第25話 真相

 帰省から帰って来た翌日、一体となったLDKで朝食の席を共にする僕と彩香。すると彩香が言いづらそうに言葉を発した。


「私の戸籍って……」

「うん。今日か明日の会社帰りに人材店に行って買って来る」


 それを聞いてぱっと表情が明るくなった彩香。昨日までの僕の帰省が彩香の戸籍を買うための金策であることは言ってある。それを僕が何も状況報告しないものだから、痺れを切らして自ら聞いたのだろう。


「えっと、これ。迷惑じゃなければ……」

「え……」


 一瞬、何を差し出されたのか理解できなかったが、食卓の彩香の脇には包まれた弁当箱が置かれていた。彩香はそれを遠慮がちに僕に差し出したのだ。


「あの……、その……、私の戸籍ができるなら、私の存在はもう隠さないでいいのかなと思って。それならもう一緒に暮らしてる恋人だってことも言えるのかなって……」


 同棲開始最初の出勤日は弁当を作ってくれた彩香だが、彼女の存在を隠していた僕がわずか一日で弁当を断ったのだ。今では結局慣れ親しんだ昼食の形態に戻っているが、そんな最初の頃の思い出が頭に浮かぶ。


「ごめん。まだ気が早かったかな? いらないなら私がお昼に食べるから」


 僕の顔色を窺っている様子の彩香はそっと弁当箱を引き戻そうとした。それに僕は反射的に手を出し、弁当箱を自分に引き込んだ。


「ありがとう。食べる」


 慌てて言い繕ったせいか声が大きくなり一瞬彩香が目を見開いたが、すぐに彩香の表情はまた明るくなった。自分が作った弁当を受け取ってもらえることが嬉しいようで、無邪気に笑っている。


「えへへ」


 はにかんだ様子も見せて彩香は朝食の箸を進めた。ちょっと恥ずかしくなった僕は顔を伏せるように慌ててご飯をかき込んだ。


 この後僕は玄関で彩香とキスを交わして家を出た。あの事件以来、彩香の露骨な嫉妬心は顔を出さず、残っているのは僕に尽くす姿勢だけだ。尤も彩香の嫉妬深い性格が改善されたとは思っていないが、それでもなぜあそこまで彼女を煩わしく思っていたのか、それが不思議なほど僕の気持ちは彩香に戻り、彼女を心から愛している。


 そんな清々しい気分の中、会社が入居するビルまで到着すると、僕は社員証を鞄から出し首から提げた。するとまだ一階のロビーを歩いている時に、一人の女が隣に並んだ。


「おはようございます。豊永さん」

「あ、おはようございます。山中さん」


 彼女は同じ会社の社員で経理課の山中やまなかさん。何度か話したことはあるし、他の人を介して昼食を同席したことなどはあるが、二人で話すのは思い返すと初めてのような気がする。山中さんは僕とこのまま出社するようで、一緒にエレベーターを待った。


「豊永さんは今日も一日外回りですか?」

「うーん、午前も午後も一件ずつアポイントは入ってますけど、昼休みは一回会社に戻ろうかと考えてます」

「へー、そうなんですね」


 エレベーターの階数表示を見上げたまま薄い反応を示す山中さん。どういう意図があっての質問だったのだろうか。ただの雑談による話題だろうか。

 僕はこの日、彩香が作ってくれた弁当を持っているため、普段はこういうスケージュールなら外に出たままなのだが、一度帰社して自分の席で食べようと思っていた。だからこのような回答である。


 すると「チン」という音を立ててエレベーターの扉が開いた。朝の出勤時間で一階に止まった籠の中から出てくる人はいない。専らエレベーターホールで待っていた人たちが詰め込めるだけ乗り込む。

 エレベーターの中でも僕と山中さんは隣同士に立ったが、お互いに階数表示を見上げたまま無言である。とは言っても、この中に一緒にいる人たちの視線は皆同様で、声を発する人はいない。


 やがて会社の所在階に到着するとやはり山中さんは僕と肩を並べて一緒にエレベーターを降りた。そして各々の部署へ別れる時に彼女は言った。


「お昼社内にいるなら少しお話しません?」

「え? あぁ、食べ終わってからでいいなら」


 自惚れていない僕は恐らく食事の誘いではないと思いつつ、彩香の弁当があるのでその後の方こそ都合がいいと思っての答えだった。山中さんにとっては特段問題がないようで、笑顔で納得してくれた。


「大丈夫です。じゃぁ、昼食後、屋上でどうですか?」

「はい。わかりました」


 このビルの屋上は喫煙所として解放されていたなと、煙草を吸う習慣のない僕は納得して承諾した。そして僕達はそれぞれの部署へと別れて歩いた。


 午前の業務を順調にこなし、彩香が作ってくれた弁当を食べ終わると僕は席を立ち上がった。自席で食事を取る同僚からは僕が弁当を持ち込んだことで下世話な質問を浴びせられたが、僕ははにかみながらも同棲中の彼女がいることを明かした。

 最初の頃に彩香が弁当を作ってくれた時は、たまたま遊びに来た母親が作ってくれたのだと誤魔化したのだっけと懐かしく思う。僕が恋人の存在を明かしたものだから昼休みに部署内にいる社員から囲まれそうになったが、山中さんとの約束がある。僕は用事があると言ってその場から解放させてもらった。


 それにしても今まで二人で話すことなどなかった山中さんから一体何の話だろうか。心当たりがないわけではないが、できればその心当たりには触れないでほしいと思う。そんなことを考えながらも僕は屋上まで上がった。

 すると山中さんは階段室の外壁に背中を預け、携帯灰皿を片手に煙草を吹かしていた。初めて見る彼女の姿だが、そもそも彼女とはそれほど親しくない。


「煙草吸うんですね?」

「あぁ、お疲れ様です。えぇ、まぁ」


 僕に声をかけられて僕の接近に気づいた山中さんは、短くなった煙草を携帯灰皿に押し込み火種をもみ消した。それをポケットに入れると一つ息を吐いて早速本題に入った。


「急にこんなところにお呼びしちゃってすいません」

「いえ」

「えっと、失踪した溝入さんのことなんですけど」

「あぁ、はい。経理課は大変なようで……」


 恐れていた話題だったので僕に冷や汗が伝う。この季節、これほど寒い屋上で冷や汗は勘弁願いたいものだ。それでもなんとか平静を装って対応できているのだから良しとしよう。


「豊永さんは何か情報持ってませんか?」

「え? 僕ですか? 僕は特に何も……」

「そうですか……」


 僕の答えに顔を伏せた山中さん。徐々に心拍数が上がるのは僕が嘘を吐いているからであるが、なんとか落ち着いてくれと切に願う。


「えっと、なんで僕に……?」

「あ、いえ。溝入さんが豊永さんのことを気に入っていたので……」

「そうなんですか!?」


 自分でも白々しいと思う。鈍感を装ったものの、溝入さんとは何度も密会し、肌を重ねた仲だ。彩香のことがあって隠れて付き合っていたから、会社に対しても交際は隠していた。

 だから山中さんに対しても、溝入さんが僕に気を持っていたことは伝えてあるものの、実際に恋仲だったことは明かしていないと、溝入さん本人から聞いていた。山中さんが知っているのは、溝入さんから誘った最初の食事だけとのことだ。


「えぇ、まぁ。それでもし豊永さんに溝入さんと個人的なお付き合いがあれば何か知っているのではないかと思いまして……」

「すいません、残念ながら何も……」


 溝入さんが失踪して一週間が過ぎた。尤も彼女の失踪の原因が彼女は今、山の中の土の下で眠っていることを知っているのは僕と彩香だけだ。

 失踪届けは溝入さんの実家の家族から出されたようだが、事件性に乏しいとのことで捜索まではされていない。ただ、これは今の段階での話であって捜索が始まるのも時間の問題だろう。と言うのはこの数ケ月で僕の会社から二人の人間が失踪したことにより、やはり事件性があるかもしれないと考える刑事もいるからだと耳にした。


 もちろん先に失踪したのは兼房だが、彼は戸籍がないことで結局事件化されなかった。しかし今回は戸籍がある溝入さんだし、そもそも二人目だ。兼房の戸籍消去の件と合わせて事件になるのももしかしたら早いかもしれない。


「因みにどうして山中さんが探ってるんですか?」

「あ、お気を悪くさせたならすいません。事件にならないものですから、溝入さんのお兄さんって人が溝入さんを探しているようで、経理課にも一度見えたことがあって」


 納得した。溝入さんの兄が情報を集めていることに山中さんは協力的なのだろう。警察に加えて嗅ぎ回っている人がいることに一抹の焦りを感じるが、それでも失踪した二人の身柄は確認されていない。それだけが僕の救いだ。

 兼房はどうしているだろう。まだ人材店のショーケースに寝かされているのだろうか。


 溝入さんはあの晩、僕が彩香を離した直後、溝入さんが持っていたロープを僕に奪われ、僕がこの手で首を絞めた。その時の感触が思わず手に戻ってくるようだ。そして兼房と違ってもう動くことのない彼女は、冷たい土の中にいる。

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