第10話 慈悲
「やばい、やばいやばい…!」
「主、おかえりなさいませ」
「ただいまぁ!」
大学から帰った主は、来るやいなや鞄からノートと参考書を取り出して、パソコンを起動させました。
「ど、どうしたのですか?」
「明日が期限のレポートを忘れてた!
ちょっと集中するから、悪いけどごはんはカップ麺でも食べてて。
俺の分はいいから」
「あ…、わかりました……」
そう言う間も、主は一度もこちらを見ませんでした。
とりあえず、お湯を沸かします。
当然、私としてはつまらないのです。
今日も主に料理を習い、学問を学ぶ予定でいたのですが、どうやらできなさそうです。
主がそこにいるのに、夕飯が一人で食べるカップ麺というのも寂しくなります。
カップ麺を食べた後、主にことわりシャワーを浴びました。
髪を乾かし終わっても、まだ主はパソコンに向かっていました。
つまらない…
うずうずと、主に構ってほしい欲がわきあがります。
忙しいあまり主に構ってもらえないことは、猫だったときからたまにありました。
ああ、主にいたずらしたい。
おなかに顔を埋めたい。
指を舐めたい。
なにより、レポートとやらより私を見て、私を構ってほしい。
主はヘッドホンをつけて、仕事に没しています。
モニターに難しい数式や図が映し出されているのが、背中越しに見えます。
私は、主の背後に忍び寄りました。
「…主、構ってください」
呼んだのに、聞こえないみたいです。
それが無性にいらいらして、私はヘッドホンを奪い、すばやく片手で主の目を覆いました。
「っ!?」
「主、聞こえなかったのですか」
主の耳元に口を寄せて囁きます。
近すぎて、唇が耳介に当たってしまいました。
「構ってください。
無視しないでください。
そんなものより、私と遊んでください」
しばらく、主はじっとしていました。
ですが、ひとつため息をついて、目を隠している方の手を掴み、ヘッドホンを奪い取りました。
「鳴、あっちで遊んでいなさい。
あとで構ってあげるから」
「…でも」
「鳴!!」
「ひぅっ!?」
大きな声を出されて、私は完全に気持ちが萎えてしまいました。
このままだと、本当に怒られてしまう…
「ご、ごめんなさいっ!」
私はベッドに逃げ込みました。
布団を被って、縮こまります。
しかし、そうしているうちにだんだん落ち着いてきました。
というのも、成長してないというか、ここまでの流れは私が猫だったときと全く同じなのです。
いつも私は怒られるとベッドの下の隙間に逃げ込んで、拗ねたことを主にアピールするために鳴きました。
そうすると主は作業の手を止め、謝りながら私をベッドの下から出して、膝の上にのせてくれるのです。
今回もそうなるのではないか、と思いました。
きっともうすぐ主はパソコンを落として、ごめんな鳴と言いながら私を抱き締めてくれます。
しかし、どれだけ待っても主がキーボードを打つ音は止みません。
布団から顔だけ出して見ると、主はヘッドホンをつけて黙々と作業をしています。
まるで、さっきのことなどなかったかのように…
いよいよもって、私は不安で、悲しくて、寂しくなりました。
駄目と言われたのに、さっきよりも主に甘えたい気持ちが強くなりました。
はやく主に触れて安心したい。
でも、次に触れたら本当に怒られるに違いないです。
嫌われるかもしれません。
猫だったときはこんなことなかったのに。
「…んやぁぁぁ…」
無意識に、猫の鳴き声のような声が出ました。
主に触れたい。
甘えたい、じゃれつきたい、構ってほしい、撫でてほしい、抱き締めてほしい…
もう一度、主の背後に忍び寄ってしまいました。
触れたら怒られる…
怒られたくない、でも触れたい…
ジレンマが私を締め付けます。
しかし、結局、私は主に触れてしまったのです。
足元に這いつくばり、主の膝に額を当てます。
主はヘッドホンを外して、私を見下ろしました。
「鳴、頼むからもうちょっと待ってて…」
「ごめんなさい……
邪魔しませんから、許してください…
あ、脚に抱きつかせてもらうだけでいいですから…
お願いします、許してください…
じゃないと私、寂しくて、もう、死んじゃいそうなんです……」
主の顔を見られず、額を主の膝に押し付けながら懇願しました。
主はまたひとつため息をつきました。
「…いいよ。
もう少しで終わるからね」
「ぁぁ…ありがとうございます…」
主の足を股で挟み、膝を胸元に抱いて、太ももに頭を寝かせます。
ああ、この感じ…
怒られなかったこと、触れることを許してもらえたこと、それと主の脚にじゃれつくことの懐かしさが、私を安心させました。
邪魔をしないよう、そのままの姿勢で動かずにいたら、少し眠くなってしまいました。
頭を撫でられて、眠りかけていたことに気がつきます。
それでもまだ半分夢の中のような心地です。
「鳴、終わったよ」
「…んぅ、あるじ」
「ごめん、寂しかったな」
主は私を抱きかかえ、ベッドに運びました。
ベッドに腰かけ、私の頭を撫でてくれます。
「あるじ…、あるじも、もうおやすみしましょう…
ひとりだと、さむいです…」
「ん、もう寝るよ」
「ちゃんと、だきしめて……」
「…分かってるよ、おやすみ」
「………―――」
最後には。
結局、最後には、主は私ののぞむがままなのです。
私が頼み込めば、主は何だって聞いてくれるのです。
その度に、私は主の愛を感じます。
私は、どこまでいっても完全な人間にはなれないと半ば確信しています。
ですから、主、私をペットとしても愛し続けて下さい…
ずっと、ずっと、その愛を私だけに向けて下さいね…
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