第29話 訪問者
僕がモニターフォンの前で硬直していると画面の向こうの男が手を伸ばした。そしてもう一度インターフォンが鳴る。夕日が男の顔に陰影を作るが、彼は間違いなくあいつだ。
「何で出ないの?」
僕の背後から声が聞こえたかと思うと、僕の顔の横を腕が通過した。慌てて僕が振り返ると部屋着姿の彩香が立っていて、彼女はモニターフォンの通話ボタンを押した。遅かった……。
「はい」
彩香がモニターフォンの画面に向かって対応を始める。僕は硬直しながらも居留守を決め込んでいたのだが、悲しくも彩香はそれを読み取ってくれなかった。
『突然すいません。私、
彼が探偵? 名前が田坂? 溝入理恵という名前を耳にして彩香も言葉を失った。
オートロック式ではないアパートの玄関ドアの向こうには、今田坂と名乗った男が立っているはずだ。玄関ドア越しに微かに彼の声も耳にできた。ただ、対応をしてしまった以上ここで黙っていても始まらない。むしろ黙っていては怪しまれてしまう。
僕はモニターフォンに出た彩香の腰をポンポンと叩く。彩香は我に返ったようで、慌てて対応を再開した。
「あ、はい。どういったご用件ですか?」
『溝入理恵さんの失踪について調査をしているのですが、少しだけお話をお聞かせ願えませんでしょうか?』
そこで彩香が僕を向くので、僕はモニターフォンのマイクが自分の声を拾わないように彩香に耳打ちをした。
「彩香は溝入さんのことを知らないことになってるはず。それから僕は家にいないことにして、適当に対応してすぐに帰して」
すると彩香は緊張した面持ちで首肯し、モニターフォンに向き直った。
「わかりました。今行きます」
彩香がそう答えたのを見計らって通話を切ったのは僕だった。僕はすぐに彩香を抱き寄せた。
「彩香にとってはまったく心当たりがない話ってことだから。いいね?」
「うん」
「だから相手の人を全力で怪しむそぶりで対応して?」
「うん」
「彩香は何も知らない。溝入さんの名前も知らない。いいね?」
「わかった」
それだけ言葉を交わすと僕は玄関へ行き、チェーンロックを掛けて、自分の靴を下駄箱に隠した。そしてそれについてきた彩香を抱きしめて、耳元で小さく言った。
「大丈夫。落ち着いて」
「うん」
僕の胸で彩香が弱く言う。僕は優しく彩香の頭を撫でた後リビングに身を入れ、自分の姿が玄関から見えないよう気をつけて様子を窺った。僕の位置を確認した彩香はチェーンロックを外すことなくゆっくりと玄関ドアを開けた。
「突然すいません。個人探偵の田坂です」
男はもう一度名乗るが、僕がよく知る彼にその名前は今一しっくりこない。リビングのドアから少しだけ顔を覗かせると、玄関ドアのわずかな隙間で顔を出して対応する彩香の後姿が目に入った。田坂の姿は見えないので、彼から僕の姿も見えていないと思う。
「はい」
「こちらは豊永佑介さんのお宅で間違いなかったでしょうか?」
「はい、そうですが……」
なんで僕の家に彼が来ているのか、探偵だと名乗ったから調べたのだろうが、そもそも彼はなぜ探偵なのだ? 溝入さんの家族に雇われたと言っていたのだから、溝入さんのお兄さんが雇ったのだろうか? それでもなんで彼なのだ? 彼はセミオーダー人材店のベッドで商品として眠っているはず。出荷されたということか?
「私が現在捜索しているのは豊永さんの会社に勤めておりました溝入理恵さんという方です。ご存知でしょうか?」
「すいません。耳にしておりません」
彩香は僕に言われたとおり知らぬ存ぜぬを通している。その調子で頼むと思いつつも、彼がなぜここにいるのかなど、周囲でどういう動きが起きているのか探ってほしい気持ちも否定できない。
「そうですか。失礼ですが、奥様ですか?」
「いえ、婚約者です」
「豊永さんは今ご在宅ですか?」
「今は外出しております」
会話は淡々と進んでいて、僕に背中を向ける彩香から動揺の様子は見えない。表情までは窺い知れないが、なんとかうまく対応しているのではないだろうかと思う。
「お戻りは何時ごろでしょうか?」
「すいません。帰宅の時間を把握していなものでして」
「そうですか。ではまた日を改めます」
「すいません」
「こちらをお渡しいただいてもよろしいでしょうか?」
「はい」
その後は挨拶程度の言葉だけを交わして彩香は玄関ドアを閉めた。彩香の後姿が大きく肩を落とした。ほっとして力が抜けたのだろう。僕は玄関で立ち尽くす彩香に背後から歩み寄って、そのまま後ろから抱きしめた。
「緊張したぁ」
まだ探偵が玄関の外にいるかもしれないので小声で言って僕の腕を取る彩香。彼女はそのまま僕の腕に頬ずりをした。
「それ名刺?」
彩香の手に紙が握られているのを確認したので、僕も小声で問い掛けた。彩香は言葉を発することなく頷いた。すると僕に向き直って顔を僕の胸に押し付けると、腕を僕の背中に回した。
怖さもあったのだろう。僕は彩香を抱き返し、そっと頭を撫でた。彩香はそれが安心するのか、今度は僕の胸で頬ずりを始めた。
彩香の気が済むまで無言でそうしてあげると僕達は揃ってリビングのソファーに腰掛けた。途中モニターフォンで外の様子を覗いてみたが、探偵の姿はもうなかった。
僕は彩香から手渡された名刺をまじまじと見てみる。名刺に書かれた氏名は
「佑介さん、どうしたの?」
僕の顔色の変化に気づいて彩香が擦り寄るように僕の顔を覗きこむ。僕は半口を開けたまま固まった。なんとこの事務所の所在地は溝入さんが生前住んでいた彼女の自宅である。
「なんであいつが溝入さんの自宅で……」
「あいつ? さっきの人のこと知ってるの?」
心の声が口から出ていたようで、彩香にしっかり聞かれてしまった。僕は彩香の顔を見ることもできず、名刺から目を離せないまま言葉を続けた。
「今来たのは僕が彩香を買った時に仕入れた元同僚だよ」
「え? そうなの?」
「うん。当時の名前は
「どういうこと?」
「どういうことって、誰かが買って探偵になって、溝入さんの家族が雇ったんだろう。けど、その事務所が溝入さんの生前の自宅なんだ。これがわからない」
そこまで言って彩香を見ると、彼女は口元に手を当てて驚いていた。
これは彩香との今までの生活でわかったことだが、出荷された人材は自身が取り引きされた身であることを把握している。しかしその経緯について深く詮索することはない。つまり出荷以前に自身がどこで何をしていたのかを購入者に聞くことはない。恐らくだがそのようにプログラムされているのだろう。
今の生活に必要な人工的に作られた偽りの記憶を所持しているのだから、詮索してしまってはその矛盾にぶつかってしまう。
しかし取り引きされた身であることを把握しているということは、セミオーダー人材店の存在も知っているし、仕組みも基本的なことはわかっている。だから偶然にしてはでき過ぎている今起きた事実に彩香も驚いている。
そのでき過ぎた偶然とは、僕が仕入れた人材である兼房が、新たな身分を携えて僕の自宅までやってきたという事実だ。しかもその内容が溝入さんの捜索だから僕と彩香には焦りが生まれるのだ。
「大丈夫かな……?」
案の定彩香は不安を口にする。僕はそっと彩香の肩を抱き寄せて摩った。
「大丈夫も何も、彩香は溝入さんのことを知らないって通すしかないよ。僕は僕で何とかするから安心して」
「うん」
そう言って僕の肩に頭を預ける彩香だが、不安は拭えないのだろう。事実、安心してと言っておきながら僕にも多大な不安が残っている。とにかく思うのは、これ以上僕達を詮索しないでくれということだ。
誰が兼房を買ったのかは知らないが、彩香を参考にすると兼房は自身の出荷前のことを詮索しないはずだし、モグラが顧客情報を明かすことはないと思う。後は溝入さん殺害の事実がバレないように気をつけるだけだ。溝入さんの死体も発見されていない。
絶対に逃れられる。僕は彩香の肩を摩りながらそう自分に言い聞かせた。
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