第5話 血に濡れた拳

 何かに逃げるかのように、ソディアは走り続けた。

 学校を出て、街の石畳を蹴り、気付けばそこは自宅近くの小さな公園だった。最低限の遊具と、公園を囲む木々だけがある。昔は広いと思っていた公園なのに、今では小さく見えてしまう。それが成長なのかとも思うが、同時に寂しくも感じる。


 ソディアは呼吸と気持ちを落ちつけるために、公園のベンチに腰を掛ける。

 途端に心臓がうるさく跳ね出し、耳元で鼓動を刻む。右拳も本格的に痛みが増し、もしかしたら手の骨が折れているのでは考える。


「でも、私は、これで――あの人たちを――」


 すでに、記憶は鮮明だ。

 箒を握った瞬間から、シュガーに取り押さえられるまでのすべての出来事を憶えている。そのとき、何を思い、何を考え、何を感じ、何をしたのか。それらすべてが、自分のものであることを理解している。


 信じられない。しかし、これが事実だ。

 自分でも理解している、逃れられない現実だ。

 耐え難い、真実だ。


「はあっ……! はあっ……! はあっ……!」


 思い出すのは、女学生たちを一方的に殴っているときだ。

 あのとき、好き勝手に遠くから言葉を投げる女学生に腹が立ち、一人ずつ潰していくことを決めた。やけに口が回るようだから、口を潰そうと顔面を強く殴った。固い顎に拳がぶつかろうとお構いなしに、とにかく何度も殴った。しかし、途中からジャンジーがミントの腹部を殴ったということを思い出した。ならば、それをやり返してやろうと、腹部を思い切り殴った。そして自分の拳で、倒れていく姿に、ソディアは――。


「私は、楽しくなっていた……」


 人を傷つけることを、楽しいと思ってしまっていた。

 否定しようにも、それはできない。誰でもない自分が理解していることだからだ。

 なぜ、こんな凶行に及んだかはわからない。シュガーに暴力はいけないと注意したばかりだというのに、なぜ自分がそんな馬鹿なことをするのか。頭に血が上ったから? ということは、自分は怒れば、こんなにも躊躇なく、楽しんで人を殴れるような人間だったのか。


 女学生の最後の言葉が、頭の中で蘇る。

 この、化物! と。


「その通り、だよ……」


 再び血に濡れた拳を見る。

 これが、人の手なのか? 他人を楽し気に傷つけ、真っ赤に染まったこの手が、人のものか? 人間というのは、助け合って、手を取り合って生きていくものじゃないのか? 自分のこの手は――もう、誰かの手を取れないほどに汚れているのでは?


 自分は人間とは相容れない、化物なのでは?


 そんな自問自答を何時間続けたことだろうか。

 すでに陽は落ち、静寂の夜空が広がっている。彼女を照らすのは、公園の頼りない街灯だけであり、それが彼女を照らすスポットライトのようにも見える。しかし、壇上にいるのは彼女一人だけであり、彼女と供に物語を披露する演者はいない。


 化物は、一人だった。

 一人だと、思っていた。


「なーに、辛気臭い顔してるんだよ」


 聞き慣れたその声に、ソディアは俯いていた顔を上げる。

 十歳のときから変わらない小柄な体躯。妹であるシュガーと同じ黒髪だが、ボブヘアで短く揃えている。丸い眼鏡の奥には鋭い三白眼が光り、今もベンチに座っているソディアをつまらなそうな目線で見下ろしている。


「ミント、ちゃん……」


 ソディアが彼女の名前を口にすると、慌てて赤く染まった右手を背後に隠す。ミントもすでに知っている事実ではあるが、やはり自らの暴虐の証を見せることはできない。

 その様子を見たミントは、深く溜息を吐いた後に、ソディアの右隣に腰掛ける。そして、彼女が背後に隠している右手を引っ張り出した。ソディアは抵抗することもできたが、幼馴染の不機嫌な様子を目にして逆らうことが出来なかった。

 ミントは、抵抗を見せずにソディアの赤い右手を触診する。自らの手もまた血で汚れることも気にしていない様子だった。


「全く……腫れてるじゃないか。慣れてないのに、何度も殴るからだ」

「あっ……えっと」

「大事には至らないとは思うけど、私は医者じゃないから、明日ちゃんと病院に行って診てもらうんだよ」

「う、うん……」


 ソディアがそう頷くと、ミントは右手から手を離して「さて」と佇まいを直した。それはまるで、やるべきことはやった、と一区切りをつけるような素振りで、ソディアは形容し難い不安感に襲われる。しかし、そんな不安感を拭うかのように、ミントはあの日のような柔らかい笑みを見せながら言うのだった。


「ごめんね、ソディア」


 ごめん。謝罪の言葉。

 全くの想定外の言葉に、ソディアは「え」と短く驚きの言葉を漏らす。どういうこと? と訊く前に、ミントは言葉を続けた。


「ソディアが手を出したのは、全部、私が弱いせいだ。ソディアが今日したことは、全部私のせいだ。ソディアが今抱えている苦しみも、悩みも、怒りも全部私のせいだよ」


 何を言っているの? 何を言い出すの?

 そんな慈愛の笑みで、私に何を謝っているの?

 訳がわからないまま、ミントの言葉は続いていく。


「そもそもは、私の『苛められていることを秘密にしたい』なんて、ちっぽけなプライドがいけなかったんだ。耐えることが、苛めに対する最善策だと思っていた。いや……思い込んでいたのかな」


 だから、耐えられないことを切り捨てた。

 切って捨ててはいけないものを、簡単に無かったことにしようとした。

 そんなことができるはずもないのに。


「その結果、妹を困らせて、幼馴染を傷つけて……ほんっと、私は馬鹿だった」


 何が天才だ。ミントは、そう言って力なく笑う。

 その表情が、彼女らしくもない表情が、ソディアの胸に刺さる。そして、その傷口から漏れ出すように、あふれ出るように声が飛び出る。彼女の言葉を否定する声。彼女の言葉を肯定できない声。

 

 それは、ソディアの本音だった。


「違うっ!!」


 ソディアは立ち上がり、今度は彼女がミントを見下ろしていた。あの柔和な双眸は見当たらず、眉に皺を寄せて、怒りに燃える瞳だ。そして、繰り返し「違うっ!」と喉の奥から吐き出すように言う。その様子に、ミントは少したじろぎながらもソディアに問う。


「なにが……違うっていうのさ」

「違うよっ!! ミントちゃんが謝ることなんてひとつもない! ミントちゃんがそんな顔して謝るのは絶対に違うっ!! 悪いのは……悪いのは……あいつらと、私だよ!」


 その言葉に、ミントは立ち上がる。

 小さな身体が大きく見えるような勢いが、彼女からは感じられた。そして、ミントは切り返すように「いいや、それこそ違うね!」とソディアに負けない気迫で言う。


「ソディアは……私のために殴ってくれた。私のために、傷ついてくれた! たしかに、暴力はいけないことだと思う。でも、それを今の私にはそれを否定することはできないっ! そして、否定もさせないっ!」

「な、なにそれっ! 卑怯だよ! そんなの反論にすら、なんてない。そんなの……私、何も言い返せないじゃん。こんな……を肯定するなんて、ミントちゃんらしくも、ないよ」

「……そうだね、私らしく、ないさ。でも……」


 ミントはそこで言葉を切る。

 そして彼女は呆れたように息を吐くと、肩を竦めて言う。


「ごめん。もう、いいよ。この話はこれで終わり」

「え、ちょっ……」

「多分、何度言い合ったって、互いに悪くないって言い張るだけだ。ソディアは、昔からそういうところは負けず嫌いというか、強情というか……譲らないよね。まあ、私も人に言える立場ではないけど」


 ミントは再びベンチに腰を下ろすと、膝を組んで、「ん」と隣を親指で指し示す。ソディアは怪訝に思いつつも、ミントに従ってベンチに腰掛けた。そして、何かを言い出すのかと思えば、ミントはぶっきらぼうに小指を出して来る。


「へ……?」

「これ以上の議論は平行線上で時間の無駄。だったら、約束しよう」

「……約束?」

「そう。こんな議論をもう起こさないためにも、互いに約束するんだ。まあ、約束してもらうって言い方が正しいかな。私はソディアに『迷ったら私に頼る』って約束してもらう」


 ソディアは、私に何を約束してもらいたい?

 ミントは小指を突き出したまま、そう訊いてくる。

 その手は右手で、小指を結ぶためには右手を出さなくてはならない。診たのはミントなのだから、ソディアの右手の状態も知ってのことなのだろう。それは、まるでソディアに喧嘩を売っているかのような、彼女の決意を試しているかのような乱暴な小指だ。


 ソディアは、それに応える。

 迷うことなく、痛む右手の指をゆっくりと折り、小指を出す。

 そして、ミントの小指の先に触れる。


「私は……ミントちゃんに『困ったときは私に頼る』って約束してもらう』

「……なるほど。よし、それじゃあ約束しよう」


 二人の小指が静かに絡まる。

 互いの体温を確かめるかのように、互いの血を分け合うように。

 赤い血を、痛みを二人で分かち合うように。


「よし、これで約束だ。私は困ったら、ソディアを頼る。もう、縁を切るだなんて言わない。むしろ、どんどん巻き込む。……これで、いいんだろう?」

「うん。私は……迷ったら、ミントちゃんを頼る。私って、ちょっと優柔不断なところあるから、結構頼っちゃうかもしれないけど……いいよね?」


 ミントは元気のある笑みで「勿論!」と返す。

 それを見て、ソディアもまた笑い返す。


 まだ何もかも終わっていないというのに、二人は救われた気がした。何かの重荷から解放されたかのような、晴れやかな心持ちだ。

 約束を交わした二人は、今までのことはすべて清算された。縁を切ると言われたことも、暴力を振るったことも。無かったことにはできないが、それでも前を向くことはできた。


 互いを、赦し合うことはできた。


「それで、その……寂しいんですが」

「え、ああっ!! シュガーちゃん!」

「シュガー……もしかして、ずっとそこに?」


 二人が座っていたベンチの後ろにある樹の背後から、シュガーが気まずそうに現れた。恥ずかしさと寂しさを足して二で割ったかのようなその表情に、二人は顔を見合わせて苦笑する。


「ああっ! なんかその熟年夫婦みたいなやり取り、やめて下さい! 私が入る隙間が無いみたいじゃないですか! これから私を主人公にした二人の攻略ゲームが始まるというのに、主人公よりも前にヒロイン同士でくっついてたら……可哀想じゃないですか!!」

「知らないよ、そんなこと」


 てか、攻略ゲームってなんだよ。と、ミントが冷たい目でシュガーに毒を吐く。その態度に頭が来たのか、シュガーは掛け声と供に跳躍すると、二人の間をこじ開けるように無理矢理座り込んで来る。そして、ソディアを抱き締め、至福と言わんばかりに破顔させて言う。


「ソディアさん……お姉ちゃんが苛めてきます。癒してください」

「えっと……ミントちゃん。もうちょっと優しく……」

「ちょっと、シュガー! そこは私のポジションだ!」


 姉が怒鳴り散らし両手でソディアを捕まえようとするも、妹はそれを横目でちらりと見ただけですべて躱す。シュガーの両腕の中にいるソディアは、苦笑いしながらただ振り回されるだけだ。


 しばらく、そんな騒がしい時間が流れた。

 何気ない、今まで通りのやり取りがすべて懐かしく感じられる。

 一度は切られた縁が、再び繋ぎ合わされていく。


 親愛なる姉と大好きな幼馴染に挟まれたシュガーもまた、笑顔だった。

 

 公園のか細いスポットライトに照らされた三人は、それに負けないほどに輝いていた。例え、壇上に三人しかいないとしても、三人いるから大丈夫だと言わんばかりの強いきらめきだ。


 夜空に浮かぶ青白い月が、少しだけ明るく微笑んだ気がした。

 しかし、漆黒の夜空が、それを赦すはずもなかった。

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