【杯と盃と酒坏】の違い?

 【杯】と【盃】と【酒坏】、どちらも【サカズキ】と読む。酒好さけずきが好むから、【サカズキ】とかではない・・・と思いたい。


 言うなれば、杯は背の高い西洋風の酒杯を言い表し、盃は皿に不=非ずとあるように、背が低く浅めの東洋風・・・かな? そのどちらとも取れる【酒坏】。


 ただ、【酒坏】には酔いどれた面白い逸話を纏っているもの。

 もともとは、神に御神酒おみきを捧げるために用いられる儀式のための器。そのために相応しいとされる器として、どんな形が求められるか、検討されていた。


 古代ギリシャでは、女神アテネに捧げるために相応しいのは、当代の美女を模した器が相応しいだろうということになり、丸みを帯びたお椀型=円形の器が作られたのだとか。

 その由来を知った人々はこぞってそれにあやかるように、それぞれが真似たと言われる。

 かの世界三大美女と言われるクレオパトラの恋人も、それに肖った酒坏を持っていたと言われている。

 さらには、シャンパングラスはかのマリー・アントワネットを模したものとされている。ただし、シャンパングラスとは言っても、フルートグラス(細身のグラス)の方ではなく、シャンパンタワーなどで使われる、小振りな【クープグラス】型(ソーサー型)のものと思われる。


 となると、東洋風の盃もそれに肖っているように思えてくる。

 古代の東洋人は、西洋人と比べると小柄な体型であり、並んだとなれば顕著な差が明白とならざるを得ないがために、皿に非ずといった字が当てられたのではないだろうか?


 ただし、そういう話があったらしいという話であって、実際はどうかというと、不詳だとか。ただ、信憑性としてはありうるかなと。



 ともあれ、カップというものは様々な進化を遂げた物らしい。

 もともと紅茶はソーサー(浅皿)に入れられ、それを啜るようにして飲まれていた。後に、ボウル(深皿)型に、そして持ち手の付いたカップへと進化したと言われる。



   ・・・   ・・・   ・・・



【種明し】

 さて、我々人類に限らず、哺乳類と目される生命全てに共通する、ただ一つのことが上げられる。

 人に限らず、哺乳動物は生まれて初めて必ず口にするものがある。それは母乳であり、生まれて初めて口に入れられるのは、通常ならば乳房となる。それは新生して間もない者にとっては神聖であり、絶対と言える。ただ、昨今ではそうと限らない場合もあるが、人間は古代から現代に掛けて、それらを神聖視し、絶対視せざるを得ない場合が多かったのだと思われる。


 そう考えた時、【酒坏サカズキ】は乳房を模したものが相応しいと考えられるのでは?


 そういった理由から、古代ギリシャでは酒坏は当代随一の美女が立候補し、その乳房を象ったものとされ、クレオパトラの恋人も遠く離れても愛した女性を忘れぬために杯を作成し、マリー・アントワネットの左乳房を象って作られたシャンパングラス(ソーサー型)が基本とされるなど、様々な逸話が生まれるのだろう。


 そこには、人の無き業と浪漫が詰め込まれるに相応しいという思いがあったのかもしれない。

 邪心を持って作られるのではなく、神聖な意味でもって用いられてほしい。


 酒坏が人の乳房を模したという話は実際にそうだったのかもしれないし、そう表現したほうが相応しいという思いは、人として原初の記憶として焼き付けられているものなのかもしれない。


 まぁ、大人は童心に返りたいからこそ、お酒を飲む時は酒坏を用いたいと無意識に思っているのかもしれない。



   ・・・   ・・・   ・・・



 【坏】は、土に不=非ずと書かれる。高さの低い【丘】や盛り【土】、焼成前の陶器や瓦=【柔らかい粘土】、食べ物を盛る器。


 更に酒が付き、【酒坏】。酒は辛い現実を柔らかく受け止め、子供に返って慰められたいという思いが生んだのかも。



ここからは推測。

 あくまで個人的な見解です。


 【杯】は、木に不=非ずと書かれる。木のように背が高く、されど木のようには真っ直ぐではない。木製ではあれど、真っ平らでは立て板に水でも困ってしまう。どこかしら異なる歪な形となりうるため? 東洋人とは異なる容姿から、その漢字が当てられたのかもしれない。


 【盃】は、皿に不=非ずと書かれる。平皿のように平で、されど真っ平らではなく液体を湛えるに相応しい形とされたのでは?

 東洋人としては平均的な容姿から、違いを明らかとするためか? 当時としてはそちらの方が好まれ、求められていたのではないだろうか?



 他人ひとの嗜好はそれぞれ違ったものであり、その嗜好をけなしたりおとしめたりするものでは、けっしてあってはならない。


 そういった差別的表現は、ハラスメント行為とされる。

 他人との違いを理解し得るか、理解し得ないかはそれぞれではあるが、その事をあげつらい、けなしたりおとしめたりするものでは、けっしてあってはならない。


 違いはそれぞれであり、それぞれに有利な点があり、損な場面もそれぞれに存在する。



 見慣れたモノは受け入れられ、見慣れぬモノは拒絶され得る。

 肌の色、目の色、背の高低、様々な過不足など。見慣れぬモノは拒絶され、見慣れたモノは受け入れる。

 それが当たり前であり、普通とされる。


 何に触れてきたのかを物語る上で、良い面と悪い面のどちらが良いか、決めるのはそれぞれではある。


 だが、出来得れば、両面を受け入れ、その在り方を容認してほしい。その願いは酷く我侭ではあるものの、その在り方を拒絶し、否定する事なかれ。

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