CRAZY・下

 車の通る騒音で目が覚める。


 あたりは薄暗く、まだ日は昇っていない。ずしりと両腕に重みがあることを確認する。あのまま一つも体勢を変えずに寝てしまっていた。冷たい壁に片手をかけてかたまった体を起こす。あったかい体を抱えたまま、霧流が起きてしまわないだろうかと気がかりだったが意外とぐっすり眠っているみたいでうなりはしたが目が覚めることはなかった。


「ちょー無防備。ウケる」


 ははと笑おうとしたけど、急にむなしくなって、困りながら瞼を下した。


「そうや」


 霧流にもらった名前を呟く。自分の名前を耳にして、見えるものは何もなかった。けれどそれは大切な名前で、誰かに自分と他人とを分けるためにつけられた特別なもので、簡単には捨てられないだろう。塞がった目をこじ開け、現実味のない現実を直視する。そうしなければならない気がした。吐く息がだんだんと冷たくなって、いつしか物言わぬ死体と成り果てる日を想像しながら、今日という日を終わらせる時に備え、霧流に手向ける言葉を考える。そうしていると歪ながらできあがった文章が安っぽくて笑える。笑えている間はまだ自分に余裕があるんだと認識できた。鬱々と考えているよりはマシになれる。


 ベッドに放置していた携帯電話をチェックするとメールが一件入っていた。億劫ながらフォルダを開いて内容を確認すると、情報班を経由した事務所からの振込確認通知だった。返信を送ろうとテンキーをかちかちと押していたが最後の一文に折り返しの連絡は不要だと書いてあり、無駄になって文章を一括で消した。ため息とともに苛立ちも湧いてきて、ぱちりと携帯電話を閉じた。つまらないほど型にはまった思考と行動になにか変化が欲しいなんて、それこそ阿呆らしい考えがくるくる頭の中を駆ける。

 そしてそれは、いつも突然だった。後ろ肩から左胸にかけてぎりぎりと痛みを訴える。いつものように薬を飲もうとポケットを探したが、見つからない。そういえば引き出しにいれっぱなしだったことに気が付いた。息が上がる。苦しい。薬を取りに行こうにも抱えている霧流を一度起こし寝室からリビングに移動しなくてはならない。じっとりと脂汗が湧いてくる。


「そう、や?」


 タイミングよく霧流が眠たげな声で名前を呼ぶ。重そうな瞼の隙間で青い瞳が揺れた。


「ごめん。起こした?」


 うまく笑えただろうか。痛みが背景にいる中で、笑ったことなんてあまりない。それよりなぜ霧流が目を覚ましたのか疑問に思った。暗闇で表情なんてわかるはずないと高をくくってはみるものの焦りだけは伝わってしまいそうで恐い。


「ん、いや」


 曖昧に濁した言葉に、なにが示されているのか汲み取れないまま、霧流の目だけが責めるように見つめてくる。やましいことは無い。いや、隠し事という事だったらたくさんあるが、それはやましいとは違うだろう。


「湊谷、すっごい汗。どうした?」


 疑問形。こんどは俺が言葉を濁す番。適当な言い訳を考えては打ち消して考えては打ち消してを繰り返す。


「ちょっと悪い夢をみて」


 いぶかしげに首を傾けるから、もっと気の利いた言い訳ができたらよかったと自分を殴りたくなった。しかし霧流は特に深く気にする様子ではなく、額を流れ落ちそうな汗の玉をその温かい両手で拭う。それからそのまま首にぶら下がるように背に手をまわして抱きしめられた。


「悪い夢には安心がいいんだってさ」


「へぇ」


 霧流の手がゆったりとしたリズムで背を軽く叩いてくる。それはどこか安心感を誘うもので、痛んでいた心臓も落ち着いてきた。霧流の低い声で小さい鼻歌を子守唄のように聞いているうちに、本当にいい夢を見られるような気がしてくる。だんだんと眠くなってくる。俺が再び眠りに落ちる前、すでに霧流は眠っているようだった。けれど緩やかなまどろみの中、耳の奥にアップテンポな鼻歌が鼓膜を震わせていた。


 ガチャン。

 扉の閉まる音で目が覚めた。まただ。腕のぬくもりはすでになかった。今日もどこかへ行ってしまったようだ。深く息を吐いて、ざわざわしている心を落ち着ける。それからリビングの引き出しから薬を取り出し、いつもの一錠を服用してシャワーを浴びた。まだ湿っていた床のタイルはさっきまで霧流が使っていた証明にもなって、少しだけ不愉快になった。でもまぁ、拭きそびれた髪の毛からぽたぽたと雫が落ちるたびに腹立たしさは静まっていった。


「安らぐ心なんて、ふざけた字面してんな」


 またどうでもいいことがぽつりと浮かぶ。腹の足しにもならない単語一つに頭を振る。

 水滴を床にこぼしながら冷蔵庫からサランラップのかけられた料理を見つける。食べる気にもなれなくて、少し冷たくなった皿に触れはしたが、結局、元あったところに戻した。そのかわり残り少なくなった二リットルペットボトルのミネラルウォーターを空にした。透明なプラスチックを資源ゴミの袋に投げ込んだ。ビニールの擦れる音を耳に残し目をつぶる。ずいぶん年を取ってしまったと、年寄りに言ったら怒られそうな言葉が頭に浮かんで腹の水の中に沈下した。


「ほんとうに、悪い夢のようだ」


 答えがでないことを考える。霧流はなにに関わっているのか。いまどうしているのか。仮に通り魔だったら、俺に何か不都合はあるのだろうか。あいつも同じ遂行員だし、馬鹿な真似はしないだろうが、心配だ。不安の縮尺は知らない事から起きる心配だった。……こういう時は考えるより行動におこせ、だな。幸いにも俺はまだ生きてる。

 霧流の居場所を知る手立てとして、俺は情報屋、質権の七に電話した。本当はメールでやり取りする契約だから、電話をすることはタブーであった。けれどいまは緊急事態と見做し、俺は俺のルールに従い電話を選択した。

 三コールもしないうちに女の声。


「安くないわよ」


 あぁ、こいつはすでに俺の目的を知っている。そういうそぶりを隠した口調。情報を売る者として当然の答えなのか、比較する対象が無いため疑問は捨てた。


「知っている」

「あらそう、なら私の元に来なさい。そうすれば、代金はいらないわ」

「なんで」

「それを答えたらお金が発生するけど聞く?」


 疑問形に返答はできなかった。七にとって俺が不利になるようなことを言うメリットは無かった。ほかにあてがない以上、だから素直に信じようと決めた。


「どこにいる」

「茶猫が使う言葉で言うとB班が統括している、一四ブロックというところかな。それも人通りが一番少ない地下道。できるだけ早く」


 冷ややかな声。七の声から熱が消えた。真面目口調になにか事の異常差を感じ取る。課金して内容を知ろうにも、おいと声をかける間もなく切れてしまった。


 そこらへんにあった服を羽織って、珍しく頭をからっぽにして走っていた。出来るだけ早く七のいる場所に向かった。動機はいつものことで、気が付かなかったフリをする。今まで何回もフリを続けていたせいで、本当に気が付かなかったことにできないか、なんて考えてしまうほどだった。

 一時間も走らない間に、言われた通りの場所付近にたどり着く。地下道に着くなり、野太い悲鳴が聞こえた。正午にもならない時間帯なのに、ひと気がやけに少ないのは今日の天気が曇りだからだろうか。併せて取り壊し予定の廃ビルのせいで、やけにあたりが薄暗い。普段は貨物列車が通るゴォっという風の音以外、さして珍しい音は聞こえないはずだ。

 電車の通るトンネルの下。暗く湿った地下道はアートからかけ離れたスプレーで描かれた落書きと、ネズミが好みそうな泥汚れでコーティングされている。

 ずっと奥の光と影の間に七が立っていて、影の所に一体の死体と、今朝と比べるとだいぶ様子の変わった霧流が座り込んでいた。


「やっぱり俺は悪いのかな」


 余罪を指摘され、悔やむかのような声色。霧流の言葉には〝悪い〟の意味する主語が欠落していた。


「もっと早く殺していればよかったのかな」


 完全な霧流の独り言。入る余地などどこにもなかった。


「けど、俺は、おれは」


 咽び泣いているのだろうか。俺の立ち位置からは、背を向けている霧流が今、どんな顔をしているのか分からなかった。それ故に疑問形を投げつけずには居られなかった。


「なぜ殺した」

「腹が立ったんだ。俺がしたくてもできないことを平然と。それもためらいもなく、何度も何度も実行に移すその姿、存在が、……俺も、こいつのようにできたら良かった。俺も、あったらどんなにいいかって、思ってたけど、できなくて」

「憎いから、殺したのか」

「裁いただけだよ」


 察しの悪い俺でも気が付いた。霧流の前で血だらけで横たわるこの男が連続婦女殺害事件の殺人鬼だと。裁きか捌きかはこの際どうでもよかった。霧流は子宮狩りをするこの男を追っていた。だから同時刻、男が行動していると推定されていた時間帯に出かけていたのだ。


「霧流には無理だよ」


 少なくても罪のない人間を殺せるほど、霧流は狂ってはいないように思える。


「願ったとしても、お前にこんな狂った所業は為し得ない」


 付け加えて言った言葉に、ナイフでぐずぐずと肉を抉る音を聞いた。粘着質な体液と筋張った肉を切るくちゃくちゃとしたぬめり気のある音が耳に届き、決していい気にはならなかった。


「……こんなにも死体は無残にできるのに」


 突き立ては抉り、突き立ては抉りを繰り返す音。まるで一つの楽器かと聞き間違えるかのように一定リズムで刻まれる裂傷の音に、眉間に皺が寄る。


「それは死んでるからだろ」


 死体はあくまでもモノだ。生きていなければ、ただの固形物。肉塊として処理しようがゴミとして処理しようが結局は自然に還る。そんな程度の物体である。これが間違った解釈だと言われようが、死んでいるものにはすでに権利など無いのだ。あるとしたらそれは誰かの慈悲であって権利ではない。慈悲なんて第三者のエゴイズムから形成されているのだから。


「くやしい、くやしいよ」


 ぼんやりと呟くその声に、霧流の人格を見つけることはできなかった。


「なぁ、七。この死体はどうすればいい。いいアテを探してもらいたいんだが」


 取りあえずこの死体の処分の段取りをしなくてはいけない。説教よりも霧流の保身が先である。それに俺には倫理的問題を説く資格はない。霧流を咎めるのは、俺以外のくだらない人間の務めだろう。


「それは一五がちゃんと手配してる」


 七の明るい声に、みしらぬ誰かの計画的犯行だということがうかがえた。


「そうか、じゃあ霧流を連れてこのまま去ってもいいか」

「えぇ、終わったから構わないわよ。それに、黒猫も助けてくれてありがとう」

「それが報酬か」

「今回は一五のお願いだからしょうがないよね」


 狙われた女性、七を確実に助けることを条件に、霧流の場所を教え、霧流は七に目を付けた連続殺人鬼を殺す。七と一五というやつの筋書きが見えてきた。とんだ茶番だ。依頼は受けていないのに、七の護衛という依頼を受けて、報酬は連続殺人鬼の死体を片付けるという内容。建前だらけの計画的犯行。


「俺たちはさぞ、七の上の奴に気に入られてるんだな」


 自虐的に笑うと、場にあっていない疑問形を含んだ変な顔をして七も笑う。


「でも特別じゃないよ、野良猫を可愛がるみたいな感じだと思う」

「まぁ、利害関係は大事だしな。ありがとう」

「いえいえ」


 軽い口調にいくらか安堵を覚える。それじゃ、言葉に甘えて、警察が来る前に退散しなくてはならない。


「霧流、行くぞ。立てるか?」

「……るせぇ」


 静かに聞こえた、反抗の意。いつもよりとがった口調から察すると、霧流の精神はすこし不味いことになっていた。


「不機嫌かい」


 手を差し伸べると、やけに強い殺気を感じた。


「うるせぇ」


 さっきまで素知らぬ男に刺さっていたダガーナイフが俺に向く。その向けられた刃をよけるために後ろに下がる。


「キャパオーバー、か」

「喧嘩は良くないよ」


 七の気だるい制止に張りつめていた緊張をほどかれかけた。


「喧嘩だったらまだマシなのにな」


 ぽつりと本音をこぼすと、七は「それもそうね」と似たようなリズムで緩んだ口から言葉を産み落とす。

 血の付いたナイフを握る手は震えていた。狙いの定まらない手で、何を切れるのか考えるほど余裕はまだあったが、空が切られたその刹那、霧流の青い目は不穏な揺らぎを見せていた。


「じゃあね。茶猫さん」


 響いた優しさを孕んだ声は、地下道に残響した。七の足音だけがいつまでも鼓膜に張り付いて耳鳴りの原因へと変わっていった。曇りの太陽にさらに濃い雲がかかり光と影の境界線は消え、あたりは酷く薄暗くなった。緊張状態が続くなかぽつりぽつりと雨が叩きつけるように降り出す。ざらざらと落ちていく雨音に霧流が動揺した素振りが垣間見えた。ためらったその一瞬、霧流の後ろに回り込んで鉄臭いナイフを握った手を抑え込んだ。


「なぁ、そんなに欲しかったのか」

「やめろ」


 身動きの取れない霧流をコンクリートの地面に押し付けた。関節が軋む音が生身の体が伝わる程度にとどめ、影の落ちた目元に問いかける。


「あんなの貰ったところでどうするんだ。自分の腹でも掻っ捌いて埋めるか」

「訊くな、問うな、やめろ」


 羞恥なのだろうか、それとも心情を汲まれることに対しての怒りなのだろうか、正しい答えは本人に聞かねばわからないが、涙に咽び喘ぎながら冷たい地面に顔をこすり付けるその姿に、憐みを覚える。


「お前が欲しがる気持ちはわかるよ。でも俺は霧流が居れば十分」


 手を放し、抱き留める。擦れて傷ついた頬を重ねないよう気を付けながら、耳元で霧流だけに聞こえるように囁く。


「むしろ霧流だけがいい」


 安心、こんな気休め程度の好意で霧流の心は安らかにはならないと知っていた。だから溶けるように混ざる体温に無感動に言葉を吐けるのだろう。


「俺は汚い」


「みんなそんなもんだよ」


「湊谷にはわからない」


 鋭い瞳で見つめるから、ひるんでしまった。自分だって聞きたくない言葉を吐かれることは目に見えていたのに、その口をふさげなかった。


「だって、こんなにも狂っているもの」


 否定ができない一文は腹の奥底に刺さった。殺意性のあるセリフ。その実体のないナイフは紛れもなく霧流の口から放たれたものだった。


「……帰ろう。じきにここには誰か来る」


 先に剥がれたのは、俺だった。手放したわけではない。けど、この時ばかりは、突き放したように受け取られていても否定はできないのだろう。


 鈍色の空から垂れ流される六月の雨。赤と茶に汚した服は雨に濡れて重く引きずることになり、自宅に着く頃にはくすんだ色のペンキが滲んだような柄になっていた。

 ずぶ濡れになった体や服を引きずってきたのは俺だけが例外ではなく、霧流も右に同じ状況で、やけに生臭い体をこすり付けながら、ソファーに沈んだ。そのまま外じゃできないようなことを都会の排気ガスと人の血、天から流れた涙を体に塗りたくってキスやそれ以上をしているうちに、今日という日は初めから朝なんて来なかったような錯覚をしてしまう。


 やけに薄暗い窓の外は明らかに光を失い、人工的な電気で起こす明かりが無ければ互いの顔が認識できないほど、闇と隣り合わせていた。当然、明かりをつけるほどの気力が残ってはおらず、日の光を忘れてしまった部屋で空気の淀みのように霧流とふたりっきり。ソファーの上で埃のように沈殿していた。


 さしずめ、一般的な思考をしている人から見れば、俺も霧流も十分狂った思考の存在で、常識の有無を疑う存在だと思われるだろう。今日だって、表向きでは正義を振りかざした気でいる霧流も、結局自分の利己的思考回路で子宮狩りをする連続殺人鬼が羨ましくて殺した結果に過ぎない。女みたいに子供を作ることができない霧流が内面的な要素を隠して、私利私欲を正義的理由にすり替えただけである。フタを開ければただの醜い欲の塊だった。


 けれどそれ自体はどうでもいい。関係のない人間ならばこれ以上、霧流が悪い方向へと進むような刺激を与えないで貰いたい。俺の後残り少ない命のためにも、世界はもう少し優しくあって欲しかった。けどそれは、個人的なわがままであって、叶えられるものではない。そんなこと、とっくの昔に理解はできている。だからこそ、俺は、今日みたいな日を生々しい傷として背負いながら、誰かの犠牲の上で過ごしているのだろう。


 俺の上で静まりかえった霧流は、部屋のどこか端を見つめたまま。不意に霧流が息を止めているような錯覚をしてしまう。心音や呼吸が伝わるほど近くにいるのに、息を引き取るはずもない。錯覚を超えた幻覚。霧流の背に手をかけると答えるように肩から背へ手をかける。死んでいるわけがないのだ。


「湊谷、好きだよ」


 停滞して空気のようにいつまでもいつまでも、雨の音を聞いていた。秒針が鳴り響く静まり返った部屋で、おかしなことにこの時だけ、確かに心は安まった。


「俺も霧流が好き」


 当分、自分が起きる前にあの玄関のドアが開くことは無いだろう。そう思うと、やはり、安心した。


 やけにぬるい空気が床で霧散する。雨はまだ上がりそうにない。



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