女を引き留めようとするが、彼女は慌てた様子で店の奥へと消えてしまった。

 なぜだか、良いように利用されてしまったなと思いつつ、ドラムはグラスに残った酒をすべて飲み干す。そして明日の仕事のために宿へと戻ろうとしたとき、酒場の奥から騒がしく走る音が聞こえて来た。

 ドラムが何事だと目線を向ければ、奥から学生服の少女が飛び出してきた。そして酒場を見渡し、ドラムと目線が合うと「あっ!」と指を差す。ここがシュガーの両親の仕事場だということを感じさせない自由奔放な振る舞いだ。そして、シュガーは彼の前で立ち止ると、深々と頭を下げた。


「ドラムさん! お話ありがとうございました!」

「あ、ああ。いや、こちらこそ……楽しかったよ」


 私も、楽しかったです! シュガーはそう言うと、酒場を横断し、また店の奥へと戻って行った。騒がしくも、どこか慇懃な態度でちぐはぐな少女だ、とドラムはシュガーへの後姿を見送る。そして、自分が酒場でかなり目立っていることに気付き、やや赤面しつつ、自分の宿へと戻って行った。


◆ ◆ ◆


 フォーリスの全景を見下ろせる山に、複数の動く影が見える。その大きさは人を遥かに越し、巨大な者は三メオルほどある。彼らはまるで獣のように息を荒げ、眼下に見える人里を睨みつける。


 彼らに意思を統率する言葉はない。

 彼らは、大いなる存在の兵士に過ぎない。

 故に、その思考は命令により統一される。

 

 灯りだ。光が見える。

 夜の世界に、無用なものが存在する。

 目障りだ。常闇の世界を照らす光は、実に目障りだ。


 我らが王の命令だ。我らが主の命令だ。

 光を消せ。

 光の世界に住むありとあらゆる命を奪え。

 静寂と沈黙が相応しい世界へと変えるのだ。


 急げ。奴らが現れる前に。

 あの憎き星剣士たちが動き出す前に……。


 集え。集え。集え。

 我らの王のために。我らの主のために。


 影の一体が、月だけが浮かぶ空に咆哮する。

 それに続き、彼らは空に吠える。

 狼のような遠吠えは、街にまで届いていた。

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