第14話 負の形相
九月に入ると巷では夏休みが終わり、学生服姿の若者が目立つようになる。夏の暑さはこの都会にはまだ残っていて、営業で一度外を歩けば強い日光の下汗が吹き出る。
僕の浮気が彩香にバレて一月半。日に日に彩香の嫉妬は激しくなった。仕事で帰りが遅くなれば、本当に仕事をしていたのかと疑われる。僕が持っているスマートフォンもチェックされる。僕はそれが煩わしく感じていて、はっきり言ってストレスだ。
とは言え、溝入さんとの交際は続けている。週に一回定時退社の日があるのでその日を利用し、彩香には残業とか接待と言って食事も済ませてから夜遅くに帰っている。事実は溝入さんと食事をした後、彼女の部屋で過ごしている。
彩香との生活の財布は僕が管理しているので、給与明細を見られることはない。だから残業時間の矛盾には気づかれていない。
それに溝入さんとの連絡は会社から支給されている折り畳み式の携帯電話で取っているし、それは会社に置いて帰るか、溝入さんの部屋に行けば彼女の部屋に置いて帰る。僕の自宅には持ち込まなくなった。溝入さんの自宅に置いた翌朝は、溝入さんがこっそり会社で僕に届けてくれる。
溝入さんの部屋には僕のための部屋着が用意されていて、僕は入室するなりすぐに着替えている。仕事着に溝入さんを思わせる匂いを付着させないためだ。彼女自身の匂いもそうだし、部屋から付着する匂いにも気を使い、匂いが付着しない場所でハンガーにかけている。
尤も、溝入さんは僕を彩香から奪い取るつもりなので、痕跡を残すことに躊躇いがないようだが、小心者の僕にとってそれは勘弁してほしい。それに対しては溝入さんが一応の理解を示してくれているので安堵する。しかし不倫のようだと不満は言われる。
「なんで彩香さんとは婚約とかしてなかったんですか?」
定時退社をしたこの日、溝入さんの部屋のベッドで僕に擦り寄って質問をする溝入さん。彩香との交際が始まってからも薄々感じてはいたことだが、僕の性欲は強いらしく、溝入さんとの行為がありながらも、彩香とのペースも落ちない。それを溝入さんとの交際も始まってから確信した。
「えっと、まだ付き合い始めて日が浅いですし」
「彩香さん、二十歳でしたっけ?」
「はい」
「じゃぁ、まだ結婚を考えるには早いのかな」
僕の腕に収まる溝入さんの頭を撫でると、彼女は心地良さそうにより僕に擦り寄る。確かに一般論では彩香の年齢だと結婚を考えるのは早いのかもしれない。しかし彩香との結婚を考えられない理由は他にある。
「豊永さんはまだ私一筋にはならないですか?」
「……」
ここ最近、毎回溝入さんから言われることであるが、毎度毎度これには言葉に詰まる。彩香も溝入さんも魅力的で比較をしたところで優劣なんてつけられない。彩香は戸籍の問題がありそれが障害になっているが、しかし彼女は僕から離れれば間違いなくこの社会では弾かれる。
「豊永さんってもしかして結婚願望があまりないとか?」
「それはないです。結婚はしたいです」
これには即答ができた。それを聞いて溝入さんは「そっか、良かった」と安堵の声を漏らす。初めて女性との交際を経験して僕に結婚願望が生まれたことは間違いない。母が何かと期待することも理由としてなくはないが、僕の気持ちとして結婚願望はある。
「私、豊永さんみたいな人のお嫁さんになりたいです」
「え……」
その言葉にドキッとして僕が溝入さんの顔を覗き込もうとするのと同時に、溝入さんは少し僕から離れて真剣な表情で僕を見てくれた。やはり彼女は美しく、その綺麗な瞳が僕を魅了する。
「彩香さんとは結婚しないんですか?」
「は、はい」
「それなら豊永さんを私にください」
溝入さんがそう言って僕を真っ直ぐに見据えるものだから僕の鼓動は落ち着かない。恥ずかしくも感じるが、溝入さんから目を離すこともできない。
「でも、やっぱり……」
「なんでそんなに彩香さんに拘るんですか?」
それは彩香への愛も間違いないからだ。……と自分に言い聞かせてきたが、それは本心だろうか。最近の彩香の嫉妬は煩わしいし、そもそも買った人材だ。もちろんそんな人権を無視した経緯を溝入さんに言えるはずもないのだが、それでも少しだけ、ほんの少しだけ、溝入さんの真っ直ぐな瞳に打ち明けたくなった。
「彩香は……戸籍がないんです……」
「は!? 嘘!?」
僕から身を引いて目を見開いた溝入さん。この反応は案の定である。言ってしまってから本当に良かったのかと心配になるので、質問をされる前に僕は釘を刺してしまおうと考えた。
「これ以上詳しいことは言えないんですが、事実です」
未だに見開いた目を僕から外さない溝入さん。時間にして数十秒その状態だった。すると溝入さんの口角が不敵に上がり、小悪魔の笑顔を僕に向けた。
「へー。じゃぁ、彩香さんは現状豊永さんの恋人だけど、私と豊永さんを取り合うことに関しては最初から土俵に上がってなかったんだ」
どういう意味だろう。結婚のことを言っているのだろうか。確かに、結婚相手を選ぶだけなら彩香に勝算はないのだが、しかし彩香は間違いなく僕の恋人だ。一緒に暮らしているし、何度も肌を重ねている。間違いなく僕と彩香は愛し合っている。だが、最近彩香に対して感じる煩わしさはしこりのように僕に残る。
「それが結婚を考えない理由なんですね」
「はい」
納得したような表情を浮かべて溝入さんは再び僕の腕に納まった。その時に見せた溝入さんの表情はどこか安心感に包まれていて、どこか得意気であった。彩香に対して一歩リードしたと思っているのかもしれない。
「そう言えば、ちょっと前に会社にもそんな人がいましたね」
ドクンと僕の心臓が鳴ったように感じた。この動揺は溝入さんに悟られていないだろうか。やや不安を感じる。それは話題の主の戸籍抹消と失踪に僕が関わっているからだ。
だがしかし、彩香の戸籍がないことに一度は大きく驚いた溝入さんだが、すぐに受け入れたのは、身近な人物で少し前に同じような話を聞いたからなのだと僕は納得した。
「そう言えば、そんなことを聞いたことがあるような、ないような……」
会社では暗黙の了解としてタブーになってしまった兼房の話題だから、僕は遠慮なく曖昧を含めて答えた。それを聞いて溝入さんはクスクスと小さく笑った。
しかし彩香を買った後にこれほどの美人と同時交際ができるとはまったくの予想外であった。なぜもっと早くこんな機会が来なかったのだろうと憂うが、しかしそれは兼房を仕入れたことで起きた副産物なのだからどうしようもない。
セミオーダー人材店に行って、彩香に目をつけて、兼房を売って、すると兼房の失踪と彩香との生活のため僕の仕事の調子が上向き、結果溝入さんが僕に近づいてきた。この流れのどこを切っても今の状況にはならない。
肩に溝入さんの頭を感じながら、僕は天井を見上げてそんなことを考えた。
やがて時刻が二十一時を過ぎたので僕達はベッドから起き上がり、お互いに服を着て玄関に立った。この日の溝入さんとの逢瀬はここで終わりである。僕は彼女の家を後にし、溝入さんはその僕をここで見送る。
「また来週かな?」
「週一なんて寂しいです。早く豊永さんを私一筋にさせます」
強気にそんなことを言う溝入さんは別れのキスを求めてくる。僕は溝入さんの要求に応えて彼女の部屋を出た。
しかし、五分も経たないうちに僕は溝入さんの部屋に戻って来た。一階のエントランスから階段を駆け上がって来たので息が切れている。
「どうしたんですか? 豊永さん」
玄関を開けてくれた溝入さんは怪訝な表情で僕の顔を覗きこむ。たったこれだけの距離だったのだが、僕はそのまま玄関にへたり込んでしまった。そしてなんとか声を絞り出した。
「エントランスの外に、彩香……、彩香がいた……」
「え……」
僕はガラスのオートロック式のエントランスドアの外で見た人物の名前を口にした。それは悲しみと怒りの両方を兼ね備えた負の形相であった。溝入さんの声は耳に入ったが、僕にはまったく余裕がなくてその表情まで見ることはできなかった。
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