第3話 甘味

主は今は大学に行ってしまいましたが、私に言いつけをいくつかしていきました。

まず、火元や刃物に近づかないこと、絶対に外に出ないこと。

それと歩く練習、物を持つ練習、喋る練習、すなわち人間の体に慣れることです。

私が猫のときから人語を解し、文字を読んでいたと伝えたところ、主は大変に驚いて、ならば喋ることは比較的容易だろう、と言いました。


見ること、味わうことは、猫だったときより上手にできます。

こと視覚に関しては、人間は猫よりも鮮やかな世界に生きているようです。

私は、赤という色を知りませんでした。

赤のおかげで、世界は光輝くように思えました。

それに、人間はとても視力がいいです。

とにかく、人間歴一年の私にとって、赤くてはっきりした世界はとても刺激的なものだということです。


・・・


五十音表と格闘したり、二本足で立ってみたりしている間に、主が帰ってきました。


「ただいま、鳴」


「お、おかえりなさい!」


「おお、上手に言えるようになったな!

俺がいない間に何か無かったか?」


主は私を褒め、撫でながら心配してくれました。

首を振って否定します。


「なら良かった。

今夜はハンバーグだ、鳴は鶏以外の肉を食べたことはないだろうから驚くだろうなぁ。

おなか空いたよな、すぐ作るから待ってなさい」


主は手元の袋から肉を出しました。

肉は赤いものなのだと知りました。


・・・


ハンバーグ、本当においしかったです。

人間の舌は猫よりもたくさんの味を感じることができるらしく、何を食べても衝撃的です。


「おいしかった?」


「ん!ん!!」


「それと、今日はデザートもあるぞ」


「?」


主は冷蔵庫から何かを取り出しました。


全体が透明なケースで覆われていて、中のものの様子がよく見えます。

全体は白と黄の層になっており、一番上には真っ赤な果実が乗っています。


「ショートケーキだよ」


これがショートケーキかと思いました。

知識としては知っていました。

でしたら、この果実はイチゴなのですね。

主はケースを取り去って、フォークでショートケーキの尖った方を切り分けました。


「はい、あーん」

「んあー……!?!?!?!?」


肉や魚で受けた感動をさらに上回る、衝撃的な味でした。

後で知ったのですが、この素晴らしい味は甘味というものでした。

猫の舌では、かの至上の味を感じることができないようです。

猫の造物主がいるのならば、何を考えているのかと詰問されるべきでしょう。


「おいしい?」

「んーっ!ん!ん!」

「ふふ、よかった」


結局、私は主の分も食べてしまい、半泣きで謝りました。

主はいいと言ってくれましたが、あんなに美味しいものを奪ってしまった罪は重いでしょう。


・・・


主にシャワーの使い方を教わり、きちんと体を拭いて服を着て出てくるように言われました。

猫だったときは苦手でしたが、これはとても気持ちのいいものでした。

そのあと主は少し机に向かって作業をしてから就寝するのですが、私にベッドを譲って自分は床で寝ると言うのです。

何故そのようなことを言うのですかと身振り手振りで尋ね、終いには強引にベッドに引き込もうとしたのですが、怒られてしまいました。


今はベッドの上で、正座という慣れない座りかたをさせられています。


「なあ、鳴。風呂上がりにさ、ちゃんと服を着てくれただろ?

着なれないはずなのに何で着てくれたの、というか、着ないという選択肢はあった?」


否定します。

私は今は人間の身、人前で服を着ないのはよろしくないからです。


「…なら、ひとつのベッドで俺と寝ることに抵抗はないのか?」


肯定します。

物心ついたときからいつも一緒に寝ていたのですから、そこは人間になっても変わりません。


「……どうも鳴、お前にはマナーは別として人間の男女観というものが備わっていないみたいだね。

お前にこれを求めるのは色んな意味で酷かもしれないけど、普通は付き合ってもいない男女はひとつのベッドで寝たりしないんだよ」


主の言いたいことは分かります。

ですが、私は少し悲しかったです。

ひどいではありませんか。

たかだか猫が人間になっただけで、知らない女になったわけではないのに、一緒に寝ることさえ許してくれないだなんて。


私は正座から足を崩して、ふいと主から顔を背け、そのまま頭までベッドに入りました。

拗ねました、もう寝ます、と全身で表します。


「…ごめんな、鳴。

でも、分かってくれるかな…

………おやすみ、また明日」


主は布団越しに私の頭を撫で、明かりを消しました。

床に敷いた布団に入ったのでしょう、それからは静かになってしまいました。


虚しくて、悲しくて、切ない気持ちになりました。

正直に言うと、私が我儘を言えば、主は折れてくれると信じていたのです。

ごめんな俺が悪かったよ、とベッドに入ってきて、優しく撫でてくれるのを待っていたのです。

猫だったときは、いつもそうでした。


静かに体を起こすと、暗闇の中で布団に包まれた主が確認できます。


主の言いつけを破るかどうか。

悩んだのもつかの間、私は素早く主の布団に潜り込みました。

そうして、主の腕を私の体に巻き付けました。

その体勢になってようやく、私は眠気を覚えました。

主の体温、主の吐息、主の匂い、主の体の感触。

感じかたは変わっても、それらは不変なものだと知っています。


(主…、言いつけを破ってしまい、すみません…

愛しています………)


主の体に額を擦り付けているうちに……、私は、眠ってしまいました。


・・・


「鳴。鳴、朝だよ」


主の声で起こされます。

猫だったときは、滅多なことがない限り起こされたことはありません。


「もうご飯ができてるから、食べよう?」


すんすん、と鼻を利かせれば、香ばしいパンの香りがしました。


「んなぁ……」


「…あ、それと」


主は私を布団から引きずり出しながら言いました。


「昨日はごめんな。

その、今日からは一緒に寝ようか」


「…!」


主にどのような心変わりがあったのか分かりません。

でも、いつもこうなのです。

主は最終的には私の我儘を聞いてくれます。

その度に申し訳ないと思いつつも、主の私に対する愛を感じるのです。

"甘い"という形容がありますが、主の私に対する愛については言い得て妙でしょう。

主の愛は、あの至上のショートケーキのようです。

あまりの甘さにまた欲しくなり、私は我儘を繰り返すのです。


(主、どうかこの姿の私も、たくさん甘やかして下さいね…?)


主に抱きかかえられ、食卓に運ばれながら、私は主の顔をじっと見つめました。

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