第309話 インビジブルサイト その2

 空と安西達が路地から出た時の事だった。長身の男性が路地を塞ぐ様に、空達とすれ違う。そして男性は札を数枚宙に投げると九字を切った。すると亀裂を中心に光が走る。それまで猛烈な勢いで、周囲の物を吸い込み続けていた亀裂と、それを取り巻く空間を断絶する様に、見えない壁が出来上がる。

 見えない壁は建物を守る様に亀裂の四方を囲む。大気の渦を巻いていた路地内は、落ち着きを取り戻し、剥がされて宙を舞っていたあらゆる物が、重力に従い地面に落ちる。


 少年を道路の脇に寝かせた安西は、長身の男性に近づくとホッとした様な表情を浮かべて声をかけた。


「クラウスさん、ナイスタイミングだ。助かったぜ」

「念の為に容易しておいて良かった。それにしても、結界を張る事態になるとは」

「それで、クラウスさん。結界はどれだけ持つ?」

「せいぜい、一時間から二時間って所でしょう。あの亀裂がこのまま広がり続ければ、もっと限界は早く訪れるでしょう」

「そっか短いな。避難もギリギリだろうな」


 安西は眉をひそめて、短髪に切り揃えた頭を搔く。結界は一時凌ぎに過ぎない。限られた時間内で、原因の対処をせねばならない。安西は空を見やると、直ぐに頭を振る。

 安西の中に一つの策が有った、しかしそれは少女を危険に晒す事に他ならない。安西は険しい表情のまま、考え込様に立ち尽くす。


「安西さん、クラウスさん。お願いが有ります!」

「待て、空ちゃん! 危険だ! 他の手段を考えよう」

「今あの亀裂を何とか出来るのは、私しかいません! 私ならあの亀裂を消せるかもしれないんです! クラウスさんが結界を張ってくれた今なら、あの亀裂に集中出来ます!」

「駄目だ! 危険すぎる!」

「チャンスは、今しか無いんですよ!」


 考え込む安西に、声をかけたのは空だった。空は捲し立てる様に、声を荒げる。しかし安西は、身を犠牲にする行為を、許容する事は出来ないと首を横に振る。中々首を縦に振らない安西に、空が詰め寄る。安西と空の間に、やや緊張感が漂っていた。

 互いに引かず、言い争いに発展し兼ねない安西と空のやり取りに、クラウスが割って入った。


「空殿、少し落ち着いて下さい。少年を庇って傷を負ってるはず。背に痛みが有るでしょう?」

「そんなの、今は関係ないです!」

「意思の力と強さが比例するロイスマリアなら、それでもいい。だが、ここは地球だ。今の空殿で、あの亀裂を封じる事は出来ません!」

「なら、どうするって言うんですか?」

「少し休む位の時間は有るんですよ、空殿」


 ズキズキした痛みを、空は背中に感じていた。少年を助ける為に全力を振り絞り、肩で息をしているのは、周りから見ても明らかだった。


 かけがえのない命を救った、今はそれで充分ではないのか。少し休んで体力を回復する時間なら、自分が作ろう。そう語る、穏やかなクラウスの瞳に、空はゆっくりと頷いた。

 とは言え、空の能力に頼るしかないのは、事実であろう。安西と翔一の表情が晴れてはいなかった。


「ところで、皆さん。良い報告と悪い報告が有ります」

「流石に、笑えないですよ。クラウスさん」

「翔一殿。心にゆとりが無ければ、良い案も浮かびません。頭の回転が良い翔一殿の事、ご理解頂けると思いますが」


 茶化す様なクラウスの口振りに、翔一が苦言を呈する。しかし、クラウスは笑って答えた。

 危機感を持つのは良い。その結果、視界を狭めるのは本末転倒である。危機に陥った時こそ、冷静になれ。

 クラウスの言葉に、翔一は返す言葉を持たず口を噤んだ。


「さて、どれからお話しましょうか」

「クラウスさん。今は暗い報告を聞きたくないな」

「安西殿、わかりました。では、良い報告から致しましょう」


 クラウスは、安西、空、翔一とゆっくり見渡すと、徐に言葉を続けた。


「本日の午前十一時頃です。大きなマナの揺れを感じました」

「それがどうした?」

「わかりませんか安西殿。ゲートが開いたんですよ」

「って事は、先輩が帰って来たのか?」

「それだけではありません。ペスカ様が日本に参られました」


 クラウスの言葉に、いち早く反応したのは空であった。ペスカが来た、それは一つの事実を示している。


「と、冬也さんも、来てるんですよね?」

「勿論です、空殿」


 打って変わって、空の表情がぱぁっと明るくなる。だが、次の瞬間には険しい表情へとに変わった。何度も念を押したにもかかわらず、日本に戻って以来、何も連絡を寄こさない想い人。無視をされたと取られても仕方がないだろう。冬也の顔を浮かべ、空はあからさまに不機嫌になる。

 事情をよく知る翔一は、なるべく空の機嫌がこれ以上悪くならない様に、クラウスとの会話を試みた。

 

「ところで、クラウスさん。今のが良い報告なら、悪い報告は何ですか?」

「あぁ、そうですね。ペスカ様達は、著しく力を制限された状態で、地球に来られたようです。現状では、戦力になるかどうか、疑問を感じます。それと」

「それと何ですか?」


 ペスカと冬也の名前を聞いた時、翔一は期待していた。恐らく冬也達の目的は、邪神ロメリア関連の清算だろう。冬也達が手を貸してくれるなら、この東京に蔓延する異常事態を、一気に解決へ導けるのではないかと。


 翔一にとって、ペスカと冬也は今でも英雄そのものだった。自分がどれだけ努力しても届かない、希望の光だった。しかし、自分も東京の地で研鑽を重ねて来た。

 やっと胸を張って親友の隣に立てる日が来たのだと、翔一は期待を膨らませた。しかしクラウスの言葉は、翔一の淡い幻想を打ち砕こうとする。これからクラウスの口から出る言葉も、碌な内容じゃない。翔一には、確信めいたものを感じていた。


「恐らく、こちらには向かってると思いますが、交通機関は麻痺していますし、辿り着けるかどうか。更に」

「あ~、もういいクラウスさん」


 安西は手を顔元で振り、クラウスの言葉を遮る様に声を上げた。助っ人が現れるはずが、当の助っ人は役立たつどころか、危機に間に合うかどうかもわからない。


「ったく、どこの糞ったれヒーローだよ! まぁ、東郷先輩が帰って来たところで、大した役には立たないだろうけどな」

「そうですよ、安西さん! 結局は自分達の力で、何とかするしかないんですよ! 大丈夫です、私がいます! 私がこの事態を何とかします!」

「流石、空殿。ペスカ様が唯一ライバルとお認めになった方だ」

「工藤先輩! わかってますよね! ペスカちゃんが来る前に、あれを片づけますよ! それであの馬鹿には、鉄拳制裁です! 乙女の純情を踏みにじった事は、絶対に許しちゃいけないんです!」


 空はクラウスの言葉を無視する様にし、亀裂を指さして声を荒げた。そして翔一は、ただ頷くしかなかった。


「クラウスさん、工藤先輩。結界の維持と、収縮をお願いします。今のままでは、範囲が広すぎます」

「空殿。収縮しても、威力が弱まりはしませんぞ。寧ろ逆です」

「良いんですよ、それで。私のありったけをぶつけますから! クラウスさん、さっきここはロイスマリアじゃないって言いましたよね。ここがどこであろうと、私のやる事は変わらない! ここで全ての悪を叩く!」


 クラウスが齎せた情報は、図らずも空の闘志に火をつける事になる。空の闘志は、安西すら止める事の出来ない迫力に満ちていた。

 そして当のペスカ達は、タクシー代わりにしたパトカー二台を、猛スピードで走らせていた。


「おい、サイレンぐらいつけろ! 急いでんだ!」

「簡便して下さい、東郷さん。パトカーはタクシーじゃないんです!」

「うっせぇ! うだうだ言わねぇで、言う事を聞け! 上層部の汚職をマスコミにタレこむぞ!」

「あ~、もう。これ、始末書で済まないレベルですよ!」

「そんなの、幾らでも揉み消してやる。どの道、特霊局に協力するって言えば、何の文句も言われねぇよ!」

「そもそもホシを泳がせてたのが、裏目に出たんでしょ? こっちは封鎖やらなんやらで、てんてこ舞いなんですよ! ぜんぶ特霊局の手落ちでしょうが!」

「うるせぇ! ガタガタ言うんじゃねぇ!」

「いってぇな! 公務執行妨害であんたにワッパかけても、いいんだぞ!」

「やれるもんならやってみろ! てめぇのキャリア、無かった事にさせんぞ!」


 運転する警官を小突きながら、パトカーを急がせる遼太郎。その隣には、物珍しそうにぴったりと窓に顔をつけて、外を眺めるアルキエルが乗っている。

 そして、後方で追走するパトカーに乗るペスカと冬也は、申し訳なさそうに同乗する警官に頭を下げていた。

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