第10話 不都合な予定
とにかく複雑な気分だ。夜も更けた時間帯、自宅最寄り駅から自宅アパートに向かって歩く僕の足取りは重い。溝入さんと二人での食事の約束をした。初めてできたせっかくの彼女、彩香がいるのに申し訳ない気持ちが拭えない。しかし、気分を複雑にするのはどこか浮かれている気持ちがあることも否定できないからである。
住宅が立ち並ぶ路地は車のすれ違いがやっとくらいの道幅で、所々設置された街灯の光は明るい。その生活道路をあと一つ曲がれば自宅アパートが見えるという場所で、ポケットに入っているスマートフォンが鳴った。それは着信であり、表示を見てみると実家の母からであった。
『あんた最近連絡も寄越さないけど、ちゃんとやってるの?』
「もちろんだよ」
今までは嘘であったこの返答も仕事が充実した今では事実である。胸を張って答えられることに気持ちがいいものの、なぜ今までこれほど仕事に対して後ろ向きだったのかと悔やむ気持ちも捨てきれない。とは言え、これは彩香がいてくれるからこそであり、それが僕にとって何事も前向きに進んでいるのだと実感する。
道路脇にひっそりと立つ街灯がスポットライトのように僕を照らす。僕は帰路の最後の曲がり角を前に足を止め、スマートフォンを耳に当てて話している。
『たまには顔出しに来なさいよ。一、二時間かそこらで来れる距離なんだから』
「うーん……、今は仕事が忙しいからなぁ……」
歯切れの悪い返事をする僕であるが、その本心は彩香を一人にしてこの居住地を空けることに抵抗があるからである。仕事は忙しくなったとは言え、今のところ休日出勤までしているわけではないのだし。
『じゃぁ、私がそっちに行くわよ』
「は!?」
虚を突かれて思わず声がうわずった。元々一人暮らしだった僕の自宅に母が来たことがないわけではないのだが、突然のそんな意見に戸惑うのだ。しかし母はそんな僕に構うことなく話を続ける。
『従妹の明美ちゃんが婚約したんだって』
「そうなの?」
自分より二歳年下の朗報にも驚きではあるが、それでも母が自宅に来ると言った時よりは幾分落ち着いている。
『結婚式の招待状持って行くから』
「そんなの……、あぁ、うん。わかった」
一度は郵送でもいいじゃないかと思いそれが口を吐こうとしたのだが、結婚式の招待状なのだから、そんなわけにもいかないかと思い直し承諾した。
『あんたももう今年二十五(歳)でしょ。いい人いないの?』
顔を合わせたり、電話で話したりすると決まってこのことが母の口を吐く。僕の二人の兄は既に結婚をして子供もいるのに、まさか三男の僕にまで早く孫の顔を見せろなんて期待でもしているのだろうか。
「いないよ、そんな人」
『まったく。本当、昔っから浮いた話もないねぇ』
そんなことを言われて悔しくなるが、ぐっと堪える。堪えたのはもちろん彩香の存在を明かしたくなったことだ。戸籍のない彩香をどう紹介しろと言うのか、つまり結婚だってできない。今正に口を吐きそうになったことで冷や汗も感じるが、それは夏を感じさせる生ぬるい夜風が過剰に冷やす。
『今度の土曜日は仕事休みなの?』
「あぁ、うん」
『じゃぁ、そっちに行くわ。一泊して帰るから』
「は!? 一泊!?」
僕の母は何度僕の声をうわずらせるのか。わざわざ泊まらなくても、正に先程一、二時間で来られる距離だと母本人が言ったばかりではないか。彩香のことがあるので日帰りにしてほしいと切に願う僕だが、そのことを言おうとした途端。
『あ、お父さんが呼んでる。じゃぁね』
そう言って母は一方的に電話を切ってしまった。僕は大きく溜息を吐いて肩を落とす。足取りも重く感じるがとにかく家に帰らなくては。この日も仕事で遅くなってしまったし、一人で僕の帰宅を待っている彩香が心配してしまう。
「あ、お帰りなさーい」
漸く自宅に到着した僕を明るい笑顔で出迎える彩香。漸くと思うのは、母からの電話で駅を出てから寄り道もしなかったのに足を止めたことに由来する。
僕が「ただいま」と言って玄関で靴を脱ぎ、そして顔を上げると両手を広げた彩香が視界に入った。思わず僕の口元が綻び、床にリクルート鞄を置くと僕と彩香は抱擁を交わした。彩香の匂いが僕の鼻腔を魅了する。
「今日のご飯はハヤシライスです」
「やった。大好物」
「えへへ」
一度はにかむと僕の鞄を寝室に運び、夕食を温め直してくれる彩香。そういう彩香を見ていると途端に僕の心は癒される。そしてその癒しの空間は夕食の席へと移行するのだ。
「今日も遅くまでお疲れ様」
食事が始まるなり労いの言葉をくれる彩香はあどけない笑みを浮かべていて、化粧をしない室内で彼女はとても可愛く見える。しかし僕から彩香に提供しなくてはならない話題が二つ。僕には重くのしかかる話題なのだが、避けて通ることができない。
「今度の金曜日さ、接待で帰りが遅くなりそうなんだ」
「えー……」
途端に不満顔に変わった彩香は、言葉でもその感情を隠そうとしない。それが可愛らしくも感じるのだが、この時の僕は嘘を吐いているので心苦しさが拭えない。
「じゃぁ、ご飯も済ませてくる?」
「うん。そうなる」
「そっか……」
彩香は落胆を示してハヤシライスにスプーンを挿し込む。やはりこれは裏切り行為なんだよなと、自分の中で自分がどんどん悪者になっていく。しかし彩香のことを公にできない以上、僕が取れるリアクションは他になかったのだ。
「それから、土曜日は実家の母さんが泊まりに来るって」
「え!?」
途端に食事の手が止まり目を丸くする彩香は、自分の身を隠さなくてはならないことを悟ったのだと思った。しかし次の言葉は思いもよらないもので、彩香の思考は違うところにあったのだと僕は実感した。
「しっかりご挨拶しなくちゃ」
「は!?」
驚いて声を張った僕は彩香を真っ直ぐ見据えるが、逆に彩香は僕が何に驚いているのか理解できていない様子だった。
「佑介さんとお付き合いさせてもらっている彩香です。……って」
恐る恐ると言った感じで先を続ける彩香だが、未だ僕の真意を理解している様子はない。
だから僕は優しく言葉を続けた。
「いや、彩香は戸籍がないじゃん?」
「うん」
「そうするとどう親に紹介していいのかわからないんだよ?」
「なんで? 彼女だって言うだけでしょ?」
あぁ、そうか、理解した。彩香にとっての存在意義は僕の恋人であって、例えば二十代半ばの子供を持つ親にとってその意味するところは完全に切り離されているのか。僕の年代になれば今すぐとは言わないまでも、将来の嫁になる可能性を親は期待する。僕だって相手が戸籍のない彩香でなければそれは意識して交際を始めるはずだ。
「親はね、交際相手、ましてや同棲してる彼女がいると知れば後々の結婚を期待するんだよ」
「そうなの!?」
それが意外だとでも言わんばかりの彩香の表情を見て、やはり彩香の意識はそこまで及んでいなかったのかと確信した。とは言え、戸籍のない彩香と結婚できるはずもなく、つまりそれは親に紹介できないことを意味する。
「だから、母さんに戸籍のない彩香のことは紹介できないし、母さんが家にいる時間帯だけ家を空けてほしいんだ」
「えっと、それはつまり、私にどこかで外泊しろってこと?」
心が痛む。彩香の居場所はここしかないのに、一泊家を出るように言っているのだから。僕は途端に言葉を返せなくなるが、しかし彩香が表情を作って言ってくれた。
「わかったよ。一泊だけ空けるね」
無理をした笑顔の彩香を見て、感謝と恐縮の念が僕を支配する。ネットカフェは会員証を作るのに身分証の提示が必要だ。彩香にそんなものはない。それではビジネスホテルの方がいいか。そう考えながら僕はもう一つ、一度は諦めたことも考え直そうかと思った。
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