第3話 落とした少女を、羊は悔やむ。

暖かな大河を泳ぐ。

黄金の命の輝きに風がさざ波を立てる。

はるか遠くには太陽が金色の光を等しく注ぐ。

まどろみのなかにいた。同時にそれを俯瞰してみる自分がいて。

いつも求めていたあるべき居場所だと確信できた。

摩擦なく流れるこの流動は何だろう。

わたし??ぼく??きみ??あなた??


いのち

これは命なのだと、無意識に答えが湧きだす。

私たちはここから来て、ここへ帰ってくるのだと。


遅れて理解がやってくる。

どうして私がここにいるのだろう??

状況を整理していくごとに、一つの簡潔な答えが組みあがる。


「ああ、僕は死んじゃったのか。」


原型のない意識だけの僕が底へと沈んでゆく。

深く。深く。

入れ違いに気泡のような思い出が浮かんでは消えてゆく。

その一つ一つがひどく懐かしく、尊く思えた。

やがて光も届かない深淵へとたどり着いた。

音も光も無い、闇。だけど不思議と怖くはなかった。

失うものが何もないせいか、あるいはこの先なにがあっても何もないのだとわかっているからか。形もわからない僕がそこにいるだけ。

そこにはもう何の感情も湧かず、道端に落ちている小石のように、意味を持たなかった。


長い時間、闇を見た。

時間などないのかもしれない。

僕はそこにいた。

心を何処かに置き忘れたはずなのに、理性がまだ残っているのだけが不思議だった。

変化のない時間の中で、あるはずのない頭だけがぐるぐると高速回転していた。

まるで摩擦を求めるように「知りたい」なにかを求める理性が僕を生かしていた。


色々なことを考えた。

残された記憶を材料に、未来がなく反省すらも無価値になるとわかっていても、反芻を繰り返した。

そこに答えはなかったとしても、考え、考えて、自分がそこにいることを証明したいが為の戦争を延々と繰り返す。

そして遠い昔に自分で放った答えにたどり着く。


「つくづく僕は死にたくないんだなぁ。」


体を失っても、存在を主張し続ける命の図々しさと力強さに呆れたか、はたまた感心したか。世界がそのつぶやきに応えるように海底にソレが投げ込こまれた。


川底に落ちてきたそれは、銀の狼だった。

血濡れていない美しい体毛は艶やかに輝き、深淵に銀の光を散らす。

そっと拾い上げ、抱きしめると、激流のような「赤」が魂を染め上げる。

タベル、オイシイ ナカマ、アンシン ツキ、オイシソウ

タベル、タベル、オイシイ モット ナカマ、ナンデ

タベル、ツヨイ、ナカマ、イラナイ

タベル、タベル、ツヨイ

タベル、ヒトリ

ヒトリ、コワイ


イキル、ヒトリ?


ナンデ、イキル

タベル、イキル

イタイ、サムイ、イキル

イタイ、イタイ、イタイ、イタイ

イタイ、サムイ、コワイ、サムイ、イタイ


それは僕が殺した銀狼だった。


狼の記憶が体に注がれる。

あるはずのない空っぽの血管に、猛々しい激情が浸透する。

命が芽吹き返す痛みと回転に稲妻のような電流が走った。

色のない身体に生気が宿り、空の体が信号を受け入れた。


右足が、地を掴む。

泥のような地面を蹴って前へと進む。

身体から零れる銀を頼りに前へ、前へ。

命じると動くからだが何よりも楽しく、自然と笑みがこぼれる。

地面を蹴り、水中を巡るたびに、体が感覚し、少しづつ成長していった。

まるで踊るように、手足を伸ばす、回転する、呼吸をする。

身体の成長に応えるように溢れる光もまた大きくなっていった。


我を忘れて踊り続けると、指先が何かに触れた。

目を開け確認すると、それは壁だった。

触れると暖かく、柔らかな壁は僅かに光を通し、外の世界の存在を知らせていた。

気付けば僕は壁に囲まれていた。

裸の体一つすっぽりと入る程度の小さな繭。

繭の中に閉じ込められていた。


爪を立てるとぼろりと繭の一部が解けた。


「外に出たい」


圧迫感からではない、高揚感からの確かな欲求。

それに応えんと体がトルクを回す。


「外に出たい!」

何かが新しく始まりそうな根拠のない期待。

引っ掻き、こじ開けるように壁を毟る。


「僕は外に出たいんだ!!」


固い殻にあたり、肘で叩く。

ヒビが大きくなり、繭全体が軋むように揺らぐ。


「外に出て...」

体重を全て載せて殻を突き破る。


「「もっと「タベタイ」んだ!!」」「えっ!」


繭を満たしていた水が豪快に飛び出し、殻が割れた。

勢い余った体が土に投げ出される。


湿った土のにおいと、濡れた皮膚にかかる冷たい風の感触。

眩しすぎる太陽の光に目を細めつつ、体の「感覚」する感覚を思い出した。

ひゅうと息を吸い込むとぼろぼろと涙が出た。

制御できない喜びが、悲しさが、情けないほどの嗚咽と涙で表現するしかなかった。

赤子のように泣き叫ぶ。

何が悲しみか、喜びか分からぬ前に泣き叫ぶのは何故だろう。

妙に冷めた頭と、感情を爆発させる体が不釣り合いで可笑しかった。


「やっぱりどんな命も生まれるときは泣くもんだね~」


やけに気の抜けた声に目を向けると、そこには一人の少女がいた。

顔が真っ黒でふわふわの白髪、耳の上に生える角はまるで。


「世界へおかえりなさいだお嬢さん。はだかんぼだと風邪ひくぜ。」


伝承に聞く「羊の民」そのものだった。

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