第三章
第16話 密談
彩香が修羅場を起こした翌日、僕はスケジュールを無理して調整し、昼休みの時間帯に営業先から会社の近くまで戻って来た。因みにこの日の朝、彩香は本当に僕を会社まで送ろうとした。何度拒否を示しても聞く耳を持たず、結局ついて来たわけだが、何とか会社の最寄り駅で引き返してもらった。
そして昼休みの今、僕は昼食がてら会社近くの喫茶店に入った。雑居ビルの一階にあるこの喫茶店は小奇麗であるが、お洒落とは縁遠い内装である。入店するなりすぐ店内を見回すと華美ではない仕事用の私服に身を包んだ溝入さんを見つけた。
「あ、お疲れ様です」
溝入さんが自身に近づいた僕に気づいて声をかけてくれたので、僕も「お疲れ様です」と言葉を返した。すぐにウェイトレスが水を持って来たのでお互いに注文を済ませた。先に来て待っていた溝入さんも注文はまだだったようだ。
「ここ、意外と会社の人来ないんですよ」
「それは助かります」
この日携帯メールで溝入さんと連絡を取りこのランチの約束を取り付けた。珍しく僕の方から誘ったものだから、溝入さんは嬉しそうな文面の返信をくれた。とは言え、本題が楽しい話題ではないので僕は目立たない場所がいいと注文を付けた。
すると溝入さんがこの店を指定してくれて、そして今、あまり会社の人間が寄り付かないことを知って安堵している。店内はサラリーマンやOL風の客がまばらにいて、満席というわけではなさそうだ。
「昨日は大丈夫でした?」
心配そうに僕の顔を覗きこむ溝入さんの言う「昨日」とは、彩香との修羅場で間違いない。昨晩は帰宅するなり彩香から溝入さんのことを問い詰められるし、僕のスマートフォンを奪おうとして溝入さんに電話をかけようとするし、挙句の果てはビンタを数発受けて僕は未だ意気消沈している。
帰路の地下鉄の駅で初めて抱き始めた彩香への殺意は確実なものとなった。しかし初めて知ったのだが、こういう邪悪な感情を抱くと彩香を滅茶苦茶にしたくて、寝る前のベッドでは夜中まで彩香を何度も何度も荒く抱いた。
それでも朝起きて昨晩受けたビンタで切れた口の中の、頬の裏の腫れが殺意を沈めることはなかった。それは彩香を引き連れて会社最寄りの駅まで通勤している時にどんどん増していき、駅から一人になった僕は会社に到着するなりすぐ、溝入さんにメールを送ってこのランチを取り付けたのだ。
「ええ、まぁ」
「暴力とか受けてませんよね?」
苦笑いの僕に対して心配げな表情が顕著な溝入さんには、僕の外傷が目に入らないのだろう。確かに外傷とは言っても口の中だけなので、僕が暴力を受けたことを溝入さんに気づかれていないのは納得だ。それならば僕は余計な心配をかけたくないのでそれを隠す。
「はい、そういうのは大丈夫です」
「そっか。それでもたぶん、昨晩帰ってからは大変だったんでしょ?」
「ええ、まぁ」
この質問にまで嘘を吐いても反って心配をさせてしまうので、ここは素直に認める。するとウェイターが僕達の注文の品を運んできた。ランチメニューにしたからだろうか、思ったよりも随分早かった。
「食べましょうか? いただきます」
そう言って溝入さんが食事を始めたので、僕も「いただきます」と言って食事を開始した。口の中の出血はもうないが、腫れてはいるので食べ物が当たると痛い。腫れていても顔の外側まで膨れてはおらず、これは朝洗面所の鏡で確認した。だから溝入さんは僕の怪我に気づいていない。
食事中は単純な雑談に費やした。食べながら話をしていると口の中の痛みに不便を感じるが、それでも僕の恋人であるこれほどの美人とのささやかな時間は楽しい。
そして食事が終わり、食後のコーヒーが置かれた時点で僕は本題を切り出した。店内の他の人に対して僕達の会話が聞こえないように声量と言い方には気をつけて話した。
「昨日、帰り際に溝入さんが言ったこと、真剣に考えたいです」
「そうですか、わかりました。協力します」
こういう大事を決意した時に協力者がいるのは何とも心強い。自分ひとりだけでは途中で心が折れてしまいそうだし、そうなったら現状を変えることもできずこのまま流されて彩香に翻弄されていくだけだ。
「うまくできるでしょうか?」
「しっかりと計画を練りましょう」
不安な言葉を隠せなかった僕に、真剣な眼差しを向けて元気付ける言葉をくれた溝入さん。美人は普段の笑顔も今の真剣な表情も本当に美しい。
まだ暑さの残る屋外は強い日光がビルの影を作るが、この店に入るなり涼しい空調の風を感じていた僕は食事の時間も経て、薄ら滲んでいた汗ももう乾いていた。店内の客が少しずつ捌けていくのが確認でき、ぼちぼち午後の業務に戻る時間かと認識する。
「問題はその後の処理の仕方です。実行場所と隠し場所、この二つをしっかり考えましょう」
溝入さんの言う「処理」とは死体の処理のことで、「実行」とは殺害の実行のことを意味するのだと僕は自然と理解した。僕はそれを真剣に聞いて溝入りさんに首肯する。すると溝入さんが途端に満面の笑みを浮かべた。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
「あ、はい」
溝入さんがテーブルの上にあった伝票を引っ手繰るので、僕は慌てて彼女についてレジに立った。溝入さんは基本的に社内業務なので、少しだけ時間に自由の利く営業職の僕と違って午後の始業時間に遅れるわけにはいかない。
「僕が呼び出したんですし、出しますよ」
「じゃぁ、甘えちゃおうっかな」
言葉のとおり甘えたような笑顔を見せる溝入さんを見てふわっと意識が浮遊するような感覚に陥るが、僕は伝票をしっかりと受け取り会計を済ませた。
店を出ると強いビル風が吹き荒れていて溝入さんの綺麗なブロンドヘアーは暴れた。ただこれほど風があっても残暑を感じるのは恨めしい。
「この後も外回りですか?」
「はい。会社には戻らず、このまま出掛けます」
「じゃぁ、詳細は携帯のSMSにしましょう」
「わかりました」
「そのメールはこまめに消してくださいね。証拠が残らないように」
「はい。それもわかりました」
店の前でそれだけ言葉を交わすと僕と溝入さんはそれぞれ午後の業務に戻るべくこの場で別れた。次の営業先へ向かう僕は歩きながら武者震いを感じた。これはどういう意味の震えなのだろうか。自分の体なのにうまくその感情が説明できない。
午後の仕事中は商談や挨拶回りなどを数件こなしたが、特に上の空ということもなかった。しかし、一度営業先を離れて移動の最中などは彩香と溝入さんのことばかりを考えていた。だからこの日は四六時中仕事に集中していたわけではないが、それでも周囲に迷惑をかけることなく業務を遂行できたのだから及第点と言ったところだろう。
そして多少の残業を経て、十九時過ぎに会社を出ると会社が入居するビルの外に彩香がいた。恐らく溝入さんは僕より先に退社していると思うから、彩香と顔を合わせなかったのだろうかと不安になるが、それでも彩香が今一人でいるのでそれは大丈夫だったかと納得もする。
昨晩は溝入さんと別々に会社を出た後、食事のためレストランで落ち合った。彩香がずっと僕をつけて来たのならば溝入さんのこともしっかりと目撃しているはずだ。だから溝入さんが認識されているのは間違いないし、昨晩帰宅後の喧騒の中でもそれは確信できた。
歩道のガードレールに腰を預けて、両手でバッグを握っている彩香は僕に気づくと自分の足でその場に立った。お互いに笑顔はなく、彩香は僕の感情を探っているような表情だ。尤も、それは僕も同様で彩香の感情を読み取ろうとその表情を見ている。
僕は彩香とまだ距離がある時点で駅の方向を指差した。それで彩香は僕の意図を理解したのか、少し僕との距離を空けて後ろを歩いてついてきた。少なくとも電車に乗るまでは彩香と一緒にいるところを僕は会社の人間に見られたくなかったのだ。
そう、それは戸籍のない彩香を隠したい思惑の他に、今後僕が手を染める行為に対する証拠になることも意味するから。
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