第26話 兄の接触
僕の今の幸せは、溝入さんを彩香と一緒に殺害して、彩香との関係を阻む存在がいなくなったことで得たものだ。
溝入さんを殺したあの夜、僕は正気に戻るとなぜか彩香をこの腕で拘束していた。なんで溝入さんに向けるはずの殺意がそれまで彩香に向いていたのか恐ろしくなる。
彩香は僕から解放されると溝入さんに掴みかかった。その時溝入さんが怯んで、僕は溝入さんの手からロープを奪った。
溝入さんがロープを持っていたのは彩香を殺すつもりだとわかったが、それに対して僕が彩香を拘束していたことは今でも震撼する。それでも正気に戻ることが間に合った僕は、彩香と溝入さんが組み合っている時に溝入さんの首を絞めた。
溝入さんは唸り声を上げ、とても苦しそうだった。暴れようともした。しかし彩香が彼女を放さず、結局僕は何の抵抗も受けずに溝入さんを殺すことができた。
そして死体を埋めてその場を立ち去り乗ってきた車に飛び乗った瞬間、彩香への愛情が噴出してきた。今まで煩わしく感じていた彩香。しかし事が終わって車に乗り込んでからは間違いなく彩香への愛情を認識していたわけで、自分の感情と行動にわけがわからず混乱した。
しかし車を走らせた僕の手には溝入さんを絞めたときのロープの感触がこびりついていて、それ故に高ぶる気持ちが抑えられなかった。それは同じく人殺しに手を染めた彩香も同様で、助手席で興奮する体を必死で抑えているようだった。
とても長い時間運転できる状態になかった僕は、彩香に断りも入れず来る途中に寄り道したラブホテルに入った。そして彩香を求めた。それどころか彩香からも求められた。どうやら彩香も高ぶった気持ちは同じようで、僕達はチェックアウトの時間まで寝ることもなく互いを貪り合った。
昼休みに溝入さんの話をしたからだろう。僕は仕事の傍らこの日はあの晩のことをよく思い出していた。そんな状態で残業を終え、会社からセミオーダー人材店に向かったのだ。
この日は午前の営業外出の最中、保険を一部解約して来た。そして午後の営業回りの最中には銀行に寄って現金を引き出した。祖母からの入金も確認でき、それも引き出した。今僕のリクルート鞄には五百万円という大金が現金で入っている。その状態になってから、鞄を握る僕の肩には力が入っていた。
駅を出て通りから路地に入り角を折れる。二回しか行ったことがない店であり、足を運ぶのは随分と久しぶりだ。それでも道順はしっかり覚えている。そんな確かな記憶を頼りに最後の角を折れた。数軒先の雑居ビルの地下がセミオーダー人材店である。その地下への階段ももう視界に捉えた。
「あの、すいません……」
すると突然声をかけられた。僕のすぐ背後からで、僕はその声に振り返った。そこにはコートに身を包んだ二十代後半くらいの男が立っていた。彼は真っ直ぐに僕を見ているので、間違いなく僕に声をかけたのだとわかる。
「はい、何でしょう?」
僕は早く鞄の中の現金を消費したかったので足早だった。こんな大金をいつまでも持って歩いていては物騒な輩に狙われるのではないかと気が気ではない。尤も、すれ違う誰しもがそんなことに気づいていないとは思うが。
男は身に着けた眼鏡の向こうから真っ直ぐ僕を見据えている。髪は清潔に整えられているが、この寒風で靡いてもいる。リクルート向けのロングコートの下はスーツだろうか。僕は男に見覚えがない。
「私、株式会社○×の経理課に勤めています溝入理恵の兄です」
溝入さんの兄と名のられて僕の心臓が大きく跳ねた。正確に言うと、自分が勤める会社名を耳にしてすぐに、まさかと思い、その瞬間から動揺した。会社とはそれほど離れていないとは言え、なぜこんな場所にいて、ピンポイントで僕に声をかけたのか。
「突然お声がけしてすいません。今日、あなたの会社のあるビルの一階ロビーで他の社員の方とお話をしていたら、社員証を首から提げたあなたを見かけたものですからお顔を覚えていました。それでまたここで見かけたので失礼ながらお声をかけました」
僕をマークしていたわけではないようだと胸を撫で下ろす。あくまで社員の認識だけがあって声をかけてきたようだ。一度は驚いて安堵したばかり僕の表情は不自然ではないだろうか。あまり心に余裕がないので、変なことを勘ぐられなければいいと思う。
人殺しに手を染めた僕はこれから被害者の身内や警察の一挙手一投足に、こうしてビクビクしながら生きていかなくてはならないのかと痛感する。
しかし会社で見かけたのはいつだろう。会社のあるビルに入るとすぐに社員証を首から提げるし、ビルを出ればすぐにそれを外す。つまり一階ロビーでは提げていることが断然多く、今日で言えば出勤時かもしれないし、昼食で一度戻った時かもしれない。はたまた退勤時かもしれない。
「うちの妹が失踪したことはご存知ですか?」
「えぇ、まぁ」
そう言ってから溝入さんとは部署も入社年度も違うことを思い出し、慌てて言葉を繋いだ。
「溝入さんは社内で評判の方でしたから、そのお話は耳にしています」
「そうですか」
消え入りそうな声での返事だった。僕は今のところ自分に疑いをかけられている様子がないことに安堵する。
初対面ながら溝入さんのお兄さんは元気がないように見えるが、妹が失踪したのだからそれは当たり前か。更にはやつれているようにも見えるが、これは元々こういう顔立ちなのだろうか。
「失礼ですが、お名前をお聞きしても?」
「営業一課の豊永です」
「豊永さん……」
溝入さんのお兄さんは寒さで震える手で手帳にメモをした。雑居ビルが放つ店のネオン看板の光で微かにその文字が見えたのだが、そこには僕の会社の社員の名前が数名ほど書かれていた。その下には彼らから得たと思われる情報もメモ書きされていた。もしかしたら社員ではない溝入さんの友人関係の名前もあるのかもしれない。
「妹とは親しかったですか?」
「いえ。顔を合わせれば挨拶はしますし、社内で多少の雑談はしたことがありますが、その程度です」
なんて白々しいと内心で自分を卑下する。しかし、保身に走っている僕にこれ以外の答えようはない。
「そうですか。それだと特に情報なんかはお持ちじゃないですよね?」
「残念ながら」
「妹の様子がおかしかったとか、交友関係とか、どんな些細なことでもいいのですが」
「すいません。お力になれず心苦しいのですが……」
「そうですか……」
肩を落とす溝入さんのお兄さん。こういう場合は必要以上に答えないことに限る。器用ではない僕の口数が増えれば絶対にボロが出る。何としても僕の関与を疑われることは避けたい。……が、しかし。どうしても探りたいことがあるのでこれだけは質問をした。
「えっと、失踪届けは出してあると耳にしているのですが、お兄さんが動いているということは、警察は動いてくれないということですか?」
「今のところは……です」
「そうですか」
「ただ、やっと警察も重い腰を上げてくれたようで、もしかしたら捜査が始まるかもしれません。それでも居ても経ってもいられず動いているわけです」
警察に関してはすでに僕が知っているとおりの内容である。お兄さんの心中は察する次第だが、この手にかけておいてよくそんなことを思うなと我ながら呆れる。
すると溝入さんのお兄さんは手帳から一枚の紙を引き出した。僕はそれが名刺だとすぐにわかった。
「あの、何でも結構ですので、何かわかったらご連絡いただけませんか? 携帯の番号も書いてありますので」
そう言って差し出された名刺を受け取ると、その名刺は彼の勤め先のもので、確かに携帯電話の番号も書かれている。彼が業務外で動いていることは明らかで、連絡は会社の固定電話よりも携帯電話にしてほしいのだろうと容易に読み取れる。
「はい、わかりました」
「よろしくお願いします」
溝入さんのお兄さんは丁寧に腰を折ると僕に背を向けて歩き出した。僕は彼が角を曲がって姿が見えなくなるのを確認してから、目的の場所に向かって歩き出した。
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