第28話 婚約

 会社も年末年始休暇に入った十二月三十日。僕は彩香を連れて実家に帰省した。駅を出て外を歩く僕達はお互いにコートを着ていて、その中はかなり着込んでいる。東京に比べて僕の地元はやはり寒く、もしかしたら今日は雪でも降るのではないだろうか。昼下がりのこの時間帯でもその寒さは厳しい。

 それでも僕達は手袋越しにしっかりと手を繋いでいて、彩香は終止にこやかであり、そして緊張している。僕の方はと言うと、気分は晴れやかである。


「緊張するよう」

「ははは。まぁ、それほど堅苦しい家でもないから気楽にして」

「無理だよう」


 強張ったような笑みを浮かべる彩香が微笑ましくもある。初めて訪れる僕の実家を前にして肩に力が入っているようだ。


 そんな話をしながら僕達は実家にたどり着き、そして玄関ドアを開けた。


「ただいま」

「お邪魔します」


 すると奥からスリッパがパタパタと床を鳴らす音が聞こえてきた。そして姿を見せたのは母さんだ。


「あらぁ、いらっしゃ。あなたが彩香さん?」

「はい。初めまして。瀬尾彩香せお・あやかです」


 彩香は与えられて間もない苗字と共に自己紹介を済ませる。彩香に戸籍を付す際に、名前だけはこちらで考えるよう言われてそれまでなかった苗字も考えた。結局「セミ・オーダー」の頭文字を取って「瀬尾」としわけだが、安直だなと自分で思う。とは言え、近々僕の籍に入るのだから、一時的なものだとも思う。


「さ、上がって、上がって」


 しかしここで僕はしまったと思った。真っ先に紹介しろと言った祖母との約束を飛ばして、彩香が自己紹介をしてしまったことにばつが悪くなる。僕は靴を脱ぎながら母さんに言った。


「ちょっと、先に婆ちゃんのところに行ってくる」

「あぁ、そう。わかったわ」


 母さんは僕達を迎え入れると、そのまま祖父母の寝室へ向かう僕達を見送った。


「あらぁ、あなたが彩香さんかい?」


 部屋に入るなり目を細めてすぐさま声をかける祖母は、この寒いのに体調を崩すこともなく元気そうだ。


「はい。瀬尾彩香です。初めまして」

「寒かっただろう。ささ、入って、入って」


 祖母に促されて僕達はこたつに入った。脇に置いたバッグの上に畳んだコートを載せる。白髪でボリュームが寂しくなった頭の祖父もこの部屋にいて、祖母同様微笑ましく彩香を見ている。


「えらい、べっぴんさんだな。佑介、どこで捕まえてきたんだ?」

「友達からの紹介で」


 事前に考えて用意していた建前ではあるが、予想していた質問のため特に慌てることもなく僕は答えられた。隣で彩香は愛想のいい笑顔を振りまいている。


 日中はこのまま祖父母の寝室で過ごし、夕方になって祖母が炊事のため立ち上がると彩香も手伝うと言って一緒に台所に消えた。台所では母さんも入れて女三人で楽しそうに話しながら炊事を進めるのがわかった。


 その夕食ができて居間の座卓一杯に皿が並べられると、父さんと長男世帯も合流して大人数での賑やかな食事が始まった。次男世帯は元日に来るそうだ。

 食事の席での主な話題はやはり彩香で、皆一様にその美貌に感心していた。そりゃ、それまで彼女居ない歴が年齢の日照りしか経験したことのない僕の相手だ。不思議でしょうがないだろう。


「彩香さん、料理の手際が良くて感心しちゃった」

「えへへ、そんなことないですよ」


 謙遜の言葉を口にしながらも、はにかむ彩香。彼女の家事能力が高いことは当たり前であるのだが、そんな経緯を口にすることなどできないので、僕はにこやかに会話を聞くだけだった。


「佑介、これほどの彼女さん、しっかり捕まえておけよ」


 酒も入ってほんのり頬を赤らめた父さんは上機嫌である。愛想が良くて、家事ができて、そして美人の彩香を前にしているのだ。その機嫌も納得である。


「うん。それでさ……」


 僕が切り出すと途端に注目するこの場の大人たち。兄の二人の子供だけが賑やかに食事を突いている。この場の大人は僕が口にしようとしていることを察しているのだろう。


「彩香と結婚をしたいと思って」

「そうか、そうか」


 嬉しそうに納得の声を上げたのは父さんで、他の大人たちも祝福の眼差しをくれる。ここに至るまでに紆余曲折があったが、やっとここまで至ったのだと感慨深くなる。

 この手にかけて犠牲にした人もいるが、彼女は最早最初からこの世に存在しない人間となった。捜査の方針を打ち出そうとしていた警察も、結局土壇場で手を引いた。僕にもう足かせはなく、何も気にすることはないのだ。


「彩香さんのご両親にはいつご挨拶に行くの?」

「私、もう両親はいないので」


 母さんからの質問にすぐさま彩香が答えるとこの場の空気が緊張した。明るい話題ではないのだから致し方ないのだが、そもそもこれも事前に考えられた彩香の生い立ちで、フィクションだ。

 彩香は十代の時に事故で両親を亡くしたことにしてあり、一人っ子で身よりもないのが建前だ。今はアルバイトをしながら正社員で雇ってもらえる職場を探していることにしている。尤も、戸籍が付されたことで最近日中にアルバイトを始めたのは本当だ。結婚を考えているので、正社員に関しては拘っていない。


「そうだったの、大変だったわね……」


 僕と彩香で作られた彩香の生い立ちを説明すると母さんが同情するように声を出した。それに対して心が痛まないこともないが、避けては通れない。


「だから早く家庭が持ちたくて、まだ二十歳の不束者ですが、佑介さんと結婚をしたいと思いました。どうかよろしくお願いします」


 そう言って彩香は僕の両親に頭を下げた。それに対して僕の両親は微笑んで、「こちらこそよろしくお願いします」と言って結婚の承諾をしてくれた。


「式はどうするんだ?」


 これは兄からの質問である。彼は自身の長男を膝に乗せ、ビールグラスを片手に持っていた。僕は一度兄を見た後、ここらの地主でありこの家の家主である祖父に向いた。


「彩香は披露宴に呼べる人もいないから、新婚旅行と兼ねて二人だけで海外で式を挙げたいと思うんだけど、ダメかな?」


 祖父は一度箸を置くと腕を組んで考える仕草を見せた。皆が祖父に注目するが祖父は時間にして一分も経たずに組んでいた腕を解いた。


「ま、いいぞ。既に上二人独立させて式はしっかりやっておるし、三男くらいそういう式でも問題なかろう」


 胸を撫で下ろす。地主一家であるため、冠婚葬祭は重要な意味を持つ。披露宴を行わないことに反対をされるかとも思っていたが、末っ子を理由に祖父は僕達の要望を受け入れてくれた。近所や親族は堅苦しくあるので気にすることも多いが、この家の家族自体は割と大らかなので救いだ。

 彩香に今や身寄りがないことは間違いないのだが、それでもやはり誇れる経緯で始まった交際ではない。それはこの場にいる僕と彩香しか知らない事実ではあるが、だからこそあまり目立たずひっそりと過ごしたい。これが本音である。


 これからは結婚のために資金を貯めなくてはならない。彩香の戸籍を買うために多大な金を使ってしまって貯金は底をつきそうだ。それでも祖母の援助があって借金までしていないことには感謝の念が拭えない。仕事の調子は相変わらず上向きなので、増えた収入をしっかりと貯蓄に回そうと思う。

 今回の帰省は温かい雰囲気の中、過ごせたので良かった。今までは浮いた話のない僕がいつもそれをネタに弄られていたので、今回の僕は終止得意気であった。


 そして正月の三が日までを実家で過ごし、僕と彩香は住み慣れた自宅に帰って来た。荷造りはかなり進んでいて、部屋の至る所に段ボール箱が積まれている。

 もうすぐ僕たちの新居へ引越しである。次の部屋は2LDKだ。彩香の荷物も増えて一室は彩香のクロークと化しそうである。そしてもう一室が寝室だ。引越しは思いの外大変な作業ではあるが、新たな場所での生活に心を弾ませる自分がいる。


 帰省から帰って来たばかりの僕はリビングのソファーにどっと腰を下ろすと天井を見上げた。体は疲れたが心は晴れやかだ。するとインターフォンが鳴った。


「ごめん。私今無理だから出てー」


 着替えている彩香の声が寝室から聞こえてくる。僕は「わかった」と返事をしてモニターフォンの前に立った。


 すると一気に血の気が引いた。


 モニターフォンに映るその人物の顔を確認して僕の思考は「なんでこいつが……」という言葉だけがぐるぐると回った。

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