第23話 実行
溝入さんとの約束の深夜零時まで十五分ほど余裕がある。僕は山道の待避所となっている五台ほどが停められる駐車場に車を入れた。他にある車は一台だけで、それは乗用の軽自動車だ。この車を運転して来たのは恐らく溝入さんだろう。
「佑介さん、ここから夜景が見えるの?」
山の下に見える真っ暗な景色を見て言う彩香の疑問は尤もだと思う。僕はここが夜景スポットだなんて聞いたこともなければ、思ってもいない。それどころか世間の認識も僕と同じだろう。
「まだだよ。ここからは山道を少し歩かなきゃいけないんだけど、いい?」
「うん、大丈夫」
明るい笑顔と元気な声で返事をする彩香は二十歳ながらあどけなさも感じさせる。しかし、出かけるために施した化粧はやはり彩香を美人にする。先ほどまで彩香とラブホテルで過ごした僕は性的にもすっきりしていて、気分は晴れやかだ。やっと解放される。そしてやっと求める人と心置きなく交際ができる。
これから山道を歩く。車外に出ると山の真夜中の空気は凍てつくほど冷たい。ミニスカートに黒のタイツを穿いた彩香の足元はブーツだが、山道は歩けるだろうか。僕はスポーツ系の革靴だから問題ないが、家を出る前にここに来ることまで話せていればと今更ながらに思う。
「しっかり掴まってな?」
「うん」
真っ暗ながらも視認できる白い息を吐き彩香は笑顔で答える。それと同時に僕の腕を取った。街灯は疎らで気持ちほどしかなく、車道でも暗い。その車道を横断して僕たちは山の中に入った。
彩香が取る腕とは反対の手に懐中電灯を持ち、足元を照らすと二人が横並びでやっと歩けるほどのけもの道が確認できる。僕はブーツの彩香に合わせながら歩を進めるが、溝入さんとの約束の時間までに間に合うだろうかと一抹の不安が過る。道路脇の駐車場からは順調に歩けば十分少々だと聞いているが、彩香の足元の条件が悪い。
「懐中電灯なんてよく持ってたね」
気配でもわかったが、彩香の吐息が頬に当たるので彩香が僕に顔を向けたのだとわかる。その時に当たった吐息はなんだか温かかった。
「うん。買い物中に彩香がトイレに行ってる間に必要だと思って工具売り場で買ったんだよ」
「そっか、用意いいね」
僕の答えは嘘である。これは家を出る時点でここに来ることがわかっていた僕が、予め用意してバッグに忍ばせていた。古い物なので少しばかり塗装も剥げているが、辺りが暗いことが功を奏している。彩香にはわからないようだ。
周囲を木々で覆われているせいかあまり強い風は感じないが、それでもやはり寒い。時々彩香の髪が僕の横顎を擽る。それを感じながら僕たちは少し広い場所に出た。そこには真っ暗ながらも一人の女の影が確認できた。
「お疲れ様です」
艶やかでいて魅了するような甘い声。彼女の手にはランタンと、更に僕と同じように懐中電灯が握られている。足元にはバッグとスコップが置かれていた。僕が彼女を自分の懐中電灯で照らすと、僕とこの場所で待ち合わせている溝入さんの顔が鮮明になった。
「なんで……」
途端に言葉を失う彩香。デニムのパンツにダウンジャケットを羽織った溝入さんはニット帽も被っていて、不敵な笑みで彩香を見据える。すると溝入さんは懐中電灯を足元に置き、バッグからロープを取り出した。
「豊永さん、騒がれて手間を取るのも良くないので、早速取り掛かりましょう」
「はい」
「え? 佑介さん? どういう――」
僕は懐中電灯を持ったまま彩香を抱きしめた。腕を自分の体に密着させた体勢で僕に抱きしめられた彩香は完全に拘束された状態だ。僕は彩香の耳元で彩香と最後の言葉を交わす。
「ごめん、彩香」
「どういうこと? なんであの女がいるの?」
やはり彩香は溝入さんの顔を認識していたか。会社の外まで様子を見に来たり、溝入さんのアパートまで押しかけて来たりしていたので当たり前の話ではあるが、僕の知りうる限りこの時が彩香と溝入さんの初対面だ。
「彩香には死んでもらおうと思って」
「そんな……」
自分でも驚くほど冷徹な声が出たと思う。彩香が身動きの取れないように抱きしめたまま溝入さんを見ると、彼女は地面を踏み鳴らしながらランタンとロープを手に僕たちに近づいていた。
「佑介さん、あの女にそそのかされたの?」
「違うよ」
「そうよ」
僕の言葉に被せて溝入さんが僕と反対の事を言った。それを耳で反応しながらも僕は自分の言葉を続けた。
「そそのかしたとかじゃないよ。彩香より溝入さんのことを好きになったんだ」
「そんな……」
僕の胸で彩香の落胆の声が弱く響く。それに構うことなく僕は続けた。
「溝入さんとなら交際をオープンにできるし、結婚もできるんだ」
「私も豊永さんのことを愛しているの」
すると溝入さんが会話に割って入ってきた。彩香は動きにくそうにしながらも僕の腕の中で首を回し溝入さんを向く。彩香は今どういう表情をして溝入さんを見ているのだろうか。体が震えているのは感じるが、彩香の頭しか視認できない僕に彼女の表情を窺い知ることはできない。そんなことを考えていると聞こえてきたのは溝入さんの声だ。
「だから豊永さんに戸籍のないあなたを殺すことを提案した。だからそそのかしたっていうのはあながち間違っていないわ」
「いや、止めて。私は佑介さんとただずっと一緒にいたいだけなの……」
僕の胸の中の彩香の声は怯えに変わった。コート越しに感じる彩香の体の震えは寒さもあるのだろうが、やはり恐怖心かと納得する。
「残念ね。豊永さんは私の恋人なの。私は自分を見てもらうために努力した。それであなたから奪ったのよ。だからもう彼はあなたに気持ちはない」
尤もな話だと思う。確かに溝入さんは不満を言いながらも、それでも理解してこんな不倫のような付き合い方を何カ月も続けてくれた。彩香も尽くしてくれたとは言え、それは存在意義と能力オプションによるものだけで、結局は嫉妬に狂って僕は振り回された。
そもそも僕の不貞行為が原因ではあるが、引き返せないところまできたのだ。僕は自分のことなんて平気で棚に上げよう。
「全部あんたのせいだ……」
「え……」
僕は驚いて彩香を拘束する力が一瞬抜けそうになったがなんとか気を保つ。驚いた理由は彩香の言葉と同時に彩香の震えが止まったからであるが、一体彼女にどんな変化があったというのだ。しかし溝入さんはもう手の届くところまで来ているわけだし、僕はこのまま彩香が動けないようにするだけだと思い至った。
「許さない」
尚も言葉を続けるその彩香の声は憎悪にまみれていた。頭の向きから視線は溝入さんのようだが、明らかに先ほどまであった恐怖心がなくなっている。それは声からも止まった体の震えからもわかる。
そしてなんだかおかしいのは僕の方だ。彩香が声を出した時に意識がすっと遠くに感じた。しっかりと気を保ち、彩香を拘束しているが、次の彩香の言葉でもやはり意識が離れていくような感覚に陥った。
「一生呪うから」
「一生ってあなたは今から私と豊永さんに殺されるじゃない」
「あなたの一生を呪うって言ってんのよ」
やはりどこかぼうっとする感じがある。彩香と溝入さんの会話は耳に入っているのだが、この場に集中できないのだ。
「笑わせないで、そんなオカルト」
「今私が動ければ、逆にあなたを殺してる。あなたが憎い。あなたを殺したい」
プツンと音を立てたように意識が切れた。……と思っていたが、僕の腕の中にいる彩香に気づいてそれは一瞬のことだったのだと理解した。とにかくもたもたしていいことはない。早く終わらせよう。そう思い、僕は動いた。
そして僕たちは彼女を殺した。
その後は、溝入さんが用意してこの場に持って来ていたスコップで穴を掘り、死体を埋めた。人が来るような場所ではないと思うが、この少しだけ広場になっている所は避けて、木々が密集する場所で、なんとか死体が収まる所に穴を掘った。ロープなどの証拠品も一緒に埋め、作業に使ったスコップだけは近くの崖から投げ捨てた。
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