CRAZY・上
*/入野湊谷の場合
狂うという日本語とクレイジーという英語は意味も発音も似ていると思った。だが「狂っている」の基準は人それぞれで計りとる物差しの長さはバラバラだ。何が正しく何が間違いかは相手の立場によって変わる。正義なんて時と場合で変化してしまうほど不安定なのだ。まるで宙に舞ったコインに等しい。でも結局、多数決を重んじる我が国の連中は一番多い答えが正義になるのだろう。
「くっだらね、」
なんて、朝早くからつまらないことを肥大中に膨らませていた。その訳はというと、誰かの正義が狂う事が起こる、と根拠もなく感じ取ったからだ。要因かもしれないことは、だいたい頭の奥底で渦巻くものだろう。
ここ数週間、朝日が上る前に霧流が出掛けるようになった。パーカーのフードを深く被って静かに部屋を出ていき、俺がいつも起きる時間には朝食を作ってなにも無かったかのように振る舞う。すぐに情報班に聞いてみたら該当するような仕事は無かった。本人は気付かれていないと思っているらしい。気にはなっていたが、いつも通り普段と変わらない霧流にわざわざ聞くこともできなかった。
今日も日の出前に玄関のドアが閉まる音を聴いた。またどこかに行ったのだろう。寝返りをうって隣を見ると充電器に繋がれた携帯電話がある。どこでなにやってんだか、と比較的軽く思っていたが、軽い内容じゃないようだと今朝のニュースで気付いてしまった。
霧流の「朝食できた」の声で浅い眠りから覚める。いつも通りのたんたんとした「普通」の朝を演じ始める。が、つけられた朝のテレビ番組は連続通り魔事件のニュースで妙な盛り上がりを見せていた。ニュースによると、犯行は朝方四時から七時。女性をターゲットとしていた。それも殺害された女性はみな、首を捌かれたあと腹にも刃を入れて子宮をずたずたにされているらしい。今回の事件は猟奇的で残忍だと安い解説者は唾を吐き散らかしながら言うのだった。
視界に入れて脳内で変換、そして根拠はどこにもない。ただなんとなく霧流に質問をした。
「あれやったの霧流?」
つまらない質問は案外当たっていたのかもしれない。女を殺したと思われる手で作られた朝食のワンパーツを口に詰め込んだ。
霧流は表情ひとつ変えずに「べつに、」と伏し目で答える。後ろめたい気持ちを無理矢理に押し込めているような気がする。気だけで違うのかもしれない。青い瞳はわざと感情を曇らせていた。
「まぁ、なんでもいいけど警察には捕まるなよ」
テーブルに肘をついて言うと、霧流はなにも答えず笑った。
「詮索、しないんだね」
「まだ証拠もない。憶測だよ」
「その割には決めつけているよね」
食器のカチャンとぶつかる音。テレビにうつるキャスターのつまらない言葉がいくつかの雑音に混じって聞こえる。
「べつに」
霧流が箸を止めたから、交代するように自分は食事を再開した。眠たそうにもとれるどこか気だるい動きで、霧流は半分以上残っている朝食をシンクの残飯コーナーにぶちこんでしまった。
「今日は本社で仕事あるからそっち行くね。なんかあったら絶対連絡しろよ」
こっちを一度も見ないまま、台本に記されているような台詞を読む。適当に返事をすると、すたすたと着替えをしに隣の部屋へ行ってしまった。
明らかにいつもと様子が違うことはわかってはいたが、本当に霧流が通り魔なのだろうか。常時では気絶させるほど人を殴ることですら嫌うのに、明確な自分の意思を持ったまま、あいつは人を殺すだけの精神力を持ち合わせていただろうか。それともただ、俺が気付かなかっただけなのか。
頭のなかではたくさんの疑問文が浮かび上がるが、どれひとつ解消されない例文となってしまった。味のある料理でもなんだか口の中がパサついて唾液が出ない。固形のまま呑み込むと食道が痛んだ。
「決めつけ、か」
くっだらね、と付け足して言おうと思った。けれど憶測を並べた自分のくだらねぇ思考を否定することにもなってしまう。むしろ俺の憶測の方が霧流の排他的な指摘よりくだらなかった。なにも言える言葉が無いから、口をつぐんで残飯にされたものと同じ物を腹に詰め込んだ。
満腹感を得ると急にどっと疲れを感じる。ため息を吐こうとしたとき、 ガチャン、と玄関の扉が閉まる音を聴いた。テレビから聞こえる囁き声と時計の秒針の音が残響する。そんな雑音に再度、疲れという重みがふりかかる。椅子の上で膝を抱えてうつむいた。ため息を吐き、右手で心臓あたりを握る。
痛み止の薬、まだあったっけ。
ギリギリと締め付けられる痛みに待ったはかけられず、深呼吸でもしてみようと思ったが、そんなのは簡易措置にもならない。原因は肺ではなく、傷んでいるのは心臓であることを重々承知であった。
効き目の薄れた薬でも気休め程度にはなるだろう。いっそ医者のやつも治療薬じゃなくて鎮静剤か麻酔剤でも出せばいいだろうに。治る見込みの無い病人によくやるよ、と自嘲気味に笑った。椅子からずり落ち、床に崩れる。縮こまった体は床に叩きつけられてもさほど変化はない。体全体の痛みは、鈍い痛みとして広がりすぐ消えた。
「……やっべ」
死期が近いのを知らせに来ているのだろうか。んな馬鹿な。
微睡みが襲い、さっきさんざん寝ただろうに、と冗談めかしに言おうと思ったがいつのまにか意識が暗転していた。
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