第12話 疑い

 用を足すでもなくトイレに閉じこもった僕は数分後、ソファーに戻った。するといきなり溝入さんが僕の腕を抱え込んで甘い声で言うのだ。


「豊永さん、本当は彼女いるんですね」

「え!?」


 まさかの発言に耳にかかっていた溝入さんの吐息に動揺していたことも忘れて、僕は続けてその質問に動揺し声をうわずらせた。そして反射的に溝入さんを見たのだが、すると鼻と鼻がぶつかりそうなほど溝入さんの顔は距離が近く、それなのに溝入さんは小悪魔のような笑顔で真っ直ぐ僕を見据えている。結局僕はまた動揺するのだ。


「スマホ。メッセージがポップアップしてましたよ」


 しまったと思い、僕は目の前のテーブルに置かれた自分のスマートフォンを拾い上げた。すると彩香に持たせた僕名義のスマートフォンからメッセージが届いていて、それは溝入さんが言うようにポップアップされた状態だった。


『接待まだかかる? 今日結構遅くなるかな?』


 僕は思いっきりため息を吐いて頭を抱えた。溝入さんが片腕を未だ外さないので、額に当てた手と合わせてスマートフォンの硬さを感じる。


「その内容、同棲なさってるんですか? まさか既にご結婚なんてこと――」

「結婚はしてません」

「そう、良かった」


 良かったとはどういう意味だろう。……と、そんなことを考えていると溝入さんが僕の頬を両手で包み、僕は強制的に溝入さんに顔を向けられた。


「えっと――」


 自分でも何と発しようとしたのかわからないが、言葉を出そうとしたその時、僕は口を塞がれた。柔らかい感触に思わずうっとりするし、ゼロ距離で目を閉じた溝入さんの顔がとても魅惑的だ。そして溝入さんの舌はすぐに僕の口の中に割って入ってきた。それが気持ち良すぎて僕はされるがままであった。


「豊永さんの彼女さんには申し訳ないですけど、私本気なので、今から豊永さんを寝取ります」


 一度僕の口を解放してくれた溝入さんだが、それだけ言うとまた僕に唇を合わせ、そしてそのうっとりする舌を差し込んできた。ここで僕もとうとう目を閉じ、積極的に溝入さんの舌に自分の舌を絡めた。


 溝入さんは再び僕の口を解放すると相変わらずの小悪魔のような笑みで僕の手を引いた。その時下唇を噛んでいた溝入さんを見て、小悪魔が舌なめずりをしているように見えた。そして手を引かれた僕はその魅惑にふんだんに酔わされ、ベッドに誘導されたのだ。


 実家で暮らしていた時も、彩香と二人で暮らしてからも、僕は一度も朝帰りをしたことがない。背徳感をたっぷりと抱いた憂鬱な気分の僕は、眩しい朝日を浴びながら自宅アパートの玄関ドアを開けた。

 その瞬間、パタパタパタとスリッパが床を鳴らす音が耳に届き、一体となったLDKの扉が開いた。眉をハの字にして玄関まで駆けて来たのは彩香だ。


「佑介さん……」


 彩香の綺麗な瞳は潤んでいた。僕は外泊をして朝帰りをした。それでも『同僚が飲みすぎたからホテルを取って泊まる』という旨の、理由が嘘のメッセージだけは彩香に送っていた。

 その後、何度か自分のスマートフォンはメッセージの通知音を鳴らしていたが、僕は確認するのが怖くて、更には溝入さんとのセックスに溺れていたため見向きもしなかった。


「返事が来ないから心配しちゃって……」

「あぁ、うん、ごめん。同僚の介抱でそれどころじゃなくて……」


 もちろん絞り出したこの言葉は嘘だが、未だに僕はメッセージを確認していない。彩香の表情を見る限り、言葉のとおり心配していたことが如実だ。そして彩香は靴を脱ぎ終わって框を跨いだ僕に抱き着いてきた。


「寂しかったよ……」


 その言葉も心からの本心だろう。買い物くらいは一人で行くので業務的な会話はあるのかもしれないが、彩香の話し相手は基本的に僕しかいない。僕は昨晩の出来事を大いに反省し、優しく彩香を抱きしめた。


「すー。……ん?」

「どうしたの?」


 僕の胸で、一度鼻で息を吸い込んだ彩香が怪訝な声を出すので、僕は彩香に問いかけた。しかし彩香は笑顔で僕から離れて言った。


「なんでもないよ。朝ご飯はどうする?」

「うーん。シャワー浴びてちょっと寝たいかな」

「わかった」


 彩香は明るい表情のまま踵を返し僕より先にリビングに入った。僕は腑に落ちないながらも彩香を追うようにリビングに入り、そこを抜けて寝室で荷物を置いた。いつものとおり綺麗に掃除が行き届いた部屋である。尤も、彩香がこの家に来てからのいつもどおりだが。


 その後シャワーを済ませて寝室のベッドで横になると、彩香が床に膝をつきベッドに身を乗り出してきた。そして僕を見つめながら話を始めた。


「私の戸籍、どうなるかな?」

「うん、まだなんとも……」

「そっか」


 穏やかな表情のまま答える彩香はやはり結婚に前向きのようだ。しかしセミオーダー人材店に金を持っていけば戸籍は付してくれるとわかったものの、まだその金の目途が立っていない。だから僕は断言しなかった。


「お母さんは何時ごろに来るの?」

「昼過ぎだって」

「お昼ご飯はどうする?」

「ここで食べたら迎えに行く」

「わかった。じゃぁ作るね。食べたら私もそのまま出るから一緒に出よう?」

「うん」


 自分で言うのもおこがましいが、彩香が僕を見つめるその視線からは、彩香からの愛情をふんだんに感じる。今まで恋愛に縁がなかった僕は恐らくそういう話に対して無頓着であり鈍感だと思う。昨晩迫ってきた溝入さんに動揺したことからもわかる。それでも彩香からの愛情だけはしっかりと感じる。


 そして今、彩香から僕の母のことが話題に出た。そこで一度は思ったものの考察の外に追いやった考えを呼び戻す。彩香に戸籍を付すために必要な金を、何とか理由をつけて実家から工面してもらえないだろうかと。

 学生時代から思い返してみても、僕は親に金の無心をしたことがない。大学生時代は仕送りまでもらっていたのだから、脛をかじっていたことは間違いないのだが、それでもその金額は親が決めたもので、僕は自分から請求をした記憶がほとんどない。拘っているわけではないが、そういうことに慣れておらず、どう話をしていいのかわからないのだ。


 長男は実家のある敷地内に自分の世帯のマイホームを建てたが、父と実家の家主である祖父がまとまった金額を工面したと聞いている。だからローンは驚くほど少ないのだとか。

 次男は結婚する時に式やハネムーンの金を全て実家から引き出したと聞いている。つまり僕の兄弟は今でも親や祖父を経済的に頼っている。因みに僕の情報源は実家の祖母だ。


 そんなことを考えていると彩香が立ち上がった。眠るつもりの僕を一人にするようでドアに向いていて、僕には背を向けていた。そして彩香が言ったのだ。


「朝まで一緒にいた同僚さんって、男の人だよね?」

「は!? 当たり前じゃん」


 正直、驚いた。なんとか声を抑えてその動揺を悟られないよう平静は保てた。……と思うのが自己評価だ。彩香はもしかして疑っているのだろうか。

 僕は同僚と伝えておけば勝手に男になると思っていた。しかし女性の溝入さんだって間違いなく同僚であるし、そもそも僕は浮気をした。つまり、彩香が疑っているのだとしたら列記とした黒である。


「お昼から会うのって本当にお母さん?」

「え? 疑ってるの?」


 質問を返したものの疑っていることが間違いないと思わせる発言だ。僕に焦りが生まれる。今夏でなかったら掛け布団を被って顔を隠していたかもしれない。しかし残念ながらこの季節、ベッドの上にはタオルケットしかない。

 しかし質問に対して質問を返したことで、動揺したのは彩香も同じようだった。


「ううん。ごめん、私なんか変だ。一人の夜が初めてだったから寂し過ぎたのかな。気を悪くさせるようなこと聞いちゃってごめんね」


 そう言うと彩香は一度も僕に顔を向けることなく寝室から出た。納得はしてくれたようだと安心する。すると途端に睡魔が襲ってきて僕は眠りに就いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る