第2話 エチュードを見て、羊は笑う。

朝の光だ。

周りに動く者もない。

一瞬ヒツジを奪われたかと慌てるが、昨日の出来事を思い出し、平静を取り戻し、落胆する。

静かな朝だった。

まるで自分一人がこの世界に漂流したかのように、世界を自分を異物のように疎ましく思っているようにも感じた。

「誰もここに僕がいることを知っているひとはいないんだ。」

そのことがあまりにも無防備で、信じられなかった。

帰る場所もなく、知る人もなく、生きる目的もない僕はただそこに生きていた。

何にも縛られない、何も持っていない自分がそこに生きていることこそが異物。

誰に言われたわけでもなく、世界から脅迫を受けたような衝撃。

それは自ら命を絶つには十分すぎる理由になる。


いてはならない。

死ねと言われているのではない。

いてはならない。

役割のない命など必要ないのだと。

いてはならない。

世界は最後まであなたに主権があるのだと諭す。


歩いていた。毛布をまとい、森の中を。

何をしているのか自分ですらわからなかった。

ただどこに立っていても、座っていても、「そこはじゃまだ」と言われているようで。

ふさわしい場所を探したかった。

すがるように歩いたが、どこもしっくりこない。

糸から逃れることを望んだ操り人形のように、なにかを失ったことだけを後悔して歩いた。

家族か、友人か、三頭のヒツジか、あるいは信心か。

もはや持っているのは体に纏う毛布一枚だけだった。


無意識に歩き続け、森の中。

ここでもない場所から逃げ続ける僕を追う何かを感じた。

ずっと見ている。ずっと追っている。距離を置いて。

かつて僕らが恐れていたもの「狼」だった。


こちらが走り出すより前に、悟ったか、もう駆けていた。

逃げ切れないのはわかっていた。

それよりも驚いたのはまだ僕が生きたいと思っていたことだ。

走り出したそれを思考が、理性が止めることは出来なかった。

獣のように息を切らしながら、森の中を傷だらけで走る。

頭だけがやけに冷静で、体が鉛のように重いのに必死で動き続けていた。

まるで自分が二人いるようだった。

頭の僕はあきらめているのに、体の僕があがいている。生きる為に。

何のために生きるかなんて聞いたら怒るだろう。

彼は生きるために生きているのだ。


走り、走り、躓いて転ぶ。

瞬時に後ろから重たい何かが被さる。

転がりながら抵抗し、手足をがむしゃらに動かし立ち上がろうとするが上手く立てない。

美しい狼だった。銀色で気高い狼。獣というにはあまりにも神々しく、尊かった。

爪の立った前足で喉元を踏まれる。それで僕の体は生きることを諦めた。

心身ともに生きることを諦めた僕は、せめて最後の景色だけでも楽しもうと決めた。

光をも遮る高く茂る森林の緑、つややかな狼の体毛、湿った土の感触、むせかえるような獣と汗の生の匂い、生暖かい血の味。そのすべてが主張し、こんなにも生きていた。

死ぬ間際までこんなものを隠しているなんてなんて仕打ちだ神様。

僕らはこんなにも感じることが出来たのに、おしまいだなんて。

悔しかった。何者でもない自分が美しいものを知らず、何者でもなく終わることが。

情けなかった、こんなものなのかと、こんなはずではなかったと、無意識に求めていたものはこれだと、世界と真理だと、気付いた時と鋭い歯が喉を裂く時が同じなのだと。

怒りが湧いた。

「ガアアッアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!じにだぐない!!」

体が沸騰し、右手が狼の腹を貫いた。

右手に激痛が走る。手先が鍋に突っ込んだように熱い。

狼が喘ぎ苦しみ悶える。右手が抜けない。左手で傷口を広げ右手を取り出す。

血だらけの手を振り上げ狼の腹を必要に殴りつける。

裂けた弱い部分を狙い、絶命させることだけを体が心が望んでいた。

抵抗する狼の爪に引き裂かれつつも拳を振るい続けた。


獣のような自分の喘ぎ声で我に返る。

狼は絶命していた。


銀色の毛並みは血で汚され、先ほどまであった神々しさは消えてしまった。

目と口を開き、苦悶に満ちた表情はまるで世界を恨んでいるようで。

僕は笑ってしまった。これまでになく素直な心で、笑っていた。

ああ、なんて平和なんだろう。僕は生きている。

教本を焼き捨ててやりたいくらいに単純明快。これが平和なのだ。

僕は長らく美しい世界に騙されていた。

これが平和だ。こんなにも清々しく、簡潔な生命が僕以外にいるだろうか。

誇らしかった。いっそのことここで僕も死んでしまえば勝ち逃げできる気がした。

僕の人生の最高天だった。


「おめでとう狂人。生き残ったな。」

低くおどろおどろしい、しわがれた声。

振り向くとそこには、背の高い蛮人が立っていた。

クマのような毛皮を被った中年の男が怪しげな笑顔で、こちらに近づく。

血まみれの僕に動揺することもなく、無遠慮に近づくその男はいきなり僕を突き飛ばした。

鋭い黒曜石のナイフが向けられる。

「選べよ生まれたての空っぽ野郎。死ぬか。演じるか。」

僕は第二の人生を演じることにした。

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