第4話 豹変
ジャンジーにとって、ミントを苛めることはストレス解消のひとつだ。
いや、多くある中のひとつとしか思っていない。そう言った方が正しいだろうか。
やけに頭の良い奴がいると聞き、その本人の姿を見たとき、こういう奴を自分の力で黙らせるのは気持ちが良さそうだ。そう思い付き、とくに何も考えず実行に移した。
結果として、ストレス発散には効果的だった。
頭が良い奴のプライドを力でへし折るのは、ジャンジーにとっては素晴らしく気持ちが良かった。一発殴っただけで、ガタガタと身を震わせす情けない姿を見たときは腹を抱えて笑った。口封じをしたつもりは無かったが、都合が良いことに口外するつもりはないことにもすぐに気づいた。その弱みに付け込み、陰湿な悪戯から暴力的な苛めを続けた。
しかし、最近は彼女も諦めているようで反応がつまらない。
何か刺激が必要だ。そう、新しい玩具が必要だ。
そして、求めているものはあちらからやって来た。
女性同士で抱き合っているなんて、そうそう珍しい光景でもないかもしれない。しかし、自分が口にすれば、その噂は数刻で全校生徒が知ることとなり、『嘘』が『現実』となる。しかも幸運なことに、新しい玩具は古い玩具の姉妹だという。ぴったりだ。ちょうどいい。まさに、自分が求めているものに違いない。
だというのに。
目の前の玩具の一体は、自分に楯突こうとしている。
それが、ジャンジーには気に食わなかった。
加えて、彼女が自分よりも容姿が整っていることも拍車をかけている。苦労して今のプロポーションを手に入れたからこそ、自分が劣っていることを実感してしまう。しかし、それは楽しみが増えるというものだ。自分には無いものを持ち、それでいて自分よりも優秀。そんな存在を、下から引き摺り下ろして、どん底へと叩き落すのが、ジャンジーにとっては何よりも愉悦なのだ。
「それで、あなたがお姉ちゃんを泣かせたんですよね?」
ミントをお姉ちゃんと呼ぶ長身の少女が、ジャンジーの前に立つ。
全く彼女を恐れない毅然とした態度で、静かに燃えていると表現が相応しい。激しい怒りこそ表面に出さないが、内心は怒りに溢れて今にも爆発しそうという感じだ。
その状況に、ジャンジーは『ちょうど良い』とほくそ笑む。
正直なところ、同性で抱き合っていただけでは脅迫材料として弱いと思っていたのだ。ここは一度、挑発して殴らせることで、それを弱みにしようとジャンジーは企てる。自分の身が危なくなるが、それは後ろの取り巻きを盾にすればいい。
ジャンジーの周りの女学生は苛立ち、「なんだお前!」と声を挙げる。
そんな彼女たちをジャンジーは「まあまあ」と抑える。
「相手にするだけ負けだよ。だって、こんな負け犬の妹だよ? あはっ。マジウケるでしょ。こんな情けない奴を『お姉ちゃん』と呼ぶだなんて。ああ、そう言っておくけど、あんたのお姉ちゃんってば、今でこそこんなに反応がうっすいけど、最初は大声出して泣き喚いてたんだよ? もうそれは、なさけなくって――」
「もういいです。喋らないでください」
シュガーの拒絶の言葉に『来るか?』とジャンジーは身構える。しかし、彼女の考えとは裏腹に、シュガーは手を出しては来ない。むしろ、自分自身の左手で利き手である右手を抑えてるかのようにも見える。それは、必死に自制している表れだった。
「暴力はいけないと思います。だから、私はあなたを殴りません。でも、これ以上お姉ちゃんに関わらないでください」
なんだそれは? ジャンジーは唖然とする。
挑発すればすぐに乗って来ると思いきや、意外とシュガーが冷静であることにジャンジーは驚く。これでは計画が台無しだ。そもそも、計画というには思い付きであるために想定外のことには対応しにくい。その反面、すぐに計画を放棄できるという利点もあるが。
「いやさあ、それは無理な話だよ。妹ちゃん。だって、知ってる? 君のお姉ちゃんってば、ちょっと頭が良いからって威張り散らして、まるで『私がこの学校の支配者』って顔してさ」
一度言葉を切り、ジャンジーは再び扉を蹴る。
すると、怯えていたミントが小さな悲鳴を挙げて、逃げるようにして倉庫内へと這入っていく。その様子に、再び女学生たちの笑いが起きるのだった。
「これがさ、あいつの本性だよ。ちょっと小突いただけで、こんなに怖がって。偉そうに踏ん反り返っているけど、小心者で臆病者。そんな嘘つきをちょっとお仕置きしたってさ、だーれも文句言わないし」
何よりも。
自分より上の存在を苛めることの快楽は堪らない。
こんな玩具を手放してたまるか。
「そういうことだから、お姉ちゃんはまだしばらく借りるね。でも、そうだね。今日はとびきりムカつくことがあったから、ちょっと暴力的になるかもしれないけど、さ」
そう言って、ジャンジーはシュガーの横を通り過ぎて倉庫内へと這入ろうとする。
この瞬間に、ジャンジーは妹が『やめろ!』と制するだろうと考えていた。やけに姉思いのこの娘ならば、そう行動することが容易に想像できる。その後、姉への苛めをやめる交換条件として、自分の身を差し出せと言えば、次の玩具が手に入る。
何もかも、上手くいく。そう考えていた。
想定外だったのは、もう一人の、取るに足らない少女の存在だった。
ジャンジーが這入る前に、それをシュガーが制止するよりも前に。
ソディアがジャンジーの前に立ち塞がっていた。
その背後には、未だに恐怖で震えているミントの姿もある。
「ソ、ソディア……さん?」
「はあ? ソディア……?」
ミントが怪訝な顔をして呟いた名前に、ジャンジーは反応する。ソディアという名前に心当たりはないが、恐らく自分の前に立っているこの女の名前だろう。地味で目立つ部分がなく、誰からも嫌われない反面、誰からも一定距離から好かれないタイプの人間だとジャンジーは見抜く。つまりは、玩具にしてもそこまで面白い素材ではない。
故に、興味なし。
「どきなよ。ウチは、あそこの玩具に用があるの」
「……ねえ? もしかしてだけど、いっつもここでやってたの?」
何のことだとジャンジーは考えるが、すぐに『この倉庫でいつも暴力を振るっていたのか』という意味だと気づく。彼女はまるで自分の成果を褒めたたえろと言わんばかりの笑顔で、語る。
「ああ、そうだよ。ここが、ウチとあいつの逢引きしてる秘密の場所。内緒だからね?」
「……どうりで、ちょっと使われてる形跡があると思ったんだよね。さっき、よくよく調べてみたら……ちょっとだけ血の跡もあったし」
ソディアは顔を伏し、その表情は正面にいるジャンジーからは見えない。
何を考えているかわからないために不気味ではあるが、所詮は地味で目立たない女。今や、ミントやシュガーといった上流階級を支配する立場になろうとしている自分にとっては、ただの弱者だ。故に、そんな存在に足止めされていることに苛立ち、再び扉を蹴る。
「あのさ、ウチらもそろそろ限界なんだよね。さっさとどっか行ってくれない? あ、それとも、あんたも一発殴ってく? 腹にしておきなよ? 顔とかは傷痕見えちゃうか――」
「もう、いいよ」
ソディアは左手を出し、ジャンジーの言葉を遮る。
彼女が怪訝に思った次の瞬間。
ソディアの振るった箒が、喉元へと直撃した。
「か、はっ……!」
何が起こったかもわからず、ジャンジーは後方へと体勢を崩して倒れる。
箒は木と柔らかい刷毛で出来ており、ジャンジーの喉元を貫かんと言わんばかりに直撃したのは刷毛の方だ。これがもし、木の方であったならば文字通り『貫いていた』かもしれない。
「お、お前、いきなり、なにすん、だ!」
喉を攻撃され、ジャンジーは思ったように喋ることができない。唖然としてた女学生たちがジャンジーに駆け寄り、「嘘でしょ?」「ひどっ」「ありえなくない?」とソディアへの非難の声を挙げる。
ソディアは右手に持った箒を振るって空を裂き、一歩進んで倉庫の外へと出る。自分へ向けられている目線とその本人たちを一瞥したかと思えば、ジャンジーの問いに答える。
「あなたの言葉が耳障りだったから」
「なっ!! ふ、ざけんなっ!」
溜らず、ジャンジーは起き上がり、ソディアへ向かって走り出す。仲間の制止も聞かず、ソディアの挑発に乗った形だ。その動きをソディアはつまらなそうに見ると、慣れた動きで箒を構える。両手で箒の柄を持ち、真正面に構えて敵を睨む。そして、短く息を吐くと、前へと飛び出しジャンジーを迎撃した。
一撃目はジャンジーのこめかみだ。
撃ち抜くように、彼女の右こめかめに最小限の動きで箒の柄を直撃させる。ジャンジーは全く反応できず、動きを止めて呻き声を挙げる。その隙をソディアは見逃さず、続いて右から左に向かって箒を振るう。
二撃目はジャンジーの両目だ。
刷毛の毛先で眼球の表面を撫でる。その痛みにジャンジーはたまらず両目を抑える。自ら視界を塞ぎ、その痛みに悲鳴を挙げ、すでに戦闘の意思はない。しかし、中途半端は許さないと言わんばかりに、ソディアは決着の構えを取る。
三撃目はジャンジーの顎だ。
下方から上方へ、地から天へ、刷毛ではなく木の先端を彼女の顎に目掛けて撃ち出した。直撃の瞬間、何かが折れたかのような鈍い音とジャンジーの間が抜けた呻き声が聞こえた。再び背中から倒れた彼女の姿を見れば、舌を噛んだのか口からは血が漏れ、歯並びが歪んでいる。どうやら顎の骨が折れたらしい。
その予想以上の凄惨さに、女学生たちは声にならない悲鳴を挙げる。
決してソディアには近づかないように距離を取りながら、遠くから罵詈雑言の言葉を飛ばすだけだ。今すぐにでも逃げ出したいのだろうが、ジャンジーを助けなければならないという助け合いの気持ちが彼女たちをこの場に踏みとどまらせている。
「助けないの、これ?」
ソディアが箒の柄で倒れたジャンジーを突く。彼女からの反応がないことから、気絶したらしい。
どうしたものかと互いに目線を投げかけて意思共通を図ろうとしたタイミングで、ソディアが言う。
「助けないなら、私がこの人を嬲るよ」
そう言って、ソディアは容赦なく箒の刷毛でジャンジーの脚を払う。まるで鞭で叩かれたような弾ける音が聞こえ、その強烈な音から女学生たちは痛みを察する。感情もなく、ソディアは続いて二発目――、いや合計すれば五発目を振るおうとしたとき、女学生の一人が声を挙げる。
「ま、待ってよ! 悪かったって! だから、赦してよ。もう手は出さないからさ!」
その声に便乗するかのように、他の女学生も声を挙げ始める。
まるで数は力だと言わんばかりの勢いであり、謝罪の言葉かと思いきや、その内容は次第にソディアへの非難へと変わっていく。
「赦してって言ってんだからさ、さっさとジャンジーを返しなよ!」
「この暴力女! ふつう、ここまでする!? むしろ、あんたが謝りなさいよ!」
「そうよそうよ! こんなことしてただで済むと――」
その罵声を打ち消すかのように。
甲高く、何かが折れた音が響いた。
それは、ソディアが持っていた箒が二つに折れた音であり、彼女自身が折ったものだ。ふたつに分かれたそれを足元に落とすと、ソディアはゆっくりと前へ進む。異様なほどに緩慢な動きだというのに、威圧感が彼女たちの脚をその場に縫い付ける。逃げなければならないはずなのに、脚が竦んで女学生たちは動けないのだ。そればかりか、口さえ開くことが叶わない。だからこそ、ソディアの声がよく届く。
「私はさ、別に謝って欲しいわけじゃないんだよ」
その一言に、彼女たちは息を呑む。
「だってさ、すでに手遅れだもん。もう、何をしたって許せない」
その言葉に、彼女たちの冷や汗が止まらない。
「だから、全員」
その言葉に、女学生たちは失禁する。
目の当たりにした、本当の狂気を前に、初めて恐怖の感情を得る。
ソディアの言葉は、それほどまでに恐ろしかった。
「皆殺しだ」
◆ ◆ ◆
目の前で、何が起こったのかシュガーはわからなかった。
ジャンジーがミントを苛めようとしたところを制止しよう……としたのは覚えている。しかし、そこで動いたのは箒を背後に隠し持っていたソディアだった。一体何をする気なんだと怪訝に思っていれば、予想外のことにソディアが手を出した。
それは、シュガーにとって信じられない光景だった。
ソディアは、シュガーにとって『優しいお姉さん』だ。口うるさい実姉とは違い、優しく包みこんでくれる太陽のような存在だ。やんちゃな幼少期では、やんわりと怒られるような経験もあったが、暴力を振るわれたことは一度だってない。ましてや、つい先刻には『暴力は駄目』と言われたばかりであり、その言いつけを守ってシュガー自身が手を出すことを自制していたのだ。
そんな優しい姉が。
ジャンジーを箒で吹き飛ばす姿なんて誰が想像できようか。
目を見張る光景に、シュガーは一歩も動けなかった。今、起きていることがすべて幻想なのでは? と、むしろ見間違い……そう幻視の類、それこそ夢であってくれと願うことが起きている。
向かってきたジャンジーが、ソディアの三連撃で沈んだ瞬間も、シュガーは信じられなかった。
違う。これは何かの間違いだ。
そもそも、ソディアは訓練科目を履修しておらず、あのような戦闘技能なんて有しているわけがない。だから、あれはソディアではない……? 違う違う。それこそ、違う。自分が、ソディアを見間違えるはずなんてない。だから、いや、でも――。
シュガーは考えることが得意ではない。
故に、真面目に思考すると堂々巡りに陥ることが多く、正常な判断ができなくなる。
だからこそ、考えることが好きな姉に依存している部分もあるのだが、現状は姉に頼ることができない。どうすればいい? 何が起きている? どういうことだ? 暴力は駄目ではなかったの? ソディアさん? ソディアさん? ソディア、さん?
「皆殺しだ」
その凄惨な単語を耳にした瞬間、シュガーは我に返った。
見れば、ソディアが女学生の一人の胸元を掴み、容赦なく右拳で頬を撃ち抜いていた。それを見た彼女たちも逃げたいのだろうが、腰が抜けているのかその場に倒れて震えているだけだ。一定のテンポで殴られている女学生の口元からは血が漏れ、すでに意識が朦朧としており、身体からは力が抜けている。反応が薄くなったことをソディアが確認すると、興味なさげに女学生から手を離す。
「次」
ソディアとは思えない冷淡な声が、女学生とシュガーの耳に届く。
そして言葉通り、ソディアは近くにいた女学生の胸元を掴み上げて、一方的な暴力を続行する。殴られている娘が何を言っても、容赦なく頬を撃ち抜く。しかし、彼女は途中で何かに思いついたように手を止め、嬲っている女学生に訊く。
「そういえば、ミントちゃんには顔じゃなくて腹だったんだっけ?」
「ふ、が……?」
「じゃあ、こっちか」
ソディアの拳が、女学生の腹部へと刺さる。まるで女子とは思えない鋭い一撃に、女学生の身体はくの字に折れ、胃にあったものが吐き出される。それは、胸元を掴んでいたソディアの手にもかかるが、全く意に介さぬ様子だ。女学生からは苦しそうな呻き声が聞こえ、すでに放心状態だ。
「一発で、終わり?」
そう言って、ソディアはその女学生を地面へと叩き落す。そしてまた、冷淡な声で「次」と他の女学生に向かって歩いていく。すでに彼女たちは怯え固まっており、抵抗すらできない様子だった。恐怖のあまり失禁する者すらおり、全員が何が起こっているか理解が追い付かないような顔をしている。
その内の一人が、シュガーだ。
こんなにも暴力的なソディアを、シュガーは知らない。
気付けば、シュガー自身の身体もわずかに震えていた。それを感じ、自分もまた『あの存在』に畏怖していることを実感する。考えたことがあっただろうか。あのソディアを『怖い』と思う日が来るなんて。
「シュガー……」
か細い声で自分の名前を呼ばれ、シュガーはその声の主を探す。
それは自分の後方、倉庫内からの声であり、衰弱しきっているミントの声だった。どうやら恐慌状態からは快復した様子であり、呼吸はまだ荒いが会話はできるようだ。
「お姉ちゃん……」
シュガーは姉が無事であることに安堵するものの、目の前の現状にどうしても喜ぶことができない。すでに彼女の思考の混乱しており、首を横に振りながらソディアを指差して言う。
「あれは、どういうことですか?」
「……っ! う、そだろ」
シュガーの指先の光景に、ミントもまた目を見開いて息を呑む。
ソディアは、すでに四人目の女学生に手を掛け、容赦なく暴力を振るっている。冷淡な様子な彼女であったが、今は愉し気に口元を歪ませている。まるで、弱者を虐げることに喜びを感じている暴君の姿だ。
身体の力が抜けたのか、ミントはシュガーに体重を預けるように膝をつく。
そして震える声で、妹へ問いかける。
「あれは、本当に……ソディアなのか?」
「わかりません。でも、私は見ました。私と一緒にいたソディアさんが、箒でそこの女を沈めたのを」
そう言って、シュガーは倒れているジャンジーを指差す。ミントはその姿に驚くものの、憐みの目を向けるだけで何も言うことは無い。自分を弄んだ存在よりも、大切な幼馴染の方が優先なのだ。
「ひとまず、やめさせないと。今のソディアは正常じゃない」
「……わかりました。任せてください」
姉の考えに、妹が動く。
小柄なミントの身体を倉庫の壁へと預けると、シュガーは一人倉庫の外へと出る。
そこには、すでに四人の女学生が転がっている。全員、まだ息があるようだが、すでに意識は朦朧とし、もしかしたら腹部を殴られた娘は、内臓が破裂しているかもしれない様子だ。すぐにでも助けを呼ばなければ、生命に関わってくる可能性がある。
ソディアは、五人目、最後の一人に拳を振り上げていた。
それを、シュガーが掴む。
ソディアとは思えない膂力だが、戦闘訓練を積んでいるシュガーはそれを止めるだけの力があった。二人の力が拮抗し、緊迫した空気の中、シュガーは言う。
「ソディアさん。もう、やめましょう。これ以上は」
「邪魔する気?」
じゃあ、お前も敵か。
その言葉に、シュガーは思わずソディアから手を離し、後ろへ跳んで距離を取る。すると、先ほどまで自分が居た場所に、ソディアの左拳が振るわれていた。それは拳を撃ち抜くというよりは、標的を掴むという動作であり、女学生からシュガーに標的が移ったことがわかる。
シュガーは体勢を立て直すと、腰を低くし迎撃態勢を取る。
身体は訓練通りに動くものの、心が闘争に追いついて来ない。こうしてソディアから攻撃されたという事実があるにも関わらず、まだ声を投げかける。
「ソディアさん! どうしちゃったんですか!! こんなの、あなたらしくないです!」
その言葉に、ソディアからの返答はない。
返って来るのは、無情な拳だけだ。
シュガーは苦い顔をしながらも、顔面に向かってきた右拳を最低限の動きで回避し、瞬時にソディアの懐へと身体を滑り込ませる。長身なシュガーが小さく身を折り畳み、ソディアの下にいる姿は奇妙でもある。
「でえいっ!!」
あくまでシュガーの狙いはソディアを止めること。
そのため、殴打の類は振るわず、彼女は足の動きを封じることを第一にしていた。ソディアの懐に滑り込んだシュガーは、その勢いで彼女の膝裏へと手を差し込み、脚を自分の腕の中へ抱き込むと、そのまま押し倒した。そのまま、倒れたソディアを捕縛すれば、ひとまずは彼女の暴走は止まると考えていた。
しかし、ソディアが倒れる最中。
その一瞬の光景に、シュガーは戦慄する。
通常であれば、人は背中から倒れるときに頭を守る回避行動を取る。それは、頭部への致命傷が生命活動に直結することを本能で知っているからだ。つまり、反射的に両手で頭部を守るのが普通だ。
しかし、ソディアは違っていた。
頭部を守るための両手を、あくまで攻撃のためだけに使おうとしていた。自分が背中から倒れていくというのに、その目線は膝に抱き着くシュガーの頬に向けられていた。それは、今からそこをぶん殴るぞ、という意思表示に他ならない。
いけない。やられる。
シュガーはそう瞬時に察するが、膝を抱えた状態では回避できない。守ることすらできない。そして、そう気づいた時には、すでにソディアの右拳がシュガーの頬へと突き刺さっていた。
シュガーの頭がぐるりと回転し、血飛沫が宙へと飛散する。どうやら口の中が切れたらしい。そして予想以上に鋭いその一撃は、シュガーの意識を刈り取ろうとしていた。腕に力が入らず、このままではソディアを止めることができない。それは、姉の願いを達成できなったことを意味し、同時に暴走したソディアを救えないということだ。
「だめ、でしょう、それはっ!!」
意地か、根性か。
薄れゆく意識を引き戻し、腕に力を込め、愛する姉を逃がさないように抱く。そして、最近はソディアとの距離が疎遠で、ソディア成分が足りていなかったことを思い出す。先ほども十分にハグしたが、まだまだ足りない。あの優しく温かいソディアを、存分に胸の内に抱きたい。
だから、この手は離さない。
「ああああああっ!!」
「っ……!!」
シュガーは、ソディアを押し倒すことに成功した。
守りを捨て攻めることに注力していたソディアは、後頭部を地面へ叩きつける。
慌ててシュガーは膝から手を離して全身を捕縛するものの、すでにソディアから抵抗するような力は感じられない。表情を見れば、あの凶悪な笑みは剥がれ、いつものあどけない顔のソディアがそこにはいた。意識はあるようだが、寝起きのようにぼうっとしている様子だ。
二人の戦いが終わったことを見届け、ミントが震える足で駆け寄って来る。
「シュガー! よくやった! それで、ソディアは……?」
「わかりません……。でも、どうやら……いつものソディアさんのように思えます」
それを聞き、ミントはソディアの顔を見る。たしかに、それは長年の親友のいつもの可愛らしい顔であり、見慣れた表情に安堵する。まだ呆けている様子のソディアの頬を、ミントが軽く叩く。
「ソディア。ソディア……大丈夫か? 具合悪くないか? 頭を打ったように見えたけど」
「あ、そういえばそうでした。こういうときって、無闇に動かさない方が良いんでしたっけ?」
「……まあ、しばらくは様子を見なきゃ駄目だな。突然、具合が悪くなることもある……。ソディア? ソディア? 意識があるなら返事をしてくれ。おい」
ミントは何度かソディアの頬を軽く叩く。
次第に意識がはっきりしてきたのか、自分に圧し掛かっているシュガーと、目の前のミントの顔を順に見る。二人の顔を何度か見た後に、突然「わあっ!」と驚いて焦ったように言う。
「え? あ、あれ? な、なんで、私、シュガーちゃんに押し倒されてるの? そ、それにミントちゃ――って、ああ! 話しちゃ駄目だったんだ! ご、ごめんね! でもやっぱり私――」
なぜか泣きそうな顔でミントに謝る姿に、姉妹は安堵する。
それを見たソディアは、意味がわからないといった様子で首を傾げている。
「ひ、ひとまず……退いてくれる? シュガーちゃん」
「もう少しだけソディアさんの身体を堪能したいのですが、お姉ちゃんの目線が怖いこともありますし、退きますね」
余計な一言は言わんでいい! という姉からの叱責を華麗に躱し、シュガーはミントの上から退いて立ち上がる。そして、口の中の血を地面へと吐き捨てると、その姿にソディアは驚き、慌てて立ち上がってミントの両頬に手を添える。
「シュガーちゃん! 口の中切れてるよ! ど、どうしたの!?」
「ど、どうしたの……と、言われましても……」
「……ソディア。憶えていないのか」
ミントの言葉に、ソディアは「へ?」と振り向く。
すると、ミントの背後に、先ほどまで罵詈雑言を並べていた女学生たちが倒れている光景が目に入って来た。信じられないものを見たといった様子で驚愕する姿をソディアは見せる。口元を手で押さえ、凄惨な光景に息を呑む。ジャンジーは口元から血を流して、歯並びが歪になっている。女学生の二人は、すでに顔面が腫れあがっており見るに耐えない状態だ。後の二人は目立った外傷は見えないが、動く気配がない。
ソディアは、その息を呑む光景に一歩後ろへ下がると、右手に痛みが走る。
見れば、血に赤く濡れ、腫れている。
強く拳を握ったのか、掌には爪痕が遺り、そこから出血している。
「なに、これ……どういう」
目の前の倒れた女学生たち。
血に染まった自分の拳。
まるで取り押さえたかのようなシュガーの体勢。
そして、シュガーの怪我。
「う、嘘……これ、まさか――」
「ソディア! 待って――」
ソディアが自身の暴走を察し、それに気づいたミントは彼女が混乱しないように落ち着かせようとするが、その前に決定的な一言が飛んでくる。
「こ、この化物!!」
それは、ソディアが最後に殴ろうとしていた女学生だ。
未だに腰が抜けているのか立つことは出来ない。しかしながら、口は良く回る。
「あ、あんた! 本当に人間なの!? こんなにも一方的に、こんなにもひどいことが出来るなんて、信じられない!」
一方的――? ひどいこと――?
女学生の言葉を噛み砕くように、ソディアは小さな声で繰り返す。
「あんなに、殴って! やめてって言ってるのに、あんたには人の心ってものがないの!? そ、それに……私は見たわよ! あんたが、楽しそうに殴ってるの!!」
やめてって言ってるのに――? 楽しそうに――?
女学生の言葉が、ソディアの心に棘のように刺さる。
それと同時に、ぼやけていた記憶が鮮明になっていく。自分の拳が人体の肌を破き、肉を震わせる感覚。許しを懇願する声を無視し、その声が聞こえなくなるまで殴る光景。今まで自分を見下ろしていた人間たちが、自分よりも下に、自分の力で屈服させる充足感と多幸感。
それらすべてが、自分の手で行ったことだと思い出す。
一方的に、ひどいことを、やめてって言ってるのに、楽しそうに。
それらがすべてが、ジャンジーたちがミントに対して行ったことを、思い出す。
「わ、私……私、なんて、ことを――」
「ソディア! あの時の君は……」
ミントがソディアを落ち着かせるよりも前に、彼女は走っていく。それを追いかけようとするものの、ミントの脚は未だに震えており、駆けることはできない。ならば、シュガーに頼もうと視線を向ければ、彼女は女学生たちの状態を確認しているようだった。
「シュガー! ソディアを――」
「お姉ちゃん! ちょっとまずいかしれません! 思ったよりも出血がひどい! このままだと――」
シュガーの声に、ミントは息を呑む。人が死ぬかもしれないという事実に、身が強張る。しかし、それ以上に怖いのは、ソディアが殺人の罪を犯してしまうということだ。何としてでも、彼女たちには生きていてもらわないといけない。
ミントは遠ざかっていくソディアの後姿を苦い顔で見ると、未練を断ち切るように顔を振り、シュガーへと指示を飛ばした。まるで、この間にもソディアが自分の手の届かないところへと行ってしまいそうな気がしたが、それを気のせいだと思い込むしかなかった。
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