第二章
第8話 甘い生活
週が明けると会社では兼房の無断欠勤で騒がしくなった。当然といえば当然である。内心は動揺しているものの、僕はなんとか平静を装った。金曜日の業務後、僕が兼房と行動を共にしたことは誰にも知られていないようだ。同じ時間に退勤したとは言え、誰もがそれほど気に留めなかったと言える。
土曜日に兼房と予定していた溝入さんは、それはもう慌てていた。当初はいきなり連絡が取れなくなってすっぽかされたと思っていた溝入さんだが、月曜日になって会社にも出てきていないと知ると心中は穏やかでない。
午後になると上司が兼房の実家に連絡を取ったり、兼房の自宅を訪ねたりもしたが、ここで初めて失踪説が出た。それでこの晩、実家の家族が失踪届けを出したのだ。
しかし数日後、一度は受理されたその失踪届けが不受理となった。理由は戸籍である。兼房の戸籍はどうやらきれさっぱり消されたようだ。尤も、「消された」と知っているのは僕とセミオーダー人材店の関係者のみである。戸籍がないため兼房は失踪者と扱われなかった。つまり兼房は社会的に最初からこの世に存在しない身となった。
兼房が担当していた得意先は一部僕に回ってきて一気に僕の就業生活は忙しくなった。それこそ営業ノルマをクリアする勢いだ。兼房からのお零れでもあるのだが、僕は意識を変え、真面目に仕事に取り組んでいる。しかしその本質的な理由は他にある。
「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
残業を経て夜遅くに帰った僕を出迎えてくれたのは、麗しい笑顔の
彩香は買われたその晩のうちに、この狭いアパートにやってきた。そして真っ先にしたのが名づけだ。単純にその時点けたテレビに映っていたタレントから取った名前だ。適当にも程があるが、今ではお互い気に入っている。
彩香を買った翌日は彩香の生活用品の買い物に時間と金を費やした。服や生理用品や必要な収納家具などかなりの金がかかり、有料オプションを外しておいて良かったと思った。この経済負担が仕事を頑張ろうと思ったきっかけでもある。
「今日はチキン南蛮だよ」
僕の帰りを待っていた彩香はキッチンに立ち明るい雰囲気を醸し出す。そして彼女の手元からは食欲をそそる香りが漂う。彩香は手際よく料理を温め直し、食卓に並べてくれた。
「いただきます」
「いただきます」
二人揃っての発声のもとこの日の夕食が始まる。数日前までは真っ暗な部屋に帰って来て、何を言っても声が返ってくる生活空間ではなかった。尤も、それがわかっているからほとんど声を出したことはないのだが、それでも一人華が増えるだけでこれほどまでに室内空間が違って見えるのかと感慨深い。
家事能力を付したのは正解であった。彩香の料理はとても美味しく、そして掃除や洗濯など丁寧にやってくれる。渡した生活費も無駄遣いはせず、上手にやりくりしている。彩香を買うまで素人童貞を拗らせていた僕の生活は一気にバラ色に変わった。
「佑介さん、ご飯食べたらお風呂入るよね?」
「うん」
「今日も一緒に入ろう? 背中流してあげる」
「うん」
これを言われるとどうにも顔が締まらない。にやけた面のまま僕は食事を進めるのだ。
恋人を存在意義にしたことが原因なのか、彩香の奉仕精神は目を見張るものがある。何かと僕に構いたがるし、尽くしたがる。僕はそれに浮かれているわけで、その自覚がありながらもこの甘い生活に酔いしれていた。
二人一緒に風呂を済ませると、今度は寛ぎの時間である。食事と風呂に引き続いて癒しの時間は続く。
彩香の膝枕で耳掃除をしてもらい、稀に目を開け見上げると彩香と目が合い、そして彩香はニコッと可愛らしい笑顔を向けてくれる。室内ではノーメイクだがそれがあどけなくて可愛らしく、一方、外出する時はナチュラルメイクを施し美人になる。
彩香を買った翌日の土曜日は買い物に費やしたが、その翌日の日曜日は一緒に遊びに出た。人目を気にして遠出をしたものの、よくよく考えればこんな都会の真ん中で僕に近所付き合いはないし、同じ会社の人間だって遠方から近所まで居住地は様々である。
日曜日は映画を観たり、外食をしたりしたのだが、その時ずっと手を繋いでいたことは思春期以降僕の人生で初めてのことだった。そう、デートという名目で異性と手を繋ぐことが。いい歳をしてこんなことに浮かれていた自分が滑稽だと、内心苦笑いをしたものだ。
「少しこうしてる?」
「うん」
耳掃除が終わると太ももの上の僕を邪険にすることもなく、彩香は優しく僕の額を撫でてくれる。それが心地よくて目を閉じるとつい意識が遠のくが、彩香が優しい笑顔で僕を見下ろすので僕はそれをしっかり感じたく、まだ眠らぬよう意識をしっかり保つのだ。
「今日もお仕事お疲れ様」
「彩香も家事全部やってくれてありがとう」
「えへへ」
彩香が労いの言葉をくれるので僕もお礼を言葉で返す。するとその時照れたように微笑む彩香の表情は僕の心を鷲掴みにする。額を撫でる彩香の手の温もりも、僕に向けてくれるこのあどけない笑顔も間違いなく僕のもので、僕はずっとこれを守っていくのだと強く決意する。それが仕事のモチベーションに繋がるのだから相乗効果だ。
そして夜は更けて、1LDKの部屋の寝室になっている洋室に僕と彩香は一緒に入る。この寝室に寝床はシングルベッド一つしかないので、僕達は一緒にこのベッドに潜る。
「狭いね」
「私は平気だよ。佑介さんといっぱいくっつけるから」
夏のボーナスではセミダブルのベッドを買おうと決めていた僕だが、彩香にこんなことを言われるとその決心も揺らぐ。と言うのは言葉の綾で、間違いなくセミダブルのベッドを買うだろう。広く心置きなく床を使えるように。
「彩香……」
腕枕をした状態のまま一度体を起こし、僕は彩香に覆いかぶさる。常夜灯のみの薄暗い部屋だが、彩香の瞳が潤んでいることがはっきりとわかる。その瞳で見つめられると僕の全身が熱を帯びるように沸き立つ。
「えへへ。今日もする?」
「うん。いい?」
「いいよ。来て」
そう言って彩香が僕の背中に腕を回すので、僕は興奮のまま彩香にキスを投下した。
僕は彩香を買ったが、彩香に金を払っているわけではない。生活をさせてはいるが彩香に僕からの報酬はない。だから彩香はプロではないと自分に言い聞かせ、僕は風俗で培ったテクニックを駆使して筆下しをしてくれた彩香を抱く。
「佑介さん、好き」
「僕も好きだよ」
服を一枚ずつ丁寧に脱がせ、彩香の体中を愛撫すると彩香はしっかりと潤い僕に愛の言葉をくれる。そう、彩香は僕のことを愛している。そして僕も彩香を愛している。だからこれはプロが施す性処理ではなく、愛の営みなのだ。
彩香の均整の取れた裸体は風俗嬢よりも魅力的で美しく、そしてその美貌が僕を高める。彩香を買ったその晩は三回抱いたし、それ以降も毎晩一、二回は抱いている。彩香は一切拒否を示さないし、やがてくる生理中だけは我慢してとだけ言っていつも僕を受け入れてくれる。
ただ、生理はくる。つまり生身の女性。それは妊娠が可能なことを意味する。そして彩香に戸籍はない。だから妊娠なんてさせられるわけがなく、毎回しっかりとコンドームは装着する。例えば彩香に戸籍があって僕に戸籍がなければ、出産しても未婚の母で通るのだろうが、母親に戸籍がないのはどうにも誤魔化しようがないように思う。
「佑介さん、来て」
火照った彩香が潤んだ瞳で僕を求めるので、僕は彩香の中に入った。この晩も僕達は愛し合い、肉体の営みに励んだ。
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