第13話 浮気か二股か

 なんでこうなったのだろう。

 従妹の招待状を持って来たついでに、本当に僕の様子見に来ただけの母が僕の自宅アパートに泊った。そして翌日曜日の昼下がり、僕は母を駅まで見送りに行った。彩香の痕跡は粗方片づけていたので、母は僕に浮いた話がないことを信じて残念そうであった。

 そして結局母に金の無心はできなかった。理由は僕の二人の兄に援助したことで、実家の現金があまり残っていないと、ほんの少しだけ母が愚痴を零したからだ。どうやら売れば金になるものは多々あるようだが、当面現金が必要な用事もないので、その予定もないそうだ。そんなことを聞かされて僕の希望は口から出なかった。


 ただ僕の憂鬱はそこにはない。憂鬱な理由は母を駅まで送ったその後に、駅で溝入さんと偶然会ったことだ。そしてなんと溝入さんは僕を自宅に招いたのだ。こういう時に強引な溝入さんに僕が敵うはずもなく、僕は手を引かれるままに溝入さんが一人で暮らす部屋にお邪魔したわけだ。


「豊永さん、お上手ですね?」

「えっと……、そうですか?」


 ベッドで裸の僕の腕枕に収まるのは、同じく裸の溝入さん。表情はよく見えないがその声色は満足そうだ。


「本当に今の彼女さん以外女性経験ないんですか?」

「はい」

「ふーん。じゃぁ今の彼女さんでたくさんテク磨いたんだ」


 何と答えたらいいのかわからない。溝入さんの言うテクとはベッドの上でのことで間違いないのだが、これは風俗通いで培ったものであって、けどそんなことは説明したところで何の自慢にもならない。それどころか、自分が空しくなるだけだ。


「私ともお付き合いしてくださいよ」

「え? も、ってどういうことですか?」


 溝入さんの口から出る言葉はいつも唐突で僕の予想を遥かに超える。それはまさか二重交際……つまり、二股をしろと言っているのか? と邪な考えが浮かんだのだが、なんと案の定であった。


「別に今すぐ彼女さんと別れなくてもいいですから、私ともお付き合いしてください」

「えっと……。言ってる意味がわからないと言うか、そんな器用なこと僕にはできません」

「今週末だけで二回も抱いといてですか?」

「う……」

「しかもちゃんと言ってる意味わかってるし」

「……」


 返す言葉がない。そもそも溝入さんは僕が彩香と恋人関係のまま自分も恋人にすることを言っているのだが、それは嫉妬をしたりプライドが傷ついたりしないのだろうか。


「二股でもちゃんとお付き合いをさせてもらって、それで私の方がいいって豊永さんに思ってもらって、そうしたら彼女さんと別れてもらいます」


 突拍子もないことを言う。しかしなんで溝入さんはそんなに僕に拘るのだろう。僕はそれほど自分に魅力があるとは思っていないのだが、これはやはり仕事の調子が上向いたことと、実家の素性が知れたことに関係があるのだろうか。


「もしかして婚約してたりとか……」

「それはないです」


 不安そうに尻すぼみに溝入さんが言うものだから僕はそれをはっきりと否定した。そう、彩香とは結婚ができない。だから婚約だってできるはずがないのだ。これは彩香の戸籍の問題が解決しない限り、この先もずっとそうだ。


「良かった……」


 言葉のとおり安堵の声を出す溝入さん。そう言うのと同時にギュッと僕を締めるようにより擦りつく。困ったことにこれが嫌ではない。

 溝入さんは僕より一歳年下の美人でスタイルも良くセックスもうまい。ここまでは何を取っても彩香と遜色なくステータスが高い。現時点で家事に関してはわからないし、彩香ほどの献身さがあるのかもわからないが、それでもすでに十分魅力的な女性だと思う。


「ゴムなしって……初めてだったんですよね……? どうでした?」


 僕の胸に顔を埋めてそんなことを聞いてくる溝入さん。これはいざその時になってコンドームがないことに気付いた僕が焦ったので、経験がないことを素直に話したのだ。


「正直言って、凄く良かったです」

「そうですか、良かったです。彼女さんはさせてくれないんですか?」

「ええ、まぁ……」


 本当はそんなことはない。僕が自主的に避妊をしているだけだ。彩香の思うところはわからないが、僕は彩香に対しては間違いがあってはいけないと思っている。しかしそんなことを言えるわけもないので、僕は卑怯にも彩香のせいにして嘘を吐いた。


「私には気を使わなくても良かったんですよ? さっきも外で出しちゃったし」

「え……?」

「あ、ごめんなさい。妊娠を逆手に取るのは卑怯ですよね」

「あ、いえ……」


 僕の心臓が大きく脈打つが、これは間違いなく僕の胸にいる溝入さんに伝わってしまっただろう。まったく動揺が隠せない自分が恨めしい。


「してみます?」

「えっと……」

「たぶん今日は安全日ですし。と言っても、百パーセントとは言えないですけど」


 本当にいいのだろうか? ……と考えるよりも先に体が動いてしまっていた。僕は溝入さんに跨り、二度目の行為を開始した。本能には抗えなかったし、万が一溝入さんを妊娠させてしまっても、彼女がそれを受け入れているようだし、それならば僕は自分の理性の抑え方を知らない。


 しかし器用でもなく、そもそも女性との交際も彩香と一緒に暮らし始めるまで経験がなかった僕に罰が当たったのだろう。僕の浮気はわずか二日目のこの日にして彩香にバレてしまった。

 溝入さんと甘い時間を過ごして夜も更けてから帰宅すると、彩香はすでに帰宅していた。僕が帰宅するなりすぐに、僕たちはリビングのソファーで一緒に座った。


「外から見たら部屋の電気が消えてたから、お母さんはもう帰ったんだと思って先に入って待ってた」


 前日をビジネスホテルで一泊させ、この日の昼間をどう過ごしたのかは知らないが、彩香は自身が先に家にいた理由を説明した。そして甘えるように僕にすり寄ってきたのだ。その時、続けて彩香が言った。僕の胸に頬ずりをする彩香の顔は見えないが、声色から恐らく表情をなくしていたのだろう。


「一昨日の晩と同じ香水の匂い」

「え……」


 一気に僕に冷や汗が伝うが、彩香は僕の胸から離れる様子がない。もちろん僕は彩香を離すことなどできない。


「これって甘い匂いだし女性ものだよね?」


 この質問の仕方は、必要最低限の作られた記憶と、存在意義とオプション以外はこれまた生活必要最低限のものしかインプットされていない彩香だからこそだろう。ファッションや化粧品にしっかり慣れている彩香くらいの年代の女ともなれば、それが女性ものだと断言しているはずだ。


「誰と一緒にいたの?」


 その質問をした瞬間から彩香の声色はとてつもなく冷たくなった。ここで気の利いた嘘も誤魔化しも浮かばない自分の経験不足が恨めしく、僕は無残にも呆気なく白旗を上げるしかないのだ。


「ごめん……」

「質問の答えになってないよ。誰と一緒にいたの?」

「……」


 僕は言葉を返す術すらも思いつかず、ただ黙った。しかしこういう時に恋人という存在からの尋問は続くのだ。僕はそれを学んだ。


「昨日の晩はどこに行ってたの?」

「え? だから母さんとここに……」

「そうだよね。女の人が来た形跡はあったから。けど、それって本当にお母さんなの?」


 そんなことまで疑われるのか。昨晩に関してだけ言えば僕は白である。泊まったのは本当に母だし、もちろん他の女が来ていた事実はない。だから浮気もしていない。しかし、女が来ていた形跡までしっかり把握されているとは彩香の勘は鋭いようだ。


「昨日の晩は本当に母さんだって」

「ふーん。じゃぁ、金曜日は違うんだ?」

「……」

「さっきまでもやっぱり違うんだ?」


 冷ややかな彩香の言葉に観念して僕は一度彩香を離すとその場で頭を下げた。その時一瞬見えた彩香の瞳には涙が溜まっていた。


「ごめん。もうしないから」


 それを聞いた途端、彩香は嗚咽して泣き始めた。泣いている女を前にしてどうしたらいいのか僕がわかるはずもなく、ただただ狼狽えた。しかし彩香は落ち着くと言った。


「信じる。だからもう私を一人にしないで。お願い、私だけを見て。私は他に行くところがないし、何より佑介さんを心から愛してる」


 落ち着いたと言ってもまだ泣き止んではいない彩香。僕は彼女を優しく抱きしめた。だた、どうしたものか。僕は溝入さんの部屋を出る前に、溝入さんとの交際も結局溝入さんに屈して受け入れてしまったのだ。だから彩香にとっては浮気でも僕にとっては二股交際である。

 彩香を一人にすることなどできるはずがないのはわかっている。しかし不器用な僕が彩香にバレずに溝入さんとの交際を継続できるのか、その不安が消えることはない。

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