猫は主と添い遂げたい
レア缶
プロローグ
私の名は
黒毛の猫です。
私は親の顔を知りません。
物心ついたころには、もう
私の主の名です。
主の父上も母上も、私をとてもよくしてくれました。
父上はお忙しい方でしたがよく私を撫でてくれましたし、母上は私に食事を与えてくれました。
しかしながら、主が一番私を愛してくださるので、私はこの方を主と呼んで慕うのです。
私の世界はこの家の中だけでしたが、成長するにつれていろいろなことを知りました。
くしゃくしゃと音が鳴る紙というもの、紙の模様は正しくは模様ではなく文字であること、父上が毎朝熱心に見ている文字の書かれた紙は新聞紙というものであること。
人や動物が閉じ込められた音が出る箱はテレビというものであること、実際にはものが閉じ込められているわけではなく画面に映していること、母上が好きなドラマという物語は七日に一回、決まった時間に放送されること。
今では私は新聞紙も読めますし、テレビを通して海や国、社会といった概念も知識として知っています。
数年前、主は勉学のために家を出ることになりました。
その折に主とご両親は、私の所在について激しく口論をしました。
つまり、主は私を引っ越し先に連れていきたいと主張し、ご両親はそれに反発したということです。
私は、ご両親には申し訳ないのですが、主についていきたかったのです。
非力な猫の身である私は主に助太刀することができなかったのですが、しかしながら、ご両親が主の熱意に折れる形で折り合いがつきました。
主と私だけの家は、前の家よりもはるかに手狭ながら、人間一人と猫一匹ですから、そこは気になるところではありませんでした。
以前と同じく、主は平日の昼は勉学のために大学なるものに行ってしまいます。
主の言いつけをすべて守って、ひたすらに主を待ちました。
そうして主が帰ってくると、私は目一杯に主に甘えるのです。
主に撫でられて、主と食事をして、主の好きな曲を聴いて、主の膝に乗ってブラッシングしてもらって、主とともに床につく。
これが私の生きる意義で、私はいつ死んでもいいと思うくらい、毎日が幸せでした。
そう思っていたからでしょうか、私は今朝から体調が悪くなってしまいました。
主は大変に心配してくれましたが、どうしても外せない用事があるらしく、それだけ済ませたらすぐに帰ってくると私に言い残して、家を出ました。
そのあとすぐに、私はさらに具合が悪くなって、立っていられず、横向きに倒れて動けなくなってしまいました。
私はこのまま死ぬのか、と思いました。
主に、愛してもらったお礼を何もできていなかった。
神という概念を知っていますが、初めてそれに祈りました。
どうか、どうか神様。
私にチャンスをください。
主に恩返しをするチャンスを。
それが叶わないなら。
せめて最期に、一目だけでも主に会わせてください。
私のささやかな願いさえ、叶わないようです。
あぁ、主。
あなたを愛していました。
私が人間であれば――――。
今まで感じたことがないくらい強い空腹感のせいで、失いかけた意識が戻りました。
とにかく、何かを食べることしか考えられませんでした。
用意された食事をすべて一瞬で食べきり、さらにいつもの食事が詰まった袋に爪で穴をあけて、がつがつと食べました。
それでもまだ足りなかったので、キッチンに入って冷蔵庫を開け放ち、中の食材にがっつきました。
初めて口に入れるものもたくさんありましたが、今は味など気になりません。
家中の食べ物を全て平らげて、私はようやく落ち着き、幸せな満腹感の中眠りにつきました。
ついさっきまでしていた死ぬ覚悟など忘れていました。
・・・
「
主の声で、目が覚めました。
あぁ、主、帰られたのですね。
「あー、ううー、あおあー…」
いつものように鳴き声で迎えようとしたら、聞き覚えのない音が出ました。
次いで体を起こしたときに、ただならぬ違和感がありました。
主を見ると、信じられないといった表情でこちらを見ています。
ですが、こんなにはっきりと見えるのは初めてですし、初めて見た色で部屋が彩られています。
どうにか両手足を地につけて立ち上がると、ばさばさと私の黒毛が塊で落ちました。
黒毛の下から、見慣れない肌が現れ、それが自分の腕だと認識できるまで時間がかかりました。
「……鳴、なのか………?」
主はおずおずと私に近づきます。
私は、人間になったのです。
あぁ、神様、神様!
何故こうなったかなど、私は少しも気になりませんでした。
ずっと前から願っていたことだからです。
私は主を愛している、主と添い遂げたい。
私が猫ではなく人間だったらと、いつも願っていました。
それが叶ったのですからたまらなくなって、私は主に飛びつきました。
「うぉっ、痛あぁ!」
いつも私を軽々受け止める主は、簡単に押し倒されました。
「あぁ、ああああっ!
うううっ、おおおおっ!!
あ、う、ぎっ、あうじ、あるじ…!
あるじ!あるじっ!!」
主は腰を抑えながら茫然と私を見つめ続け、やがてつぶやきました。
「鳴…、生きてて、よかった……」
「あるじっ!あるじぃ!あぁああああ!!」
私の名は
黒毛の猫でした。
かくして私は人間になりました。
主のお役に立つために。
主と添い遂げるために。
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