第401話 ブルのこだわり

 西から射す日が、車中の面々を照らす。エンジン音が、はっきりと聞こえて来る。

 東郷邸へ向かう車中は、静けさに包まれていた。


 決して和やかとは言えないが、重苦しいくもない。そんな空気の中で、有る者は今後の在り方に考えを巡らせ、有る者は静かに目を閉じて瞑想をしている。


 余程疲れていたのだろうか、普段なら真っ先に冬也の隣に座りたがるペスカが、奥のシートを占領して寝息を立てていた。

 また、冬也も少し座席を倒し、軽いイビキをかいている。その膝にはブルが陣取り、冬也に体を預ける様にして、眠っている。人間の体に変化し、小さな子供の姿になったブルには、年相応とも言える行動に見えた。


 そんなブルの姿を眺め、微笑ましく感じたのか、空に笑顔が戻る。

 そして、運転する安西を中心に、エリーとリンリン、そして翔一が今後の態勢について、話し合いを行っていた。

 今、話しをしても、行動指針すら見えないだろう。しかし、何かせずにはいられない。そんな、せっつかれる様な感情に、押されていたのかもしれない。

 若しくは、思い知らされた不甲斐ない現状に、圧し潰されない為の心の動きでも有るのだろう。


 恐らく、政府による非難命令が出ていたのだろう。公道には車の数が少なく、家々の明かりもまばらである。無論、臨時休業をしている商店は多く、街中は非常に閑散としていた。


 行きよりもスムーズに進み、あっという間に東郷邸へ到着する。一同は、バスを降りると、東郷邸へと足を踏み入れる。

 所謂、世界的な混乱下の中で、電気や水道等の供給が止まっていないのは、奇跡に近い事だろう。


 一同は家に入ると、銘々がリビングのソファや、ダイニングの椅子に腰かける。誰もが疲れているのは明白である。

 そして、高尾に移動してから、ブルの育てた果実しか口にしておらず、空腹を訴える声もチラホラと上がる。主に空腹を訴えたのは、リンリンでは有るのだが。

 だが冬也は、それを敢えて諫めなかった。


 壮絶な戦いを乗り越えたのだ。安西を含む普通の人間達は、途中から意識を失っていた。それでも、ごく普通の人生では決して経験をし得ない事を、彼らは体験したのだ。

 それをねぎらう為に、眠気眼を擦りながら冬也は厨房に向かう。


 しかし、冬也は失念していた。

 史上稀に見る混乱に立ち向かう為、一同は高尾へと旅立ったのだ。しかも、いつ帰れるかもわからない、状況であった。

 東郷邸の管理を任され、目端が利く美咲は、とある行動を取っていた。


 それは、厨房に向かった冬也が、冷蔵庫を開けた瞬間に判明する。

 腐りやすい生鮮食品は優先的に消費した為、常温でもある程度は保存が可能な、加工品のみが残されている。また、電気の供給が途絶える事も美咲は予測し、冷蔵庫の電源を抜いていた。

 そのおかげで、冷えていない冷蔵庫からは、異臭がする事が無かった。しかし、空腹者を抱えた現状では、事件に他ならなかった。


 冷蔵庫や食料棚に有ったのは、米、六本パックのビール、そしてつまみが数種類。極めつけは、沢山の納豆であった。


「ペスカ、ちょっと来い。やべぇ事が起きた」


 少し疲れた表情を見せていたペスカは、怪訝そうな表情で冬也の下へと歩いて行く。


「見ろ! 米の量は充分だ、直ぐに焚ける。だけどおかずがねぇ」


 冬也の指さした光景を見て、ペスカは直ぐに状況を理解した。

 今すぐに空腹を満たす事は出来る。ただし、白米だけの食事であれば。しかし、それだけでは満足出来まい。


 納豆を口に入れる。それは兄弟にとって、それは絶対に有り得ない選択肢である。

 最悪のダークマターを食べる位なら、全ての神を敵に回した方が、どれだけましか。この瞬間、ペスカは力が抜けた様に、床へとへたり込んだ。


「わりぃ翔一。開いているスーパーを探してくれ。多少遠くてもいい」


 冬也は、リビングに向かって大声を放つ。

 事情の理解出来ない翔一は、首を傾げながらも、スマホのインターネットで検索を行った。


「冬也。それ程遠くない場所に、一軒だけ開いてるスーパーが有るみたいだよ。でも、何しに行くんだい? この状況なら、流通は止まってるだろ? 普通の品揃えは期待しない方がいいよ」

「そんな事はわかってんだ。でも、切実な問題だ」

「なぁ、冬也。これを食べちゃ駄目なんだな?」

「ブル。わかってくれ、これは毒だ! 食べたら大変な事になる」

「冬也。てめぇの好き嫌いを、ブルに押し付けてんじゃねぇ。俺は、納豆とやらで一向に構わねぇ。他の奴らも、同じ考えだ。この際、好き嫌いを克服してみやがれ」

「アルキエル。これ以上言うなら、戦争だよ! 力づくで言う事を聞かせるよ。お兄ちゃんと私を相手に、勝てると思わない事だね」


 本来のアルキエルであれば、そんな事を言われれば、喜び勇んで戦う事を選んだだろう。しかし、アルキエルは酷く呆れた様な表情を浮かべると、安西に向かって丁寧な口調で話しかけた。


「安西。疲れてる所ですまねぇが、糞主共の我儘を聞いちゃくれねぇか?」


 遠目で冬也達のやり取りを見ていた安西は、アルキエルと同様に溜息をついていた。そして半ば諦めた表情を浮かべて立ち上がった。

 その表情には、やや失望の意味も込められていたのだろう。世界を守った神が、たかが納豆如きで大騒ぎするなど、情けないにも程が有る。


 乗り付けたバスを動かす為に、安西は玄関へと向かう。

 冬也は、数台の炊飯器で米を炊く事を、空に頼むと安西の後へと続く。そして、冬也の後にペスカが、更に興味津々とばかりに、ブルがその後に続いた。


 一連の行動を理解出来ない、レイピア達異界からの訪問者は、翔一から委細を聞き、少し苦笑いを浮かべていた。


 目的のスーパーまでは、然程の時間をかけずに到着する事が出来た。

 ただ、予想通りと言ってもいいだろう。戦時下において、緊急避難警報が発令されている。当然、買い占め等も起こったのだろう。

 生鮮食品に限らず、飲料水やカップラーメン等のインスタント食料の棚も閑散としている。


 ガランとしたスーパーの食品売り場で、冬也は売れ残りの食品を片っ端から、籠へと入れていく。

 だが冬也の行動に、ブルはこれまで見た事も無い程の、苦い表情を浮かべていた。


「全部、美味しくないんだな。でも放置してたら、みんな腐っちゃうんだな。手に入れるのは、仕方ないんだな。なんだか、許せない気持ちでいっぱいなんだな」


 新鮮でない野菜を提供するのは、農耕の神として許し難い行為なのだろう。しかし、食料品を腐らせる事は、もっと許せない事なのだろう。

 ブルは、戦時下における食料供給の重要さを、誰よりも深く理解している。だからこその言葉だったのかもしれない。


 終始、むすっとした表情で、ブルは冬也の後ろをついて歩く。

 幼い割には、非常に聡いブルである。ある程度の予想はしていた。しかしその反面、初めて来る異世界の市場に、ワクワクもしていた。

 いったいスーパーとは、どんな物を売っている場所なのか。野菜は異世界とロイスマリアで、違いがあるのか。肉や魚の種類は?


 恐らく、商品が棚に充実している通常営業時でも、ブルはカルチャーショックを受けたに違いない。

 基本的には、死んだ魚がパック詰めされるのだ。ましてや三枚おろし等で、切り身にされていれば、元の魚がどんなものか、わかりはしない。

 肉についても同様だ。百グラム幾らでパック詰めされた肉は、どんな家畜のどの部位なのか、わかる訳がない。


 異世界から訪れた者からすれば、トレイ等は邪魔でしかない。そもそも綺麗に棚に並べられた物が、食べ物だと思うかどうかも定かでない。

 更に加工食品の数々。レイピア姉妹やゼルが、もしカップラーメンを見たら、食べても大丈夫なんですかと、問うに違いない。


 日本の当たり前が、海外での当たり前じゃない様に。海外での当たり前は、日本の当たり前ではない。

 当然、地球の常識は、ロイスマリアの常識ではない。


 特に農耕の神ブルからしてみれば、生鮮食品は期待外れであった。

 しかし加工食品の中でも、調味料やジャム類、農作物缶詰等の加工食品に関しては興味を示し、冬也に質問を重ねていた。

 特に、日本食の根幹を成す調味料である醤油や味噌等に対して、深い興味を示していた。

 

 ブルにとっても幾ばくか、得られるものが有ったのだろう。会計を済ませ車に戻る頃には、やや態度が軟化していた。


「冬也。醤油と味噌を作ってる所を、見たいんだな。後は、この世界の農業も知りたいんだな」

「おぅ、いいぜ。願ってもねぇ事だ。こっちにいる間は、色んな所に連れてってやる。現地で色々学んでくれ」

「これで、向こうでもちゃんとした日本食が食べられるね」

「あぁ、ブルのおかげだ」


 ブルのおかげか、車内に会話が戻って来る。しかし、ブルの言葉は、それだけでは終わらなかった。


「おでは怒ってるんだな。冬也とペスカは、食べ物に好き嫌いをしちゃ駄目なんだな。納豆っていうのが、どんな物かわからないけど、毒って言ったら、作った人が可哀想なんだな」


 ブルの見た目は、幼稚園児か小学校に入りたての子供だろう。その子供に叱られて、肩を落としている様は、シュールな光景だ。

 運転をしていた安西は、思わず吹き出す。そして、呆れた様に口を開いた。


「お前等より、このチビっ子の方が、よっぽど大人だな」


 確かに、見た目に反してブルは、精神的に立派な大人なのだ。


「今回は、緊急事態だから許してあげるんだな。でも、次は無いんだな。食料が流通してないんだったら、おでが作るんだな。おでが、みんなを腹いっぱいにしてやるんだな」


 このブルが吐いた言葉は、一部の者を除いて、皆に衝撃を与える事になる。


 冬也達が帰宅した頃には、米が炊けており、納豆で食事を済ませた者が何名かいた。

 しかし、米国出身のエリーには、納豆が合わず手を付けていない。林に関しては量が足りないと、買い出しから戻るのを待っていた。

 

 帰宅するなり、冬也は調理を始める。

 その一方で、レイピア、ソニア、ゼルの三名が顔を付き合わせて、話しをしている。特に、レイピア、ソニアの二名は、初めて納豆を口にし、複雑な表情を浮かべていた。

 

「頂戴出来るだけ、有難い事です。文句を言える筋合いではありません。しかし、なんとも奇妙な食感と味ですね」

「レイピア殿。これはエルラフィアの一部で流行っています。こちらの名産を、ロイスマリアに持ち込んだんですね」

「ゼル、持ち込んだのは、シルビア殿でしょう。しかし、人間には問題なくても、亜人には向かない味です。大抵の亜人は鼻が利きます。特にドッグピープルやキャットピープルには、この匂いは辛いと思います」

「姉さん。魔獣の方々も、同様なのでは?」

「確かに、お二方の仰る通りかもしれません。だから、エルラフィアの一部でしか、流行っていないのでしょうね」

「ゼル。あなたは、この食べ物が平気なのですか?」

「えぇ、私は。しかし、同じエルフ族であっても、クラウス殿とお二方では、味覚が違うのですね?」

「それは個人差ですよ、ゼル。あの子は、兄クロノスと同様で、革新的ですから」


 真面目な顔で、慣れない食べ物について談義するのは、外国人旅行者の反応にも似ている。やがてその談義には、ブルやエリーが加わり、安西や林も加わる。

 そして、日本独特の食べ物の試食会へと移っていった。


 梅干し、イカの塩辛、イナゴの佃煮等。食料棚を探せば有るのだ、遼太郎が酒のつまみとして、買い貯めていた物が。

 どれも、日本酒の隣に置かれていた為、冬也の目に入らなかったのだろう。


 エリーはどれも、複雑な表情で口にしていた。しかし意外にも、レイピア達ロイスマリアからの客人には、概ね好評だった。

 そしてブルは、一つ一つ加工方法を尋ねる。それを林が、即座にネットで調べて、丁寧に答える。そんな光景も新鮮かもしれない。

 

 段々とリビングが騒がしくなる中、冬也の料理が完成し、納豆だけでは物足りなさを感じていた者達の腹を満たす。

 腹が満たされれば、自然と眠気も襲って来る。各自が与えられた寝床へと向かい。東郷邸には、再び静寂が訪れる。


 しかし、翌朝一番で目を覚ました空は、リビングのカーテンを開けた瞬間に、腰を抜かして床にへたり込んだ。

 次々と目を覚ます特霊局の面々も、リビングの窓から見える庭の変貌に、言葉を失っていた。


 その後、リビングに入って来た、アルキエルは笑みを深める。

 そして、最後にリビングへやって来たペスカと冬也は、苦笑いを浮かべた。


「みんな、わりぃ。言っときゃよかったな。だけど、すげぇ旨いから、食べてみてくれ」


 東郷邸の庭は、家庭菜園と化していた。しかもたった一晩で、野菜や果物が実を付け、食べごろになっていた。もう、家庭菜園のレベルは遥かに超えているだろう。

 そして、ブルが育てた野菜を初めて食べた者は、感動の涙を流す事になる。


 また、近所に配っても充分な程、毎日新鮮な野菜や果物が収穫が出来る。そして、近所に住む者達も、ブルの有難さを知る事になる。


「これも有る意味、飯テロだよね。私達が帰ったら、この近所は大変な事になるね」

「まぁ、大丈夫だろ。暫くは、ブルの神気が庭の土に残るだろうし」

「そういう事じゃないだけどさ、まぁいいや。お兄ちゃんって、妙な所でアバウトだよね」

「うるせぇよ」


 その後、東郷邸の庭は、豊かな実りの有る、不思議な場所として名所になる。その裏で、管理する苦労が有った事は、また別の話し。

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