第11話 不測
食事も風呂も終え、僕がドライヤーで彩香の髪を乾かしてあげている時だった。リビングの床で僕に背中を向けておとなしくちょこんと座る彩香に僕は聞いたのだ。
「彩香、戸籍ほしい?」
「うーん、今のところ不便はないけど、私に戸籍があると佑介さんは何か変わる?」
「うん、まぁ……」
肯定はしたものの歯切れが悪いのは、すぐに「結婚」という言葉が口を吐かなかったことにある。なんとなくむずがゆく、そして気恥ずかしい。
彩香にしてみれば生活はさせてもらっているのだし、このまま恋人でいることに不満はないのだろう。しかしこのままとは一体いつまでのことを言うのか、間違いなく僕も彩香も歳を重ねる。僕がそんなことを考えていると、彩香は案の定掘り下げて質問をする。
「それって何?」
「えっと、人に紹介できたりとか。あと、例えばこのままずっと彩香と付き合っていけば、後々は結婚を考えたりとかも……」
「え!?」
勢い良く彩香が僕に振り返るので、僕の指から湿った彩香の指どおりのいい髪が零れ落ちた。彩香は腰と首を捻って潤んだ瞳で僕を見据えるのだが、その眼差しには未だに慣れず僕は心惹かれるのだ。
「そっか。戸籍があったら私は佑介さんと結婚ができるんだ。そしたらずっと一緒にいられるんだ」
そっと目を閉じた彩香はそのまま僕の胸に体を預けた。僕は一度ドライヤーの電源を切ると両腕で彩香を包んだ。彩香の濡れた髪が僕の寝間着にしているTシャツを湿らせ、そしてシャンプーの匂いが魅了する。
すると彩香は僕の胸の中ではっきりと言った。
「私、ずっと佑介さんと一緒にいたい。それが叶うなら結婚もしたいし、そのために戸籍がほしい」
「わかった。できるかはわからないけど、ちょっと方法を探ってみる」
どうやら彩香に結婚願望が生まれたようだが、それは家族になって家庭を築くとかではなく、恋人としてずっと一緒にいたいということのようだ。あくまで彩香の存在意義は僕の恋人なのだとしみじみ感じる。
この晩もいつものように彩香を抱いてから僕達は一緒のベッドで寝た。僕は彩香の寝息を耳で確認してから裸のまま体を起こすと、枕棚にあったスマートフォンを操作した。そしてコールボタンをタップした。
『お世話になっております、豊永様』
電話に出た相手はセミオーダー人材店のモグラである。その声と口調だけで、あの爬虫類のような顔立ちに不敵な笑みを浮かべた表情が鮮明にイメージできる。僕は用件を話し始めた。
「あの、今からでも人材の戸籍って買えますか?」
『はい、規定の金額をお支払いいただければ可能です』
「そうですか」
『その際は現金を持って購入者様が当店までお越しいただければ対応させていただきます』
僕はそれだけの説明を受けて「検討します」と言って電話を切った。モグラは店まで現金を持ってくるように言った。つまり店は場所を転々としておらず、また、その予定もないことを意味する。同じ場所で違法商売の営業を続けるにも関わらず、刑事事件にされない絶対の自信があるようだ。
今からでも彩香に戸籍を付すというオプションは行使できる。しかしかかる金額は現金で五百万円。現金と言うくらいだから間違いなく一括支払いだろう。僕は思考を巡らせる。預貯金をかき集めても足りない。保険を解約したらどうだろう。それでも恐らく足りないか。
ただ、金をかき集めて工面したところで月々の給料以外が文無しになってしまう。それはそれで恐ろしい。もうすぐ賞与も入るが、今回の賞与ではベッドを買いたいし、そもそも仕事へのモチベーションが低かった時の成績が大半で、評価は恐らく最低か下から二番目だ。金額の期待はできない。僕は頭を悩ませた。
「佑介さん……?」
弱い声で名前を呼ばれたので起こした体のまま僕は彩香を見下ろした。彩香は薄く目を開けて、僕を見据えている。僕は彩香の額から後頭部にかけて優しく髪を撫でた。
「えへへ」
すると心地良さそうに目を細める彩香。僕の心臓がギュッと音を立てて締まるようだ。そんな興奮を読み取ったのか彩香が言う。
「もう一回する?」
「いいの? 彩香、一回寝入ったから辛くない?」
「私はいいよ。佑介さんとするのが幸せだから」
穏やかでいて興奮を駆り立てる彩香のその言葉は僕の理性を飛ばす。すかさず僕は彩香に跨り、心行くまで彩香を抱いた。
彩香の中で僕は温かく包まれる。僕は彩香の中に入っているこの瞬間が好きだ。そうか、戸籍さえあれば避妊も気にしなくてもいいのか。彩香に腰をぶつけながら僕は、彩香の戸籍を買うことにより前向きになった。
ただ前向きになったと言っても資金の悩みは残る。そんなことを考えつつも、この週の仕事をこなし、僕は金曜日の業務を終えたのだ。
「あ、お疲れ様です」
洋食レストランに入ると麗しいほどの笑顔で手を振ってくれたのは溝入さんだ。おかげで僕は自分が着くべきテーブルをすぐに見つけることができ、またウェイターも僕が溝入さんの連れだとすぐにわかりスムーズに案内をしてくれた。
「お待たせしちゃってすいません」
「いえ。私も今来たところですから」
朗らかな笑顔を浮かべて答えてくれる溝入さんは業務中よりも化粧が濃いように思う。この日は定時退社をしたと聞いているが、一度帰宅したのだろう、服装も派手ではない程度に華やかだ。
仕事帰りの僕は仕事着のスーツ姿だが、これで良かったのだろうかと憂う。しかしスーツなら万能だとも自分に言い聞かせた。尤も、クールビズなのでスーツと言ってもYシャツ姿だ。
当初、女性と二人きりの食事の席は不安もあったが、始まってみれば思いの外楽しいものであった。と言っても、溝入さんの話の展開がうまいのと、僕に話題を振れば僕の話を上手に聞いてくれるからそう思えたのだ。これも彼女がモテる要因なのかなと変に納得した。
そして食事を終えてバーをはしごし、終電の時間も近くなったのでこれで解散しようかと思ったその時だった。駅へ向かう溝入さんの足が止まったかと思うと、その場に蹲ってしまった。こんな時どうしたらいいのかわからない僕は、動揺しながらも溝入さんの肩に手を添える。
「今日楽しくて、ちょっと浮かれて飲みすぎたみたいで。酔っちゃいました」
嬉しい気持ち半分、心配な気持ち半分の言葉が返って来た。とは言え僕には彩香がいるのだから浮かれるわけにはいかないし、まず今この状況をなんとかしなくてはいけない。
「タクシー呼びましょうか? 失礼でなければ溝入さんをご自宅までお送りしてから僕そのままタクシーで帰りますよ?」
僕がそう言うと溝入さんはゆっくりと立ち上がった。するといきなり僕の腕を抱え込んだのだ。一気に僕の動悸が激しくなる。僕も酒が入っているのでそれは顕著だ。
「えっと、少しだけ休憩したいです」
俯いてそう言った溝入さんはすぐに顔を上げ潤んだ瞳で僕を見つめた。そしてその視線を外すと、派手なネオンの宿泊施設の看板を見つめた。
どうしてこうなったのだろう。女性経験の少ない僕には全くもってこの展開が読めていなかった。もちろんこんなことになるなんて期待は微塵も持ち合わせていなかった。
ラブホテルのソファーにじっと座る僕の耳には浴室からシャワーの音が聞こえる。無論、シャワーを浴びているのは溝入さんだが、今まで酔っていたのに彼女は軽やかな足取りで浴室に消えたのだ。視界に入るキングサイズのダブルベッドが僕には眩しい。
「豊永さんもシャワーどうぞ?」
僕の背後からシャワーを終えた溝入さんが声をかける。振り向くとそこには備え付けのナイトウェアに身を包んだ溝入さんが立っていた。髪は濡れておらず化粧も落としていないが、その髪をアップにしていて魅惑的だ。僕は明らかに動揺した声で答えた。
「あ、いや、家に帰ってから入りますので」
「そうですか」
そう言ってソファーの僕の隣に腰かけた溝入さんだが、腰や肩を密着させるので僕は余計に動揺する。引いても押しても失礼なような気がして結局体が硬直するのだ。
「えっと、トイレ」
僕は逃げるようにソファーを立ち上がった。なんとか気を落ち着かせなくてはならなかった。
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