第一章

第1話 顧客・豊永佑介様

 ビルの一室にある中堅企業である商社のオフィス。高層階にあるこのオフィスの窓からは都会の街並みが一望できる。尤も、窓は上司の席の背面にあって、普段からその屋外を見ることはなかなかするものではない。つまり僕、豊永佑介とよなが・ゆうすけは上司に呼び出されて、今その上司のデスクの前に腰を丸めて立っているのだ。


「豊永君。今月の売上げ、全然ダメじゃないか」

「はい、すいません」

「君は先月も営業ノルマ不達成だっただろ?」

「はい、すいません」


 逆光で上司の表情は読み取りにくいが、薄くなった額がオフィスの照明を反射させていて、上目ながらも僕の視界にその反射光が映りこむ。滑らかそうなその額に触れてみたら良き感触を楽しむことができるのだろうか。いや、額に浮き上がった油が結局鳥肌を立たせるのでその好奇心は即座に意識の外へ飛ぶ。


「それどころかこれで不達成何ヶ月続いている?」

「はい、すいません」

「答えになってない!」


 張った上司の声がオフィスに響き、それに伴って一瞬僕の肩が上下した。背後から同僚達の失笑が聞こえてきそうだがそんなことはなく、耳だけ傾けて手と視線は自分の仕事に向けているのだと、そんなことは見なくても明白だ。


「君の謝罪はもう何百回も聞いたんだよ。私の質問に答えなさい」

「はい。もう五ヶ月、達成してません」

「つまり今月も不達成なら半年だな?」

「はい……」


 できるだけ気落ちした声を意識して返事はするものの、その前に自分の不名誉な記録を口にさせられたところで改善にはならないと思っている。それより今日の食堂の日替わり定食は何だろうと僕の頭に明後日のことが浮かぶ。


「夏のボーナス査定、最低評価になるぞ? いいのか?」

「いえ……」


 とは言ったもののそれは別に構わない。最低評価とは言え、会社が設定する最低限の賞与はもらえるのだから。それよりもこんなにガミガミ言われず気楽にのんびりと日々を過ごしたい。収入は生活最低限あればいい。


「もういい。戻れ」


 吐き捨てるように言った上司は手の甲を僕の後方に向かって振った。説教は中途半端なところで終わるのだと思いながらも、あまり長くならなかったことに胸を撫で下ろす。尤も、上司は僕にどれだけ言ってもあまり堪えないと感じたのだろうが、真意の程は定かではない。


「豊永、大丈夫なのかよ?」


 自席に着くと声をかけてきたのは隣の席の兼房正二かねふさ・しょうじだ。彼は僕と同期入社の三年目でありながら仕事では結果を出し、出世期待の若手として一目を置かれている。また、容姿も整っていて女子社員からも人気だ。


「大丈夫って何が?」

「はぁ……、もっとしっかりしろよ」


 すっ呆けて僕が質問を返すものだから、兼房は一度溜息を吐いた。そもそもいくら兼房が期待の若手社員だからと言って僕と同期入社なのだから、心配される筋合いはまったくないのだが。彼は僕の教育係にでもなったつもりなのだろうか。


 やがて十二時を知らせるチャイムが鳴ると、僕は兼房とこのオフィスビルの食堂に行った。外回りに出ず、二人とも社内にいる日は僕と兼房は大体一緒に昼食を取る。僕達は四人掛けのボックステーブルに対面して座った。


「こないだ行ったコンパでさ」


 兼房のその切り出しに僕は内心溜息を吐く。またこの手の話題かとげんなりするのだ。この先の話は大方予想がつく。


「すっげぇ可愛い子いてそのままお持ち帰りしちゃった」

「ふーん」


 素っ気なく言いながらも僕は予想が当たったことに若干の苛立ちも感じる。僕は視線をテーブルの上のから揚げ定食に落としたまま箸でから揚げを摘む。このから揚げ定食がこの日の日替わり定食で、兼房も同じものを注文していた。しかし兼房の意識は食事よりも僕に話すことに強く向いているようだ。


「朝まで三発」

「よくやるねぇ」


 から揚げを持ち上げていた僕は答えるなりすぐ、そのから揚げを口に放った。そしてご飯をかき込み頬張った。


 毎度のことで呆れるが、その週最初の僕達の揃っての昼食は兼房の淫らな女自慢だ。仕事もできて容姿も整っている兼房の実情が女にだらしないと女子社員たちが知ったらどう思うのだろう。そう、兼房は僕を自慢話の聞き手役と位置付けており、この手の話を僕は入社からずっと何度も聞かされてきた。

 そうは言っても、兼房のだらしなさに呆れはするものの羨ましい気持ちがあるのも事実だ。手あたり次第女に手を出すなんて器用なことは僕にはできないが、それでも恋愛に憧れてはいるし彼女は欲しい。彼女いない歴が年齢の生まれてこの方所謂非リア充だから。


「豊永はそういう話ないのかよ?」


 いつの間に食事を口に入れたのか、兼房は頬を変形させながら、そして咀嚼をしながら僕に問い掛ける。


「いつも言ってるとおり僕に浮いた話はないよ」

「ふーん。イケメンではないけど、ブサメンでもないのにな」


 貶されているのかそうではないのかよくわからないことを言ってくれる。少なくとも褒められていないことは確かなようだ。

 そう、贔屓目なしに、過剰な謙遜もなしに、僕は不細工と言われる部類ではないと思う。ただ、容姿に優れていないのも事実であるのだが。それでも昔からいい友達で終るばかりで、専ら他人の恋愛の手伝いを頼まれ続けてきた。お陰様で自分は恋愛に関して耳年増になるばかりで、経験は一切ないのだ。


「あ、兼房さん。ここ空いてます?」


 突然の女性の声に僕が顔を上げると、僕の正面に座る兼房の斜め後ろに経理課の溝入理恵みぞいり・りえさんが昼食のトレーを持って立っていた。


「あぁ、良かったらどうぞ」

「わ、嬉しい。ありがとうございます」


 溝入さんは満面の笑顔で礼を口にすると兼房の隣に腰掛けた。彼女が連れていた女性は僕の隣に座ったが、溝入さんと同じ経理課の社員だろうか。その時に「失礼します」と声を掛けられたので僕は軽く頭を下げた。

 溝入さんは僕と兼房とは一年後輩にあたり、年齢も一つ年下だ。長い茶髪にナチュラルメイクで、とても美人である。その美貌は社内でも評判だ。


「今度飲みに連れて行ってくれる話、どうなりました?」


 突然兼房に話題を振る溝入さんを見て、二人はそんな話をしていたのかと羨む。ただ話の流れからして、溝入さんの方が誘ったようにも聞こえる。


「あぁ……、今週の土曜日はどう?」

「大丈夫です。空けておきます」


 普段から愛想のいい溝入さんではあるが、その普段を凌駕するほどの笑顔を兼房に向けている。美人の満面の笑みとは破壊力が段違いなのだとしみじみ感じた。


「土曜日って休みの日じゃないですかぁ。溝入さん、抜け駆けですかぁ?」


 僕の隣の席の女子社員が語尾を伸ばしてジトッとした目を溝入さんに向ける。溝入さんは心なしかはにかんだように笑って答えた。


「えへへぇ。山中さんは彼氏いるじゃない」

「ちぇ~」


 僕の隣の席の彼女は山中やまなかさんと言うらしい。そもそも社員証を見ていればわかることだが、そこまで考えていなかった。


 そして思うのが、兼房の態度の変わりようである。もちろん変わったタイミングは女子社員が同じテーブルに着いてからだ。それまでは僕に対して淫らな話題で締りのない顔をしていたのに、今ではもう紳士的でキリッとした表情だ。この切り替えが営業成績トップクラスの二面性なのだろうと、然してどうでもいいことに納得する。

 ただ、恋人に憧れている僕は兼房のこういうしたたかなところが鼻につくのだ。はっきり言って疎ましく、妬ましい。仕事に関しては気楽にやれればいいと思っているので、正直比較されたところで気にしない。事実、同期で同一部署ということで比較され続けてきたので慣れている。それでも女慣れしているところは僕にも分けてほしい。


 こうして上司に罵られ、同期に男としての格の違いを見せつけられたこの日、僕は少しの残業を経て繁華街に繰り出した。真っ暗な夜空の下、色とりどりの明るいネオンに照らされて歩く僕の気持ちは晴れない。そんな時は決まって風俗に行く。給料日後で少し余裕があったので、この日は素人童貞らしくソープランドで気分をすっきりさせた。

 入店前に居酒屋で晩酌がてら夕食は済ませたので、あとは帰るだけである。そんな駅へ向かう都会の路地裏を歩いている時だった。


「こんばんは。人材を欲していませんか?」


 僕は一人の男から声を掛けられた。

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