第2話 猫舌
「鳴、ただいま」
「なー!」
主は、私が人間になって最初の食事くらいはいいものを食べさせてあげたいと言いました。
しかし私がこの家中の食べ物を全て食べてしまったので、私をおいて買い物に行き、今し方帰ってきました。
私もついて行くと考えなしに主張したのですが、主は今の私を表に出すことに否定的でした。
「今日は焼き鮭と煮物だぞ!」
「ん!」
鮭は食べたことがあります。
あれは大好きです。
主は早速キッチンにこもり、調理をはじめました。
私もよたよたとついていきます。
「カレーとか食べさせたかったけど、大丈夫かわからんからなぁ…」
主の手さばきを、下からじっと見つめます。
主は母上に負けず劣らずの料理の腕を持ちます、少なくとも猫の味覚では。
「なんだよ鳴、そんなに見つめて。
料理が気になるか?」
「……んん」
私にとっての料理とは概ね食感が全てで、工程にはさほど興味がありませんでした。
しかし、主が手ずから人間の私に作ってくれる料理ですから、この目で見たいと思ったのです。
「はは、まあ見ていなさいよ」
主は人参やじゃがいもを手早く下ろし、鮭の切り身もさっさと焼き上げました。
水菜という生の草のサラダもこしらえ、お米が炊ける頃には全て終わっていました。
「鳴、持って行くから席についてなさい」
かくして、主のお手製の夕餉が揃ったのです。
「いただきます」
「……」
食べる前に主が手を合わせたので、私もまねをしました。
鮭。
前に見たときはこんな色ではなかったと思います。
私の本能を揺さぶるような、香ばしい香りがします。
いざ食さん、と思ったのですが、人間の姿で皿に顔を突っ込むのはためらわれました。
かといって箸は使えません。
「ん?ああ、ごめん。食べられないよな。
仕方ない、食べさせてあげるよ」
主は私のすぐ右隣に寄って、箸で鮭の切り身を切り分け、持ち上げました。
「はい、口あけて」
なんだか恥ずかしくて、いたたまれないような気持ちになりました。
猫だった頃には感じたことの無い感情でした。
「んあー…………、
………!!」
以前に私が食べた鮭は何だったのか、いや鮭が違うのではなく私の舌が変わったのです。
人間の味覚とは本当に素晴らしいものだと感じました。
前より遥かに強く感じる塩の味、前は感じることの無かった複雑な味。
それにこの不思議な色をした身の食感が合わさって、はじめて鮭なのです。
以前はもっと匂いを感じましたが、味覚という優れた感覚があれば食事における嗅覚はさほど重要ではないとみえます。
「どう、おいしい?」
「ん!!んんん!!!」
「ははは、なら好きなだけ食べて」
米という無味のものが逆説的に与える味。
煮物という種々の野菜や未知の食材が煮込まれた料理の深い味わい。
生の水菜の風味と、それを引き立てる酸味のある調味料。
夢中で、主をせっつきながら、がつがつと食べました。
・・・
食後、主に膝に乗せてもらうようお願いしました。
主はすこし戸惑ってから、前と同じように私を乗せてくれました。
立つ歩くといった行為には違和感がありまだできないのですが、座ることは私にとっては自然に感じられます。
「んー、ん」
膝の上で、五十音表を用いて主に感謝を伝えます。
『お い し か つ た て ゛ す』
「よかった。味の感じ方とか違う?」
首肯します。
「そうか、うんうん………
………なぁ、鳴。
お前は、これからどうしたい?」
「…?」
主の言うことは要領を得ませんでした。
「本当に急に、人間になったよな。
鳴は、猫として生きていきたかったんじゃないか?
人間になってしまった以上、人間として生きるしか道はないかもしれない。
それでも、程度はあるんだ。
完全に自立した普通の人間として生きる道、前とほぼ変わらず俺と生きる道。
お前はどうしたいのか、今すぐ決めろとは言わない。
でも、考えておいてほしい。
鳴がどんな道を選んでも、俺はそれに協力するから」
主の言いたいことは分かりました。
ですが、私の生きる道はただ一つです。
私が人間になった意味、人間としての目標。
『わ た し は あ る し ゛ と と も に い き ま す』
「……そう、か。
まあ、気が変わったらいつ言ってくれても構わないよ。
どのみち、今生の別れってわけじゃないんだから」
ずっと一緒にいたからこそ、主の考えることは手に取るように分かります。
鳴は自身の意思にそぐわずに、突然人間になってしまった。
そんな中、人間としてどう生きるかなんて考えられない。
不安だから主と離れるのは嫌だと返答した。
そう思われていることでしょう。
今はそれでいいです。
いつか、私の声で、主に想いを告げます。
そのときは誤解無く、私の気持ちを余すところなく伝えます。
私は主と共にいます、と。
私は主が好きで、好きで、愛するあまり、人間になってしまったのですよ、と。
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