羊の王

ヒツジノ

第1話 電気がなくとも、羊は鳴く。

その者空より現れ、平和を伝える。

その者曰く、「災いは天から降るものでなく、己の内から湧き出るものなのだ。」

その者聖なる平和の術を説き、夜空へと帰った。

彼らは羊の民。

この世乱れるとき再び現れ、救いを授ける。


薪がはじける音が、僕を正気に還した。

焚火の暖色が本を照らし、インクが熱を反射させる。

かつて、遠い過去、僕らの先祖は羊の民と交流し、平和の術を世界へと広める導師として世界を旅した。

多くの場合、騙され、凶弾に倒れ、あるいは行き倒れてその数を減らした。

それでも打たれ強い偉大な先祖は、何もない平野に拠点を移し、ヒツジを飼い、遊牧の民として生き残った。


僕が生まれる数年前、「双陽」という名の災悪が世界を襲った。

多くの機械が機能を失い、数世紀前の文化水準まで、人の文明は衰退した。

時代遅れの生活をしていた僕たちにはあまり影響がなかったけれども、世界は蜂の巣をつついたような騒ぎだったらしい。

飛行機は空を失い、車は止まる。けれどもヒツジは草を食み、脱柵する。

僕の生活には関係していない出来事だと思ったけれども、どうやら世界は繋がっている。

大人たちは、「救世の刻」が来たと、歓喜し、一族は居を捨て、人々に平和の術を布教するべく、世界に散ることを決めた。


僕は導師としての教育を受け、その年齢にもなり、通過儀礼も果たしていたから、世界へ旅に出た。

親兄弟や友人と離れ離れになるのはさみしかったけど、三頭のヒツジを連れていくことを許されていたから孤独ではなかった。

夜の寒さとも無縁だったし、一等感覚が優れたヒツジだったので未然に危険も回避することができた。


初めて接する外の世界は残酷だった。

生気を失った顔が並び、物欲しそうな目でこちらを睨む。

暴力。

物流を失い、通貨の価値が無くなった今、暴力だけがその価値を保っているように見えた。

体の大きなもの、度胸があるもの、知略に長けるもの。

文明という叡智がいかに弱者を延命させていたか。

一目でわかってしまうような世界の単純さがそこにはあった。


広場で、暗い通路で、廃墟で僕は平和を説く。

かつて祖先と対話し、救いを説いた羊の民のように。


そのたびに、しらけたような、あるいは冷やかすような民衆が僕を糾弾する。

「ならば救って見せよ」と。

「その脇にいるヒツジを屠り、私たちに恵みをもたらせ」と。


今日、僕は何かをあきらめてしまった。

だからヒツジを差し出した。


僕は神を試したかったのかもしれない。


「どうだい、教えの通りに求める者にヒツジを放したよ。」


神様が僕たちのことばかりを試すものだから。


「これが救いというならば、なんと世界は寂しいのだろう。」


神様が不条理を野放しにする理由を知りたくて。


「僕たちは何を望まれて生まれたのでしょう。」

初めて知った夜の孤独は、寒さと涙と物語の重さに、うなだれて泣くしかなかったのです。



弾ける薪の音だけが時を告げる。

帰りたい。けどあの平原にはもう誰もいないのだろう。

一人あの地に帰るには、広すぎる。

眼前に収まり切れないみどりの平野を迎えてしまえば。

僕はそのちっぽけさに飲み込まれてしまうだろう。

薪が崩れ、火が消えた。夜空を見上げる。

凍り付いた空にちりばめた星。

かつて帰ってしまった羊の民は空へと消えたのだという。

きっとここから見た故郷があまりにもきれいだったから、この世界から去ってしまったのだろう。

暖かな星へ、きっと羊の民などというのだからさぞかし平和で穏やかな星なのだろう。

そんな空想で慰めながら、毛布で体を包む。三頭のヒツジから紡ぎあげた大きな毛布だ。

失ったヒツジたちの匂いがしてまた涙が出た。

明日からどう生きていこう。考えるのも疲れてしまった。

明日になればあの町の人と同じような顔に変ってしまっているのではないか、もうなっているのかもしれない。

少しの時間、思考の濁流が続いたが、やがてそれも引き、眠りへと落ちた。

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