第17話 天秤

 通勤に使う電車の中でも距離を空けて立っていた彩香だが、尤もそれは同じ車両に乗り込み、視認できる場所だった。そして電車を降りて自宅最寄り駅の改札口を抜けるとすかさず僕の隣に並んで、空いている方の僕の手を握った。


「お疲れ様」

「うん」


 遠慮がちに声をかけてきた彩香のこれが第一声目であった。一応ながら僕はしっかりと彩香の手を握り返した。

 日も暮れて辺りが暗くなったこの時間帯はさすがに暑さを感じることはなく、時折吹く弱い風は涼しさをも感じる。街の明かりはすっかり灯っていて、駅前のこの周辺は店舗などが立ち並んでいるので随分明るい。


「もうご飯できてるよ」

「そっか、ありがとう」

「今日は少し早めだし先にお風呂入る?」

「そうしようかな」

「私も一緒に入っていい?」


 ダメではないのだが、彩香に対して煩わしいと思い始めている僕には何となく抵抗がある。しかし過剰に拒否反応を示してはまた何を疑われるのかわかったものではないので、僕は「いいよ」と言って受け入れた。

 自宅アパートがある方向へ進んでいるので、一本細い路地に折れると途端に明るさが落ちる。とは言っても地方出身の僕からしてみたら、路地裏でも都会は随分と明るい。あくまで通りに比べればという話だ。


 駅を出てから僕の手を握る彩香はそれ以降しっかりと擦り寄って来てもいて、歩きにくくもあるのだが、それが可愛らしくも思う。僕は彩香に対して煩わしいと思う感情と、こうしてまだ目を細めることのできる感情の同居に矛盾を感じていて、すっきりしないものが腹の中に溜まる。

 これこそが、僕が彩香に抱く不完全な殺意を痛感させる。そう、僕はまだ彩香のことを愛している。溝入さんに彩香の殺害を決意表明したものの、果たして本当に彩香を殺すことができるのだろうか。まだ計画も整わない段階で僕はそんな葛藤を抱えている。


 やがて自宅アパートに到着し、玄関の鍵を掛け、僕が振り返ると彩香が僕を玄関ドアに押さえつけた。一瞬焦りもしたが、彩香は足りない身長を目一杯背伸びして僕の唇に自分の唇を押し付けてきた。

 僕はその場にリクルート鞄を落とすと彩香を抱きしめて、彩香の求めに応じた。昨晩は地下鉄の駅のホームで錯乱していた彩香だが、この日はしっかりと場をわきまえてくれたことを評価したが故の行動だ。


「良かった。ちゃんと帰って来てくれて」


 気の済むまで僕の唇を貪った彩香は僕の胸に顔を埋めて安堵の言葉を漏らす。そう言うのならば束縛をしなければいいのにとも思うが、そもそも僕の裏切り行為が原因のためその自己主張ができない。

 僕は自分に抱きつく彩香をそのまま抱え上げて靴を脱ぐと、彩香が既に靴を脱いでいることを確認して洗面所に移動した。そこで今度は僕が彩香の唇を貪りながら彩香の服を脱がせた。


 部屋に入るなりいきなりあんなことをしてくるものだから、僕は興奮していた。彩香も嫌がることなく僕の行動を受け入れているので、僕は自分も服を脱ぎ、彩香を連れて風呂に入った。

 そしてそこで彩香と行為に至ろうとした。……のだが、ここにはコンドームがない。結局、彩香の中に入ることは諦め彩香に処理してもらってから僕達は入浴を済ませた。やはり避妊に気を使わなくてはいけないことが何とももどかしい。溝入さんなら制限のないセックスを施してくれるのに。


 風呂を済ませて食卓に着くと彩香が缶ビールを用意してくれた。彩香がプルタブを引くとプシュッと爽快な音が出て、それが僕に手渡される。それほど酒が強くない彩香もこの日は飲むようで、自分の手元には缶チューハイが置かれていた。


「今日もお疲れ様です。お帰りなさい」

「うん、乾杯」


 お互い手に持った缶を合わせるとこの日の夕食が始まった。今の時間帯は涼しくなったとは言え、昼間は暑かったので喉を通るビールの炭酸と苦味が心地いい。大きく息を吐いて缶をテーブルに置くと彩香が微笑ましく僕を見ていた。やはり彩香の笑顔はあどけなくて可愛らしい。

 決心が揺らぎそうなので、僕は彩香から視線を外して食事を進めたのだが、彩香の料理はこれまたやはり美味しく、胃袋を掴まれているのかなと思う。尤も、その家事力は僕が希望して彩香に付したオプションなのだが。


 しかし夕食までは穏やかに過ごした僕達だが、この晩も揉めた。それは彩香が夕食の片づけまで済ませて、自身の膝枕で僕の耳掃除をした後のことだった。僕にとっては癒しの時間であり、心地よかった耳掃除の余韻に浸りながら彩香の太ももの感触を楽しんでいた時に、彩香が話し始めたのだ。


「私の戸籍の話ってどうなってるかな?」

「うーん……、まだ道が見えてない」


 あまり興味を示さない答え方をしたのがいけなかったのだろう。彩香は太ももに僕の頭を載せたまま声色を変えた。それは明らかに怒気を含むものだった。


「本当に動いてくれてる?」

「は? 動いてるよ」


 その言い方に少しムッとして僕は彩香の太ももの上で首を回し、彩香を見上げた。彩香はその表情からも苛立ちを窺わせた。本当のことを言ってそれを疑われた僕にも苛立ちが生まれた。

 ただ、本当のこととは後半の部分だけである。母が泊まりに来た日に実家の経済事情を聞かされて一度は諦めた彩香の戸籍費用だが、実はその後、僕は祖母にも探りを入れていた。

 祖母の話によると母が言ったことは本当のことだが、なんと祖父母の方には多少の蓄えがあるそうだ。だから困ったことがあれば相談するようにとありがたい言葉までもらっていた。つまり金策のため探ったのは本当なので、動いたことは事実だ。しかしその前に言った「道が見えていない」は嘘である。


「佑介さん、本当に私と結婚する気ある?」

「疑ってんのかよ?」


 どんどん苛立ちが増す。ただこの苛立ちは図星を突かれていることによるものだろう。

 僕との結婚の希望を口にしてくれるもう一人の女性、溝入さんと比較すると、彩香は戸籍の分だけ金がかかる。更には手に職がない。もし戸籍を付したとしても将来働かなくてはいけないことになったら職探しは不利だろう。

 逆に溝入さんは経理の経験があるし、そもそも戸籍のために金がかかることはない。言ってしまえば、比べるまでもない話なのである。


「だって佑介さん、浮気してるじゃん」


 それを言われるとぐうの音も出ないのだが、ただ心の中で浮気ではなく二股交際だと反論をしておく。


「女の影があるからいけないんだよね」

「は?」


 焦りを覚える言い方である。だから僕は思わず反応をしたのだが、この後彩香の口から何が出るのか恐ろしくもある。そしてそれは案の定であった。


「私がその女とは別れさせてあげる」

「は!? 何すんだよ?」


 思わず僕は彩香の膝枕から体を起こした。お互いにリビングソファーに座った状態で真剣に見つめ合う。


「スマホ貸して」

「相手の連絡先、入ってないよ」


 これは本当である。昨晩揉めた時にも彩香には言ったはずなのに納得していないようだ。溝入さんには僕の連絡先を教えてあるが、この手持ちのスマートフォンに溝入さんの連絡先は入っていない。溝入さんと連絡を取るのはこの日会社に置いてきた折りたたみ式の携帯電話だけだ。


「そんなわけないでしょ」

「本当だって。はい」


 僕は素直にスマートフォンを彩香に手渡した。彩香は真剣に僕のスマートフォンを操作する。時間をかけてSNSも開いて、彩香にとっての僕の浮気相手の痕跡を探った。しかし本当に相手に繋がる情報がないと理解したのか、彩香はとんでもないことを言い出した。


「じゃぁ、明日佑介さんの会社に行く」

「は!? それはダメだって」

「なんで? 戸籍がないから?」

「そうだよ」


 これは彩香に対して表向きの理由だが間違いでもない。ただ、今の本音は会社で修羅場なんて勘弁してほしいと願うのだ。

 そしてこの後多大な押し問答を経て、僕は言った。


「わかった。ちゃんと相手との関係は切る。約束するから、少しだけ時間をちょうだい」

「本当?」

「うん。本当」

「わかった」


 やっと彩香が納得してくれて会社での修羅場を回避した僕。しかし状況はすこぶる悪い。本当は溝入さんと別れるつもりなんて毛頭ない。早くなんとかしなくてはいけない。早く、計画を練って彩香を殺さなくてはいけない。

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