第21話 破局への焦り
結局溝入さんと個人的に会うことはないまま十月を過ぎて十一月になった。彼女との交際は専ら会社支給の折りたたみ式携帯電話でのメールだ。それは持ち帰らないため日中だけの使用である。溝入さんはそれが不満なようだし、いつも彩香の様子を窺ってくる。様子とは無論、自殺をしそうな雰囲気があるかどうかだ。
この日僕は従妹の結婚式のために有給を使って実家に帰省していた。一泊二日の二日目で前日が結婚式だった。しかし彩香には二泊三日だと言ってある。この機会を逃すべくはないと溝入さんに言われて有給を一日多く取ったのだ。
以前出張の時は彩香が会社に僕の所在を確認するために電話をかけるという暴挙に出た。しかし今回は彩香の存在は勿論、その彩香に連絡先を知らせていない実家である。だから彩香に知られる心配はないと思うのだが、あの嫉妬深い彩香のことだ。自宅での見送りの際は大層寂しそうな顔をしていたし、油断はできない。
「いいところですね」
旅館の部屋に到着するなり荷物を置いて窓際に立つ溝入さん。窓とその奥の景色を背景にした溝入さんの後姿は随分と趣がある。
実家を後にした僕はこの日、僕の実家がある県内の温泉旅館に来ていた。僕の実家から電車を乗り継いで二時間、車だと一時間半と言った距離だ。溝入さんは都心から電車とバスを乗り継いでこの温泉街で僕と落ち合った。
冬を前にしてこの温泉街は都心よりも寒く、先程まで溝入さんはベージュのコートを着ていた。それを部屋のクロークに掛け、今はタートルネックの白いセーターといういでたちだ。下はミニスカートで、細くすらっとした脚が綺麗だ。
「ここ、昔はよく家族旅行で来てたんです」
「そうなんですね。豪華な旅館ですもんね」
僕が荷物を置きながら言うと、振り返って目を細めてくれた溝入さん。日の光が逆光になった彼女は表情が陰になっているが、窓枠が額縁のように見え、そしてまだ紅葉しきれない屋外の木々がその被写体を際立たせる。
溝入さんが言うようにこの旅館は古くも老舗で、内外装共に豪華である。部屋も二人で過ごすには十分な広さでゆっくり寛げる。そして部屋風呂もあるのは何とも心をくすぐる。平日なのが功を奏したのか、紅葉のピークより少し早い時期なのが良かったのか、人気の旅館ながら予約を取ることができた。
溝入さんは久しぶりにこうして僕と過ごすことがよほどご満悦のようで終止笑顔である。先程この温泉街の待ち合わせ場所で会った時からすかさず僕の腕を取り、この部屋に入るまでそれを解くことはしなかった。それに僕は浮かれていたわけで、宿帳を記入する時に書きづらかったことは敢えて何も言わなかった。
彩香への愛情が薄れたことを感じている僕にとって、こうして溝入さんと過ごすことは癒しの時間である。一緒に部屋風呂に入り、夕食を取って、その席で酒を嗜む。至福の一時だと思っていた。しかしその夕食の席で溝入さんが酔っ払った。
「コソコソして、不倫旅行みたいで悲しいです」
「すいません……」
部屋に運ばれてテーブルに並べられた料理はもうほとんど平らげていた。ビール瓶も空き瓶しかなく、お互いの手元にあるのは熱燗だ。溝入さんは頬を赤らめてその手元のお猪口をグッと煽った。
「なんで私がこんな窮屈な思いをして豊永さんとお付き合いしなきゃきけないんですか」
その不満は僕が彩香に対して抱いている不満と同様であり、溝入さんが言うのも頷ける。そして今溝入さんがしていることは明らかな絡み酒で、僕は居たたまれない。しかし彼女の目は据わっているようには見えず、キリッとした視線を真っ直ぐ僕に向ける。
「すいません……」
「豊永さん、さっきから謝ってばっかり」
「すい……ません……」
僕はその指摘に対しても結局尻すぼみになる謝意を口にするしかないわけで、溝入さんに対して心から申し訳なく思う。未だ彩香のことが解決しないままここまで僕についてきてくれるのは感謝しかない。
「完全に私に乗り換えれば何不自由なく、制限もなくお付き合いできるじゃないですか?」
「はい。ご尤もです」
僕は空いた溝入さんのお猪口に酌をしてから自分のお猪口にも熱燗を注ぎ足す。すると二合瓶が空になったので、内線を使って追加の注文をした。そして僕が座布団に戻ると正面に座る溝入さんが再び突き刺すような視線を向けてくるので、それが痛い。しかし僕の意識はと言うと、溝入さんの肌蹴た浴衣の胸元に向かうのだ。
「あれ以降、彩香さんに自殺の兆候はないんですか?」
「はい、残念ながら……」
ここで大きくため息を吐く溝入さん。僕も我ながらこんな不謹慎なことをよくも「残念ながら」などという言い方ができるものだと思う。相変わらず溝入さんの視線は痛いので、僕は少しだけ視線を落とし、そのふくよかな谷間をぼうっと眺めながら話をする。
「戸籍がない人だし、あれほど嫉妬深い人だから追い出すことも叶わないのはわかります」
溝入さんの言うとおりだ。戸籍がない人間を追い出して万が一事件化されれば僕にも火の粉が降りかかる。それどころか追い出したところであの彩香のことだから、どうあがいても戻って来るだろう。だからそんな一方的なことはできない。
「でもだからこそ、この世からいなくなってもらおうって話じゃないですか」
「はい、そうです」
「それなのに一向にその気配がない」
「はい……」
「もうこれ以上は無理です」
「え……」
僕はヒヤッとして視線を溝入さんの胸元から彼女の目に移した。相変わらず溝入さんは突き刺すような視線を僕に向けている。しかし心なしか瞳が潤んでいるように見えるのは酒のせいだろうか。それとも……。
「確かに一度は様子を見ようということにしました。けどもうこれ以上は待てません。計画を実行しましょう」
「ちょっと――」
「それが無理なら私と別れてください」
焦った僕の言葉を遮って決定打を放った溝入さん。僕の背中を冷や汗が伝う。
溝入さんと別れる? 絶対嫌だ。そんなのは絶対に受け入れられない。ずっと女日照りの人生を送ってきた。それがやっと念願叶って、しかもこれほどの美人を恋人にすることができたのだ。彩香みたいに結婚できない買った人材ではない。社会的にも存在を認められた女性なのだ。
胸がざわつく。溝入さんに振られるという嫌な想像が頭の中で周回する。溝入さんから目を離せないでいると、潤んでいた彼女の瞳から一筋の涙が頬を伝った。それを見て僕の口から言葉が零れた。
「わかりました。彩香を殺します」
「ありがとうございます。協力は惜しみません」
「よろしくお願いします」
溝入さんの涙を見て消えていた彩香への殺意が再び沸き立つようだ。けどまだ足りない。彩香が自殺未遂をした日のようなあの腹の底から頭の天辺まで沸き立つ殺意には程遠い。これから溝入さんと決める実行日までに僕はその殺意を最上級のものまで高めなくてはならない。そう、彩香の自殺未遂で一度は沈静化した殺意を再び蘇らせるのだ。
「決行は来週末、土曜日の深夜でどうですか?」
「はい、わかりました」
溝入さんの言葉に僕は拒否や曖昧を示す余裕はもうなくなっていた。溝入さんとの破局がとにかく怖いのだ。だから彼女の意思を尊重することは自然と決意できた。あとは殺意を最高潮まで募らせるだけだ。
「失礼します」
部屋の外の襖の向こうからの仲居の声で、意識を現実のものに引き戻された。そう思うということは、やはりまだ殺害というものに現実味を感じていない証拠である。
「追加の熱燗をお持ちしました」
仲居がそう言ってテーブルの上に熱燗を置いた。その時溝入さんは既に涙を拭いていて、満面の笑みでお礼を言っていたのだが、僕はうまく表情を作れていただろうか。こんな時は溝入さんの臨機応変な態度の変化が羨ましく思う。
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