第30話 終焉

 兼房が一度現れてからと言うもの、僕は気が気ではなかった。ただしかし、その後すぐに引越しをしたので、再度家に来られることはなく二月を迎えた。それでも溝入さんのお兄さんのように職場に来られる可能性は排除できなかったのだが、それはなかったので安堵とともに肩透かしを食らった思いだ。ただ、お兄さんは何度か会社に来ていたそうだ。


 残業で遅くなってしまったこの日、僕は会社を出て真冬の夜の寒空の下にこの身を晒した。周囲を吹き荒れるビル風は痛いほどに冷たく、片手にリクルート鞄を持ちながらも、両手でしっかりとコートの襟を締める。

 ただそれも電車に乗ってしまえば暖かい機械的な空気に触れることができて、顰めていた眉もその眉間の皺が伸びる。


 しかしこの時に気が緩んだのだろうか。それとも最初から注意力が足りなかったのだろうか。同じ車両に彼が乗り込んでいることをこの時の僕は知る由もなかった。


 やがて自宅の最寄り駅に到着し彩香のもとへ早く帰りたい僕の足は急く。通りの歩道から折れて歩道や路肩の区別がない住宅街の生活道路に入る。最近慣れてきた新しい通勤路だ。すると折れてすぐに黒のワンボックスカーが道路の脇で停まっていることに気づいた。

 僕はそのワンボックスカーの横を通過しようとした時、背後から走る人の足音が聞こえた。恐らく男性用の革靴。だから男かなと思ったその瞬間。


 僕は後ろから羽交い絞めにされて口を塞がれた。


 するとすぐにワンボックスカーのスライドドアが開いて、僕は姿を現した人物を見て驚愕した。後ろから羽交い絞めにした男に押し込まれ、車内の男から引っ張られ、抵抗や大声を出そうと試みた僕の目論見は呆気なく散った。恐らく羽交い絞めにした男の手袋には薬品が染みこませてあったのだろう。僕は車に乗せられると同時に意識を失った。


 僕が次に目を覚ますと、そこは見覚えのある室内であることが一発でわかった。ここは間違いなく溝入理恵が生前に生活していた部屋である。僕は彼女と何度も肌を合わせたその寝室のベッドの脚に後ろ手で拘束されていた。口にはガムテープが貼られている。探偵事務所の所在地となっていたこの場所は、僕が知る頃と何も変わっていない。


「お目覚めですか?」


 薄暗い寝室の鏡台の椅子に腰掛けるのは溝入さんのお兄さんで、窓から差し込む光が彼の顔を青白く照らしている。溝入さんのお兄さんは無表情で、彼を照らす光が実に不気味な演出を施すのだが、とにかく僕に対して抑えきれないほどの憎悪を抱いていることが読み取れた。

 ワンボックスカーの中から僕を引っ張り上げた溝入さんのお兄さん。僕は間違いなく溝入さんの失踪に関与したことを彼に疑われていて、ただでは済まないと悟った。恐怖で震撼する。


「あなたが妹を失踪させた犯人だったとはね……」


 なぜそれが知られているのか、関与どころか核心を突いている。僕から冷たい視線を外さない溝入さんのお兄さんから目を逸らせないでいると、寝室のドアが開いた。


「ひっ!」


 口を塞がれてはいるが喉の奥で悲痛な音が鳴る。そこに現れたのは僕をワンボックスカーに押し込んだ男で、間違いなく兼房正二である。状況が把握できずわけがわからいのだが、それでもこの場所でこの二人に睨まれる今の状況は恐怖以外の何も感じない。


「わかっていないようですからまずはこちらのことから説明をしましょうか」


 相変わらず冷たい視線を向けたまま溝入さんのお兄さんは冷徹な声で説明を始めた。


「理恵が失踪してから私は独自に捜索を始めました。しかしまったくと言っていいほど成果が上がりませんでした。そんなある日、理恵の戸籍が消えて警察も動いてくれなくなって絶望したんです。しかしその少し前にセミオーダー人材店という店を発見しておりましてね」


 セミオーダー人材店……その言葉を聞いて僕は失禁しそうなほど震え上がった。そしてここで思い至る。溝入さんのお兄さんと初めて対面したのは店の近くだ。なぜ気づかなかったのだろう。彼が店に行ったかもしれないという可能性に。


「そこで彼を買ったわけです」


 僕に憎悪の表情を向けていた溝入さんのお兄さんは兼房……いや、探偵の田坂を見た。田坂はまったくと言っていいほど無表情である。営業スマイルを武器とした以前の愛想のいい面影はない。

 まさか溝入さんのお兄さんが直接の購入者だったとは。


「あなたもセミオーダー人材店の利用者ですよね? ならわかると思いますが、」


 僕が店を利用したことまで把握されている。一体どこから漏れたのだ? 恐怖とともにまったくもって解せない。


「私は田坂に幾つかの能力を付しました。一つは弁護士などが持つ調査能力。それから探偵業を行うための弁護士資格。更にはハッキング能力です。あと、業務の遂行を円滑に行うために戸籍も付しています。彼を選んだのは、調査を行うに当たって一番体力がありそうな年代の肉体だったからです」


 なんと戸籍に加えて三つも能力を付している。つまり二つは有料だったわけで、戸籍と合わせると多大な金をかけたことになる。そして僕の脳裏に四十代くらいの元弁護士の人材が浮かぶ。彼の体は年齢的に人気がなく売れないが、その能力は搾り取られているようだ。


「いやぁ、親から相続した不動産など、売れる物は売って金を用意したので大変でしたよ。……とまぁ、私のことはいいです。因みに彼の存在意義は私のアシスタントです」


 能力オプションでどのくらいの金銭を要求されたのか定かではないが、戸籍と合わせて恐らく一千万円はくだらないのではないだろうか。かなりの大金である。


「しかしおかげで捜索は進みました。まずは理恵の会社の社員と学生時代の友人を、田坂の弁護士職権とハッキング能力を使って徹底的に調べました」


 そんなことをしていたのか。もうだめだ、僕がいくら取り繕っても敵う気がしない。


「すると驚くことに田坂が仕入れられる前は理恵と同じ会社に在籍していた事実がわかりましてね。だから引き続き会社だけは私が足を運びましたし、会社が怪しいと踏んだわけです」


 確かに田坂が僕の勤める会社に現れでもしたら大騒ぎだ。まずハッキングからして情報を仕入れたことで、裏目の行動を取らなくて済んだということか。


「その後は会社の人間に絞って調べました。豊永さんが婚約されたことも知りましたし、職権を使って相手の方もろとも戸籍謄本を取ったり、あとは、周辺の監視カメラのハッキングですね。これには骨が折れました。根気はいるし、そもそも一ヶ月以上映像データが残されているところは少なかったからですから」


 そういうことか。いくら彩香に戸籍が付されたとは言え、その戸籍謄本まで取ってしまっては、いるはずもない親の情報が出てきたりしてどこかで矛盾にぶつかる。だから彩香が元商品で、僕がその購入者だとわかったのだろう。完全にお手上げである。


「監視カメラからあなたが兼房という社員をセミオーダー人材店に連れ込んだことも、同日に今や婚約者となった女性を連れ出したことも把握しました」


 しかしそこまでわかったのは理解できるが、なぜ僕が溝入さんの失踪の加害者であることまで掴んだのだろう。


「更に会社周辺の監視カメラを確認していたらあなたの婚約者が会社のあるビルの前で何度か立っているのに気づきました。しかも理恵が出てきた時なんかは、理恵が見えなくなるまでずっと目で追っていたわけですよ」


 あぁ、そうか。それでまず彩香をマークしたわけだ。彩香をマークすれば元々は戸籍のない彩香のことだから、婚約者の僕に行き着くのも自然の流れだ。これほどまでに手がかりのない失踪事件なんだから縋ったのは納得である。


「そんなやり方で捜索を進めていたら他県に向かう理恵と、その数時間後に同じ方向に向かうあなた方の情報を掴みました」


 殺害当日の夜か。そんな日であるから僕の関与を確信したのだろう。すると突然溝入さんのお兄さんの声が優しくなった。


「正直に答えればあなたをこのまま解放します。どうしますか?」


 僕はその問い掛けに勢いよく首を何度も縦に振った。声を出せないのでくぐもった音だけが僕の喉から発せられる。

 すると立ち上がった溝入さんのお兄さんは僕に顔を寄せる。田坂は動かない。僕は顔を寄せるお兄さんが恐ろしくてあまり身動きが取れないながらも、少しだけ身を引く。するとビリッという音を立てて僕の口が解放された。粘着質のガムテープが刺激したことで僕の肌は鈍い痛みを感じる。


「理恵は今どこにいる?」


 ずっと敬語で離していた溝入さんのお兄さんだが、途端にどすの利いた低い声と荒い言葉遣いになるので、僕はそれが怖くて目を逸らした。


「山の土の下に埋まってます……」

「もしかして殺したのか?」

「は、はい……」


 するといきなり髪を掴まれ、強制的に顔を上げられる。鈍い痛みを頭皮に感じながら恐怖に染まった目で溝入さんのお兄さんを見る。


「死体はどこだ?」


 その質問に僕は振るえる声で詳細に場所を話した。そして話し終わった瞬間。


 ボゴッ


 頬を拳で殴打され、その痛みに顔が歪む。ほとんど身動きが取れない僕は、顔や体を捻ってダメージを緩和させることすらできず、その痛みは大きい。


「お前、殺す」

「え……」


 僕に絶望が襲った。解放してくれると言ったのに。そんな……。

 お願いします。助けてください。言わなくてはいけないのに恐怖で言葉も出ず、僕は溝入さんのお兄さんを向いたまま首を小刻みに横に振る。


「人の妹を好き勝手しといて、自分だけが助かるわけねぇだろ」


 冷たく言い放った溝入さんのお兄さんは一度立ち上がると、近くに置かれていたバッグからロープを取り出した。


「す、いません……でした……」


 搾り出した僕の声が彼に届くことはない。止めてくれ。やっと手に入れた恋人と今、仲睦まじく暮らしていて婚約もしたのだ。そのおかげで仕事だって順調だ。こんなところで死にたくない。

 すると、溝入さんのお兄さんが僕に振り返った瞬間、その手に持ったロープを田坂が奪った。


「え……」


 何が起きたのか、溝入さんのお兄さんも目を見開いていて解せない様子だ。彼がわかっていないのに僕にも田坂の行動の意味がわかるはずがない。とにかく田坂も憎悪に満ちた目をしていることだけは理解した。


「うっ……」


 今度こそ僕は失禁した。

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