第20話 奴隷
彩香は自殺未遂を起こした。そのことがここ数日僕の頭から離れない。あれほど強い殺意を抱いていたのに、いざその対象が自ら死のうとしているところを目の当たりにすると、咄嗟に体が動いて助けてしまった。
それ以降、彩香とは普通に暮らしている。彩香が会社への送り迎えをすることもなくなった。彩香は彩香で僕を束縛したことによる反省はあるようだ。尤も、そもそも彩香を裏切ったのが僕だと言われてしまえば身も蓋もないのだが。
溝入さんとは結局それ以降会社以外では会っていない。仕事の拘束時間中に会社支給の折りたたみ式携帯電話で連絡は取っているが、それ以外の個人的なやり取りはない。それに不満を感じたのか、この日は溝入さんから呼び出された。場所は経理課専用の資料庫である。
普段僕が立ち寄る場所ではないし、若手とは言え仕事をバリバリこなす溝入さんは鍵の取り扱いも特段怪しまれない場所だ。これほど目立たない場所のため、その話の内容は察するところがある。
「お仕事大丈夫でした?」
「ええ、はい。今日はこの後半日、社内業務のつもりですので」
昼休みが終わって少し経った時間帯、スチールラックが所狭しと並べられた狭い資料庫は殺風景だ。十月も終盤のこの時期、この場所は寒さすらも感じる。
すると僕に迫ってくる溝入さん。僕は後ずさりをするようにスチールラックに背中を預けた。それを小悪魔のような不敵な笑みを浮かべて僕に密着し、溝入さんは深いキスをしてくる。社内でこんなことをするのは初めてで背徳感に押し潰されそうになりながらも、溝入さんの唇と舌の感触に酔いしれる。
「お昼のデザート。ご馳走様です」
下唇を噛んで上目遣いで僕を見る溝入さんは魅惑的である。唇に残る余韻と溝入さんのその表情が僕の興奮を煽るが、今は業務中でありここは社内だ。僕はグッと理性を働かせる。
「寂しかったぁ」
甘い声で僕の胸に頬を寄せる溝入さんの肩を僕は抱き返す。化粧が付着したり、その匂いや香水の匂いが付かないか一抹の不安を抱くが、僕に溝入さんを突き放せるような強い意思はない。
溝入さんとは彩香の殺害計画を練って以降会っていないわけで、溝入さんはその実行まで僕と会うことは我慢している。彩香がいなくなれば心置きなく僕と交際をすると張り切ったメールが頻繁に届く。それでもこの日は我慢できなかったのだろう。
溝入さんは一度僕の胸から離れるとハンカチを取り出し僕の唇を拭った。その時に僕を見上げる溝入さんの瞳がとても綺麗で思わず見惚れるが、やはりリップが付いてしまっていたのかと冷静に思考する自分もいた。
「彩香さんに戸籍の問題がなければただ早く別れてって言うんだけどな……」
ハンカチをポケットに仕舞いながらそんなことを言う溝入さん。そう、戸籍のない人間を今更放り出すことができないことを彼女は理解している。だから恋人間の破局をさせるのではなく、物騒な方法に思い至ったのだ。
「今週末ですからね」
空いた両手を僕の腰に回し相変わらず上目遣いで言葉を続ける溝入さん。彼女の言う今週末とは殺害実行の日だ。携帯電話のメールで打ち合わせを重ね決まった。尤も、証拠を残さないためにそのメールは溝入さんに言われたとおりこまめに消しているが。
「えっと……、そのことなんですが……」
「ん?」
言いにくそうにする僕を見据えて溝入さんが僕を見上げたまま首を傾げる。その仕草すらとても魅力的なので、この先の言葉を続ける意思が弱りそうになる。
「もしかして、今更怖気づいちゃったとか?」
揶揄かうように追い討ちをかける溝入さんは薄く微笑んでいてこの表情もまた艶やかだ。それでもこんなことを言われては僕も黙るわけにはいかず、溝入さんに話し始めた。
「彩香が自殺未遂をしたんです」
「え!?」
少し身を引いて目を見開いた溝入さん。驚いた様子を隠さなかったのだが、この後僕から事の経緯を聞いてジトッとした目を向けた。
「なんでそれを止めちゃったんですか?」
「反射的にと言うか……」
言葉を濁すように頭を掻く僕はばつが悪い。溝入さんは拗ねたような視線を外さず続けて僕を咎める。
「勝手に死んでくれればこっちは死体の処理だけで済むのに」
それでも死体遺棄という犯罪には手を染めなくてはいけないのかと内心肩を落とすが、そもそも戸籍のない彩香なのだからそれは避けて通れないのだと納得する。警察に届けたところで自殺以外のことまで事件化されてしまう。とは言え、既に人身売買に手を染めている僕だから今更その罪はなくならない。
「でも、彩香さんに自殺願望が生まれたなら計画を一旦止めて様子を見ましょうか?」
「はい。その方がいいかと」
一度は完全な殺意を抱いた僕にもう怖気づいた気持ちはない。それでも彩香の自殺未遂を目の当たりにして熱が冷めてしまったとは感じる。だからこの様子見と言う提案を期待していたことは紛れもない本音だ。
「と言うことは、彩香さんの嫉妬心を煽らなきゃいけないですよね?」
「え? それは……」
「ん?」
再び首を傾げる溝入さんだが、彩香の行動を思い返すと今の溝入さんに見惚れている余裕もない。彩香は彼女の存在を隠したい僕の意に反して会社に電話をかけるなど、僕が焦るようなことをしでかした。それは彩香の嫉妬心を煽ったからであるので、僕はこれ以上そうすることに抵抗もあるのだ。
「もう……」
それを説明すると途端に膨れる溝入さん。彼女にももどかしい思いはあって、それによる不満は溜まっているのだろう。なんとか現状は変えないといけないことはわかっているのだが、妙案は浮かばない。
「わかりました。とにかく様子を見ましょう」
「はい。お願いします」
僕がそう答えると溝入さんは満面の笑みを浮かべて再び深いキスを求めてきた。気の済むまで僕の唇を貪ると、またハンカチで僕の口をゴシゴシ拭いて僕達は時間差で資料庫を出た。
ひとまず殺人にまで手を染めなくてもよくなったことに僕は安堵するが、死体遺棄は残るしそもそも人身売買は犯している。それに一度強い殺意を抱いてから彩香が死ぬことへの抵抗感はもうない。だから反射的とは言え、溝入さんが言うように彩香の自殺を止めてしまったことは確かに悔やまれる。
彩香の言動を思い返すと自身が僕の重荷になっていることを悔いていた。それが自殺の動機だと思われる。それならばその「重荷」をそれとなくアピールして、自宅では冷め切った自分の気持ちを見せつけようと思う。そうすればまたいつか自殺に走るかもしれない。つまりわざわざ僕が殺意を抱く必要もないのだ。
それでも意思の弱い僕は自宅で彩香の身体だけは求めた。一緒に風呂も入るし、膝枕で彩香に耳掃除もしてもらう。つまり欲のままに彩香に触れることは止められないのだが、それでも会話という観点では露骨に素っ気無くするようになった。
そして寝る前のセックスは欠かさない。彩香が生理でもない限り毎晩一回は抱く。彩香も性欲は強い方だと思うので一切拒否することなく、それどころか抱かれることに喜びを感じている様子だ。
「佑介さん、好き、大好き」
そう言っていつも彩香は僕の侵入を許す。彩香への愛情が冷めて性欲だけで彩香と付き合っている今の僕はただ無言で彩香を抱く。行為が終われば腕枕もしなくなった。彩香はそんな僕を恨めしそうに見ては寂しそうに目を閉じて眠る。それに対して良心が痛むことも否定できない僕は、すかさず彩香に背を向けて眠ろうとするのだ。
こんな生活でこんな付き合い方をしていると、僕にとっての彩香の存在意義は恋人ではなく、性処理のための女に成り果ててしまったなと感じる。つまりはこの国で許されていない奴隷そのものである。
彩香にとっては恋人が存在意義なので僕に尽くす気持ちもあるのだろうし、それ故に付された家事能力から家事の全般もこなす。しかし今や完全に僕との気持ちがすれ違ってしまっている。だからこそ僕は思うのだ。
――早く死んでくれないだろうか。
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