第5話 悪意

平日に私がやるべきことと言えば掃除くらいです。

ですが、広いわけではない一室ですから、実家の母上のように毎日一日中掃除をする必要はなく、暇をもて余してしまいます。

猫だったときはもっと暇だったはずなのに、暇だと思ったことはないです。

不思議なものです。


これを、主に直訴しました。


「なので、私にやることを与えて下さい!」


「なるほど、やることか…

あ、なら読書でもするといいよ」


「それでは主のお役に立ちません」


「ああ、そういう……」


主のお役に立つことが大前提です。


「……いや、でもね、知識を得ることは俺のためにも、鳴のためにもなるよ」


「? どういうことですか?」


「例えば、鳴はできるだけ風邪をひいたり、大怪我をしてはいけない。

なんでか分かる?」


「……お金がかかるからですか?」


「当たらずとも遠からずかな。

正解は、お前には保険証がないからだ。

鳴くらいの年なら親の会社の健康保険に入っているのが普通だが、お前には戸籍上の親がいないからな」


「……はぁ」


「保険証に限らず、お前は日本で必要な色々なものがないんだ。

そういった知識を身につけることは、鳴のためでもあり、鳴を助ける俺のためにもなる。

分かるか?」


「……はい」


急に、私の未来が真っ暗になった気がしました。

私は、存在しない人間なのです。

そんな私がまっとうに生きていけるとは思いません。


「……ごめんな、怖がらせた。

俺が仕事を持ったらどうにかしてやるさ。

他にも、社会での身の振り方とか勉強すればいい」


「社会、ですか」


「ん。そういうのを身につけてくれたら、平日の昼間に外で遊んできてもいいぞ」


「はぁ……、そうですか」


あまり魅力的な提案ではありません。

主の隣が私の居場所であって、一人で外に出る意味は無いからです。


「まあ、いろいろ調べてみるといい。

この部屋の本はいくら読んでもいいし、パソコンも使っていいぞ」


「パソコン、ですか…」


主がよく難しい顔をして向かい合っているあれです。

パソコンだけは、見ていても何がなにやらさっぱり分かりませんでした。


「私に扱えるのでしょうか?」


「操作そのものは、マウスとキーボードの扱いだけだから大丈夫。

それよりもインターネットの使い方のほうがむずかしい。

鳴にはまだ早いかもしれないけれど、調べ物はネットが手っ取り早いだろうから」


「…わかりました、やってみます!」



・・・



午前の掃除に加えて、午後のネットサーフィンが私の日課に加わりました。

ローマ字表を読みながら、Kはどこ、Rはどこ、と探し、一文字一文字打ち込みます。

このキーボードの配列、なぜこんなに複雑にしてしまったのでしょうか。


インターネットとは、世界中のパソコンと繋がる素晴らしい道具です。

一方、危ないサイトもあると教えられました。

そういうところに繋がらない設定にしたし、まともに調べ物をしていればそういうサイトには繋がらないはずだ、とも言われましたが。


インターネットで、いろいろなことを調べました。

男女が結婚という儀式を執り行い、つがうまでの流れ。

何らかの生物が人間に変化した例。

人間の女性の体の構造。

主の通う大学。

猫の生態。

殿方に求愛する方法。

スポーツ、ファッション、外国語、職業、その他一般教養。

なるほど、主の言う通り、パソコンで手に入らない情報はないと見えます。




ある日、私は意図せず、動画サイトに飛びました。

アダルトな動画サイトでした。

なんとなく、これが主の言う危ないサイトなんだと分かりました。


しかし、私は好奇心に勝てず、主の言いつけを破ってそのサイトを閲覧してしまったのです。


はじめて、人間のまぐわいを見ました。

どの生物もすること自体は同じはずなのですが、人間のそれは、なんと言うか…、激しかったです。


直後、新しいウィンドウが開きました。


『ご入会ありがとうございます!』


「!?」


ウィンドウには、月額の会員に入会した旨と、金額が表示されていました。


その瞬間、私は血の気が引き、反射的に全てのウィンドウを閉じ、パソコンを落として、ベッドに潜り込んで震えました。

複合的なえもいわれぬ恐怖が私を支配して、閉じたパソコンの方を見ることさえままならなくなってしまいました。

しかし、あのウィンドウが脳裏に焼き付いて、目を強く閉じても逃れられないのです。




「ただいま、鳴」


「あ、主!お帰りなさい!」


寝付くこともできずベッドで震えていたら、夕方に主が帰宅しました。

安心しました。

しかしそれもつかの間、主がパソコンに直行したので気が動転しました。


「あ、あああ主っ!そのっ!」


「ん、どうした」


主が起動させたパソコンは、いつも通りの画面をうつしていました。


「……………、その、ごめんなさい……私……」


私は泣きながら全て主に白状しました。

好奇心から卑猥なサイトにアクセスしてしまったこと。

なにやら変な会に入会してしまったらしく、お金を取られること。


「うぅぐっ、ごめんなさい、あるじっ、私はどうすればいいのでしょう…

お、おかね、うぅっ」


「あー……、たまにフィルタリングから漏れるサイトがあるんだよなぁ。

そんな気の毒になるくらい泣かなくても大丈夫だよ。

多分、ワンクリック詐欺ってやつだと思うから」


「すんっ……、わんくりっくさぎ……?」


慰められながら、ワンクリック詐欺の説明を受けました。

名にあるように詐欺なので、取り合わなくていいみたいです。


「…すみませんでした、私は主の言いつけを破ってしまいました…」


「いいよ、お前が好奇心が強いのは分かってたのに、パソコンを使わせた俺も悪い。

怖かったよな、実は俺も一度経験があってな…」


主に許され、撫でられて、ようやく安心できました。

でも、まだパソコンはちょっと怖いです。


これが、私が人の悪意にさらされた初めての経験でした。

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