第1話 猫の恋
いつの間にか寝てしまっていたようです。
私は今朝までは猫でした。
今は人間です。
温度の感じかた、匂いの感じかた、眠るときの姿勢、何もかもが、私が人間になったのは夢ではなく現実だと教えてくれます。
ベッドの外に、寄りかかるようにして主が眠っていました。
どうして一緒に寝てくれなかったのでしょうか、私が大きすぎるからでしょうか。
布団をはだけると、自分が服を着ていることに気が付きました。
主がよく着ている服です。
私は自分の体を鏡で確認したくなって、ベッドから抜け出しました。
ところが、うまく立てません。
後ろ足が妙に長く感じるし、いままでかかとを地面につけたことなんてなかったのです。
どうにか這いずるようにして、姿見までたどり着きました。
私の容姿は、主より少し幼いくらいの若い女性のものになっていました。
変わらず黒毛でした。
今の顔に猫の面影があるようには思えません。
人間としては普通の、すらりと伸びた手足は、私が憧れてやまなかったものです。
…こんなに使いにくいとは思いませんでした。
そういえば、主と話せるようになったのでは、と思いました。
しかしながら、何か喋ろうとしても、何も言えないのです。
喋り方が分からないのでした。
「…あるじ」
ただひとつ、この言葉だけはどうにか言えます。
筆談ならどうだろうと考えました。
主のデスクの上にあるペンと紙を使うべく、デスクまで這い寄ります。
前と同じ感覚で飛び乗ろうとしました。
「フッ!――――ふぎゃぁっ!?」
私は想定した高さの半分も飛べずに、額をしたたかに打ち付けました。
しかも大きな音のせいで、主を起こしてしまったようです。
「め、鳴!?何してるの!?」
私はもはや筆談くらいしか主とのコミュニケーションが思い当たらなかったので、主の制止を無視して、必死にデスクチェアにのぼりました。
ペンと紙はあったので、これで字を書くだけです。
ですが、私はものの握りかたを知りませんでした。
私に備わった5本の指の使い方が分からないのです。
仕方なしに、両手で挟むようにしてペンを持ち、紙に書き始めました。
駄目でした。
必死に書いたのに、まるで字には見えません。
文章を書くつもりでしたが、へたくそな絵ひとつで紙が埋まってしまいそうです。
主は困惑したように、すぐそばで私を見ています。
「ふぐっ、ぅぅぅぅぅ…
んやあああぁぁぁぁぁぁっ……」
書きながら、悲しくて悔しくて、怖くて恐ろしくて、私は泣きました。
主のお役に立つために人間になったのに、私は喋れないし、書けないし、立つことさえままなりません。
主と添い遂げるために人間になったのに、こんな役立たずの私を誰が愛してくれましょうか。
主に愛される猫が、主に愛されない人間になりました。
あぁ、主、そんな困った顔をしないで下さい。
ぐずでごめんなさい。
どうか、嫌いにならないで下さい!
主に嫌われたら、この姿になった意味がないのです!
お願いします、私を捨てないで下さい!
猫の姿の私の方を愛してくれたのなら、今からでも猫の姿に戻ります!
ですからどうか…、私を捨てないで、主の手元に置いて下さい……!
「うぁぁぁぁぁぁぁ…!
にゃぁぁぁぁぁぁぁ……!」
結局、私が非力で主ありきのくせに、主のために何もできないのは、猫でも人間でも変わりませんでした。
こんな時に助けてくれるのは、いつも主なのです。
「鳴、お前何か伝えたいのか」
「っ!!ん!ん!」
主の言葉に、私は勢いよく何度も頷きました。
「字を書こうとしている…?
なら字が読めるってことだから…
待ってろ、鳴」
主はデスクの上のパソコンを操作して、何かを印刷しました。
「これは五十音表っていうやつ。
鳴、言いたいことがあるならここから文字を探してみて。
ゆっくりでいい、落ち着いて…」
人間の使う簡単な方の文字、平仮名がびっしりと並んだ表です。
規則性が無いように思え、特定の文字を探すのは大変でした。
その文字を見つけたら私は手先で指し示し、主は別の紙にそれを書き留めました。
長い時間をかけて、ようやく文章を作れました。
私は主とコミュニケーションを取れた達成感から、口角が上がるという不思議な感覚を覚えています。
『あ る し ゙ を あ い し て い ま す 』
「鳴…、主ってお前、そういうキャラだったのか」
主が私を撫でながら苦笑いをしました。
「俺も愛しているよ。
しかし、なんで急に人間になったのかね…」
主は、私が猫だったときと変わらない調子で、愛していると告げました。
しかしその時のことを、私は一生忘れないでしょう。
主が私に愛していると言ったことは何度もあります。
でも、人間の私の言葉に応えて愛していると言ってくれたのは、それが初めてでした。
心臓が高鳴りました。
主以外、何も見えなくなりました。
あぁ、主は人間の姿の私も愛してくれる。
絶対に主と会話を交わせるようになろう。
私から主を抱きしめよう。
主が私を愛してくれる何倍も私が主を愛そう。
そう思いました。
きっと私はそこで初めて、人間として主に恋をしたのです。
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