第19話 完全な殺意

 出張名目の日、事実は有休の日の朝。ホテルをチェックアウトした僕と溝入さんはランチやショッピングを楽しんで別れた。その間にも引っ切り無しにかかってくる電話や届くメッセージにうんざりしながらも、時々それに相手をしていた。無論、その相手は彩香で、溝入さんはせっかくのデートなのにそれが不満なようだった。

 そして夕方、自宅最寄り駅を出た僕はスマートフォンのマナーモードを解除しようと端末を手にしたところで端末が振るえた。また彩香かとげんなりしながら表示を見てみると、その時間はまだ仕事をしているはずの会社の後輩からの着信だった。


「もしもし?」

『あ、豊永さん? 有休の日に個人の携帯にかけちゃってすいません』


 恐縮そうな第一声の男性社員。確か、彼は溝入さんと同期だったと思う。昨日まで出張に出ていたのは本当のため、先ほどまでは会社支給の携帯電話を持っていた。しかしそれは溝入さんと別れ際に彼女に預けた。

 恐らく会社支給の携帯電話に電話をかけたのだろうが出なかったため、個人所有のスマートフォンにかけ直したのだろうと予想ができる。彼も自身の携帯電話からかけてきているわけだし。つまり緊急の用事だろうか。


「いいけど、どうした?」

『いえ。そんな大した用事じゃないかもしれないんですけど、一昨日から会社に先輩宛てに女の人から電話がかかってきてるんですよ』

「え……」


 血の気が引くような感じがした。一気に悪い予感が僕を襲う。


『昨日まではうちの部署の事務員が電話に出てて出張不在を伝えてたんですけど、今日はたまたまついさっき僕が出ちゃって。有休取って休みですって答えておきました』


 恐らく僕は今、顔面蒼白になっているのかもしれない。スマートフォンを持つ手とは反対の手でキャスター付きカバンを引いて歩く僕の足は止まり、頬の筋肉がピクピクと痙攣していることすらも感じる。僕は恐る恐る後輩に問いかけた。


「相手の名前は……?」

「豊永アヤカさんって言ってました」


 今度は引いた血の気が一気に沸き立ち頭の天辺から噴出したような感覚に陥る。話題の電話の主は間違いなく彩香であり、苗字のない彼女が僕と同じ苗字を名乗ったことにも納得できる。戸籍のない彩香があれほど会社の人間と接触することを嫌っていたのに何てことをしてくれたんだ。


「声若そうでしたけど、妹さんか親戚の方ですか?」

「あぁ、従妹」

「あぁ、今度結婚式があるから有休取るって言ってた?」

「そう。連絡ありがとう。かけ直しておくわ」


 僕はそそくさと電話を切ったが、この時咄嗟に従妹だと嘘を吐けたことは自分を褒めてやりたい。尤も、後輩が親戚を予想した言葉をくれたからではあるが、従妹の結婚式のため近々有休の申請をしていることは部署内で周知させてある。

 それよりも彩香である。出張の期間中にまさか会社に電話をかけていたとはまったくの予想外であった。溝入さんは部署も違うからそのことを把握していなかったのだろうし、そもそも後輩の言い方から電話は僕の部署の直通電話にかけられたものだと思われる。

 彩香は僕の部署の直通電話の番号をよく知っていたなとも一瞬思ったが、僕が知らない間に僕の名刺でも見たのだろう。そこまでしていたのかと怒りが沸々と沸く。


 後輩からの電話を切ったその手でスマートフォンを操作してみると、この十分ほどの間に彩香からの着信とメッセージが大量に残っていた。僕は震える指でメッセージをタップすると、それは案の定彩香からの怒りの文面であった。最後の一日だけ出張が嘘であることが完全にバレてしまっていた。


 僕は大きく深呼吸をした。直接僕に差し込む夕方の日が僕の滑稽さをあざ笑うかのようである。この夕日に照らされる自分が恨めしい。

 落ち着かせようと思ってした深呼吸だが一向に僕の怒りが収まることはなかった。彩香に対する裏切り行為をしているのは僕だから、倫理的に言えば僕に異論の余地がないことはわかっている。しかしなんで僕がこれほどまでに窮屈な思いをしなくてはならないのか、その不満がどうしても拭えない。


 僕は私利私欲のために彩香を買った。それは奴隷を買うことと同義であり、明らかに道徳に反した行為だ。そんなことはわかっている。

 それでも彩香を愛したことは本当だし、生活もさせてきた。確かに彩香は多大に尽くしてくれたが、僕だって小なり彩香に尽くした自負はある。僕だって甘い夢を少しくらい見てもいいではないか。戸籍のある溝入さんとの将来を妄想したり、避妊をしなくてもいいセックスに心置きなく耽ったり。

 犯罪というリスクを冒して、生活をさせるという経済援助もしたにも関わらず、なんで僕がこれほどまでに束縛されなくてはいけないのだ。


 今、明確になった。そうか、今まではまだ甘かったのだ。まだ不完全だったのだと思い知った。これが本当の……心からの殺意か。今初めて僕は彩香に対しての愛情が消えた。つまり残っているのはどす黒い殺意だけである。

 それを自覚した僕はキャスター付きバッグの取っ手をしっかりと握り、再び歩を進めた。少し先にある角を曲がれば僕のアパートが見えて、やがて彩香のいる自宅に到着する。心なしか僕の足取りは早い。それこそ地面を踏み鳴らすようだ。


 気づけば自室のある階まで上がり、僕は震える手をもう片方の手で押さえながらなんとか玄関ドアに鍵を挿し込み回した。カチャリと解錠の音が僕の耳と手に伝わる。

 落ち着け、落ち着け。僕は自分に言い聞かす。昨晩溝入さんとしっかり打ち合わせをした。今日ではない。感情で先走ってこの場で彩香に手をかけることは許されない。今はとにかく、彩香が会社に乗り込んで来ることがないよう、彼女をしっかりと見張ることだけを考えろ。

 絶対に失敗は許されない。だから先走るな。どれだけ暴力を受けても今だけは耐えろ。


 僕は震えが収まらない手で玄関ドアのノブを回し、玄関を開けた。まだ日の出ている時間帯だが、日が当たりにくい玄関は薄暗い。僕は彩香と暮らし始めてから初めて「ただいま」の言葉を発することなく靴を脱いで部屋に上がった。荷物はその場に置き、僕は廊下を進みリビングのドアを開ける。


 ガタン


「え……」


 その光景に僕は目を疑った。そして考えるよりも先に体が動いていた。天井から吊るされたロープに彩香は首をかけ、僕が入室した時ちょうど踏み台にしていた食卓の椅子を蹴ったところであった。

 僕は慌てて椅子を整え、彩香をその上に立たせると、彼女を絞めるロープがその役割をなくして緩んだ。


「げほっ、げほっ」


 椅子の上で僕に寄りかかりながら咽込む彩香の首から僕は丁寧にロープを外した。そして彼女を床に下し、僕たちはそのまま床に座った。


 パンッ


 乾いた音が部屋に響く。弾かれた彩香の顔がそっぽを向くようにしていて、彩香は手で頬を押さえた。僕の掌がジンジンと鈍い痛みを感じる。僕は生まれて初めて女に手を上げた。


「何てことしてんだ!」


 次に部屋に響いたのは僕の怒声である。頭では理由もわかっていて、それ故に自分のしたことを棚上げしていることもわかっている。それでも怒鳴ったし、行動すら何もかもが感情のままであり反射的であった。


「だって……だって……」


 嗚咽しながら彩香は大泣きを始めた。そして泣いているがため聞き取りにくい声で話し始めた。


「私なんか……、佑介さんの重荷なんだって思ったら、死んだ……方が、いいと……思って……」

「重荷ってそんなこと……」


 そんなこと……あるはずだ。正に僕は彼女に対して誤魔化しようもない殺意を抱いてから今日はこの家の玄関を開けたのだから。だから尻すぼみになる自分の言葉に続くものはなかった。なんで僕は彩香を助けてしまったのだろう。


「出張って嘘吐いて、あの女と会って……たんでしょ? 私のことが嫌になって……他の女のところに行ったんでしょ……? 私なんか、佑介さんを幸せにして、あげ、られない、から……死んだ方がいいんだ」


 僕は頬を押さえたまま泣く彩香を抱きしめた。すると彩香は更に大声を出して、僕の胸で泣いた。時間にして数十分、彩香はわんわんと子供のように泣き叫んだ。

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