第15話 修羅場

 とりあえず僕は溝入さんの部屋に入れてもらい、出された冷たいお茶を口に含んだ。なぜ彩香がこのマンションの下にいるのか。オートロックの扉は開けていないから入っては来ていないと思うが、それでも自動ドアのガラス越しにしっかりと目は合った。そして僕ははっきり逃げたのだからもう隠しようがない。


「豊永さん、大丈夫ですか?」

「ええ、はい」


 いや、大丈夫ではない。僕は完全にパニックに陥っている。何度もお茶を口に含み落ち着かせようとするが、まったく効果がない。すると溝入さんが驚くべきことを言った。


「何なら私が話をしてきましょうか?」

「え!?」


 リビングテーブルの上のお茶に目を落としていた僕は勢い良く顔を上げた。すると溝入さんはまったく動揺した様子もなく、それどころか余裕を持った素の表情で僕を見据えていた。


「私も豊永さんとお付き合いしてるんだから、彩香さんが引いてくださいって」

「は!? そんなこと……」


 そんな修羅場必至な対面なんて冗談じゃない。しかし真っ直ぐに僕を見据える溝入さんの表情からはそれが冗談に見えない。だからこそ恐ろしくもある。


「もしこれが不倫とかなら私が断然不利ですけど、あくまで恋人の取り合いですから。私だって主張する権利はあると思います」


 確かにそうかもしれないが、それはそれで彩香が納得するわけがない。溝入さんの方が後入りであるわけだし、そもそも彩香の存在意義は僕の恋人だ。それが存在意義である以上、彩香に引く理由はない。尤も、それは溝入さんに話せる内容ではないので、溝入さんはこれほど強気に自己主張をするのだろう。


 すると、ゴンゴンゴン、と玄関ドアを叩く音が響いた。


「佑介さん! いるんでしょ!」


 思わず震撼する。玄関ドアの向こうから聞こえるのは彩香の声だ。あれほど僕のことで嫉妬深い彩香だから、彼女にとっては僕の浮気現場であるこの場所に来たことが恐ろしいのだ。


「なんで上がって来れたんだよ……」

「マンションの住人の誰かがエントランスを開けた時に一緒に入って来たんでしょうね」


 焦る僕とは対照的に冷静に玄関を向いて言う溝入さん。尚も玄関ドアを叩く音と彩香の張った声は室内に響く。明らかに近所迷惑であり目立つ。思わず僕は頭を抱えた。


「佑介さん! 出てきて!」

「話してきます」


 彩香の怒鳴り声に反応して溝入さんが立ち上がるので、僕は反射的に溝入さんの手首を掴んだ。


「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ」


 溝入さんは優しく言ってくれたが、僕はブンブンと首を横に振る。僕の怯え方が相当だったのか溝入さんは一度僕の前で屈み、震えを止めるようにそっと僕を抱きしめた。


「どうしたんですか?」


 耳元で甘く溝入さんが囁く。思わずその吐息に酔いそうになるが、彩香の怒鳴り声がすぐさま意識を現実に戻す。しかし溝入さんの落ち着き様は健在で彼女は言葉を続けた。


「彩香さんは戸籍がないんですよね?」

「は、はい」


 こんな時になんでその話をするのだろう。……と思っていると、次の溝入さんの言葉で僕の心臓は大きく跳ねた。それこそ大げさではなく、今まで生きてきた中で一番大きく跳ねた。


「彩香さんを殺しちゃいましょうか?」


 はっきりとその言葉が聞こえたし、意味も理解した。しかし僕は完全に言葉を失い、何も言えないまま真っ直ぐ前を凝視した。しかしこんな時は室内の風景なんて認識できるはずもなく、つまり僕の思考は止まっていたのかもしれない。


「死体さえ上手に処理すれば、戸籍がない人の失踪について私達に疑いがかかることはありませんよ?」


 そう言われて思い出すのは兼房のことだ。彼は未だセミオーダー人材店のショーケースの中で眠っているのだろうか。一度は失踪届けを出されたものの、結局は戸籍がないためにそもそもこの社会に存在しない人間となった。

 溝入さんに兼房のことを引き合いに出している意図があるのかはわからないが、かなり参考になる前例である。僕やセミオーダー人材店の関係者以外はもしかしたら、兼房が死んでいると思っているかもしれないのだから。


「か、か……考えさせてもらっても……いいですか?」


 しどろもどろで答えたが、僕から出た意思表示はこれだった。つまり溝入さんの提案を頭ごなしに否定することなく、一考するというものだ。正直、自分にその意思があるのかもしれないと考えるととても意外であった。


「わかりました」


 そう言って溝入さんは一度僕から離れると深いキスをしてくれた。そのキスで落ち着いたのか僕の震えは止まった気がして、やっと次の言葉が言えた。


「今日は彩香を連れて帰ります」

「そうですか。わかりました」

「僕が出たらすぐに玄関の鍵を閉めてください。もう彩香をここには近づけさせません」

「はい」


 そのように話をすると僕は立ち上がった。溝入さんが寄り添うように僕の手を握ってくれて、玄関までついて来た。そして僕は玄関の鍵を開けると素早く外に出て、後ろ手で玄関ドアを閉めた。すぐに鍵が閉まる音が聞こえた。


「佑介さん」


 外に出てからずっと目を離せなかったのは彩香からの視線だ。彩香の表情からは既に悲しみがなくなっており、怒りだけだと理解した。このままここにいてはまずいと思い、僕は彩香の手を引いて階段を下りた。


「ちょ、佑介さん! 私まだ中の女と話をしてない。離して」


 やはりか、と思った。中とは溝入さんの部屋のことで、彩香は間違いなく溝入さんも含めて修羅場を勃発させるつもりでいた。顔を突き合わせて一体どういう話をしようとしたのか。そもそも話だけで終わるのか。恐ろしくてそんな質問もできない。


 僕はしばらく無言で強引に彩香の手を引いた後、彩香がもう抵抗する様子がないと思って普通に手を繋いだ。もうその時は地下鉄の駅で、階段を下りている時だった。


「なんでここに?」


 その質問をしたのはホームまでたどり着いてからで、二人並んでベンチに腰掛けていた。この晩、彩香と顔を合わせてから最初に出た僕の言葉である。


「会社の前で張ってたんだよ」


 そんなことをしていたのか、気づかなかった。と言うことは彩香にとって僕の浮気相手が会社の同僚だということも知られていると思った方が良さそうだ。手は握ったままだが、彩香は不機嫌を隠さずそっぽを向いた状態である。


「何よ、あの女。私の佑介さんを横取りして」


 溝入さんとの経緯は知らないのであろうが、この彩香の発言に確かに横取りだなと妙に納得してしまった。


「佑介さん、いつからなの?」

「えっと、七月に突然外泊をしたあの晩から」

「本当ムカつく。やっぱり関係続いてたんじゃん」


 返す言葉もない。彩香はずっと疑っていたのだろう。よくよく考えれば毎週同じ曜日に接待だと言って夕食を済ませて帰りが遅くなるのだから、怪しいと思うのが自然か。今更になってそんな簡単なことに気づくのだから僕は自分が情けない。


「絶対渡さないから」

「彩香……」

「私には佑介さんしかいないの。だから絶対に渡さない」


 そう言った彩香の言葉は僕に深く突き刺さる。わかってはいたことなのだが、やはり言葉にして言われると重みが違う。すると突然、彩香がベンチの上で僕に跨ってきた。


「ちょ、あや――」


 こんな公衆の面前で臆することなく激しくキスをしてくる彩香。焦った僕は慌てて彩香を離した。


「ちょ、止めて」

「いや。止めない」


 そう言って再び向けられる彩香の唇と舌。一度離した時に視界に入った周囲の人々。言わずもがな注目していた。僕は彩香を抱きかかえて一度立ちあがり、彼女をベンチの隣に移動させた。これでやっと彩香のスキンシップから解放された。

 彩香の怒りは理解できるが、こんな場所で本当に止めてほしい。うんざりする。すると彩香がその僕の気持ちに拍車をかけるようなことを言うのだ。


「これからは佑介さんの会社まで送り迎えするから」

「は!?」


 冗談じゃない。戸籍のない彩香との関係は隠しているのだ。会社に至っては存在すらも隠していて、知っているのは溝入さんだけだ。ここまでくると僕の腹の中で沸々と湧き上がるものがあり、溝入さんに言われた言葉が頭の中で反復する。


 そう、僕は彩香に殺意を抱き始めた。

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