第9話 誘い
彩香との同棲生活も約二カ月。巷は夏休みで、私服姿の十代の若者が目立つ。
これまでに彩香は実際に生理が来たので、やはり妊娠が可能な体なのだと実感した。ずっと寝かされていた彩香を買うという、どうにも現実的ではない出会いと同棲のきっかけだったから、どこかで人体ではないと僕は現実味を感じていなかったのだ。
しかし彩香は性処理のための人形ではない。やはり僕は彩香を愛しているし、彩香も僕を愛してくれている。二十歳ながらあのあどけない笑顔はいつも僕の心を癒してくれるし、それを見ることに飽きることはない。
「今日も遅くなりそう?」
「そうだなぁ……。たぶんいつもくらいになると思う」
「そっかぁ……」
朝食を取り終って朝の支度をしている時、その日の僕の帰りが遅いことを知ると彩香は残念そうな顔をする。それが心苦しくもあるのだが、求められている実感が湧き嬉しくもある。
「じゃぁ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
支度を終えるとエプロン姿の彩香は玄関まで見送りに立ってくれるので、その時僕たちはキスを交わす。それから僕は通勤をするのだ。毎朝のこれがあるだけでまた今日も一日頑張ろうという気になる。
満員電車に揺られて出社すると朝礼前に僕は手帳を開く。兼房の存在が消えてから忙しさを増した僕の就業生活は相変わらずで、日に何度もスケジュールを確認する。最低でも退社前に翌日のスケジュールを確認するし、出勤してすぐもその日のスケジュールを確認する。
そして得意先を回り、受注をして帰社するわけだが、成績の上がった僕の帰社時間は大体夕方だ。午前中に会社を出てから夕方までに戻れた日は数えるほどしかない。ただ、おかげさまで今では上司からの信頼を得て、穏やかな社内生活を送っている。
この日は昼前に社内で営業会議があったので、午前中は外出することなく社内業務に勤しんでいた。それなので、昼食も会社が入居するオフィスビルの食堂で取ることにした。
彩香との同棲開始最初の出勤日に彩香が弁当を持たせてくれたのだが、一人暮らしの僕が弁当を持ち込むことは周囲の同僚からどうしたのだ? と話題にされた。だから僕は、母親がたまたま泊まりに来て作ってくれたと嘘を吐いた。それは何とも複雑な気持であった。
戸籍のない彩香の存在を隠したい僕は、弁当の持ち込みを一日で止めた。尽くしたがりの彩香は落胆を示したものの、それでも理解をしてくれたので安堵する。
「あれ? 豊永さん? 珍しいですね」
ちょうどこの日の日替わり定食を食べ始めた頃に声をかけてきたのは、経理課の
「えぇ。午前中は社内で営業会議だったので」
「そうなんですね。相席してもよろしいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
社内でも美人だと評判の溝入さんから相席を打診されて途端に狼狽える僕は、彩香と付き合い始めた今でもまだなかなか女性に対して免疫が弱いのだろうと思う。こうして溝入さんと昼食を共にしたのも兼房がまだ存在した頃かと思い出す。
兼房と言えば、消えてから二カ月にして社内でその名前を口にすることは、暗黙の了解でタブーとなっている。
会社や社内の権力者がかん口令を敷いているわけではないのだが、戸籍がなかったことは社内で広まり、如何わしい筋の人間だったのでは? と一度噂が立ってから誰もが兼房の話題に触れなくなった。誰しもがもしかしたらの面倒事に巻き込まれるのではないかと危惧している。
この頃にはもう兼房を売ったことへの罪の意識は僕の中で薄れていて、そしてまた、彩香を自分に都合のいい人材にして買ったことも紛れもない人権侵害であるのに、その意味が僕の中で弱まっていた。売買どちらの行為も記憶から消えることはないが、確実に罪悪感は消えつつあった。
「豊永さんってお付き合いしてる人とかいるんですか?」
僕の正面の席に着くなり溝入さんが突然そんなことを質問してくるので僕の箸と咀嚼が止まった。思い返してみれば学生時代から友達への告白の手伝いをさせられるばかりで、こういう質問を自分に向けられたことがない。
今では後ろめたい経緯の彩香のこともあって冷や汗も感じるのだが、どういう意図の質問だろう。そう思っていると山中さんが口を挟んだ。
「あぁ、溝入さん。豊永さん狙いですか?」
「えぇ、だって豊永さん仕事バリバリだし、少しくらい興味持ったっていいじゃない」
これは彩香を買うまで一度も言われたことがない言葉で、僕は仕事に対して前向きな評価の言葉をもらうことに未だに耳が慣れないのだ。
「抜け駆けですぅ」
「えぇ? 山中さんは彼氏いるじゃん」
語尾を伸ばすやや甘ったるいしゃべり方の山中さんと、その美貌がふんだんにはにかんでいる溝入さん。溝入さんのその表情は思わず僕の方が照れるほど魅力的だ。その話題に若干の戸惑いも感じる僕は未だ言葉を発することができず、山中さんの方が話を続けた。
「そう言えば豊永さんって、地主さんの三男坊って聞いたことがあるんですけど、本当ですか?」
「ちょっと、山中さん」
それに少し慌てたように溝入さんが山中さんを制する。その時に身を乗り出すような姿勢になっていた山中さんの肩を溝入さんが片手で押さえるようにしたのだが、溝入さんの爪は華美ではないアートが施されていて綺麗に整えられているなと、僕は明後日の方向に意識が及んだ。
「ま、まぁ、そうです」
思い返してみれば、誰かが僕の実家のことを他の社員に話したと言っていた。その記憶が蘇るが、誰が言っていたのかは今一思い出せないし、あまり興味もないので僕はこの場の話題に集中する。すると溝入さんが話を切るように話題を戻した。
「それで豊永さんって彼女とか……。モテそうですし、やっぱりいますよね?」
どう答えたものか。モテそうなどと言われても耳が慣れていないし、そもそも僕には人には言えない交際相手がいる。僕が一緒でない時は近所への買い物くらいしか外出しない秘密の彼女だ。僕はその彩香を愛しているのは間違いないので胸を張って交際相手はいると言いたい。しかし、後ろめたい経緯が邪魔をする。
「僕、今まで女性とお付き合いしたこととかないので……」
「うそー!」
途端に目を見開き口元に手を当てる溝入さん。仕事が順調で対外的なコミュニケーションは慣れてきたものの、やはりこういった雑談の類で異性と話すことにまだ慣れない。慣れてきたのは一緒に暮らしている彩香だけのようだ。
「じゃぁ、私と二人でのお食事とか誘っても大丈夫ですか?」
そう、僕は女慣れしていない。一般論で言えばこの流れならこういう話を期待する男も多いのかもしれないが、僕にとって溝入さんからのこの打診は意外であり、驚き以外の何も感じない。目が点になるとはこういうことを言うのだろう。
しかしこれもまたどう答えたものか、僕には彩香がいる。それなのに他の女性と二人で食事なんて行っていいわけがあるはずもない。しかし女性からの食事の打診に拒否を示すのは、僕が相手を嫌っているとかの誤解を与え、過剰に傷つけてしまうのではないか。そんな懸念が拭えない。
「ダメ……ですか?」
少し俯いて上目遣いに僕を見る溝入さんは儚くて、そして魅惑的だ。ナチュラルメイクを施した美人にそんな表情で見つめられると、僕の目は自分でもわかるほどに泳ぐ。その時視界に入った山中さんは興味深そうに僕達を見て薄く笑っていた。どうやら主導権は完全に正面の席の女性二人にあるようだ。
「えっと。休日は色々と忙しいので、業務後で良ければ」
「本当ですか!? やった」
声を弾ませた溝入さんを見て彩香の顔が脳裏に浮かび内心ため息を吐く。なんとか絞り出した考えが、業務後なら接待ということにして帰りが遅くなっても、食事を済ませて帰って来る予定になるので彩香に説明ができると思ったのだ。
そしてこの後の話で僕は溝入さんと今週末の金曜日の業務後、食事をすることになった。彩香以外の女性には未だ免疫のない僕を色々な意味の緊張感が支配するが、食事だけだからと自分に言い訳をする。
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