5月9日
朝。俺が目を覚ました頃にはすでに、惨事がすべて収束していた。
食卓で朝食のトーストを齧りながら、俺はMに信じられない話を聞かされている。どうやら昨晩、妹のLがこの家に侵入しようとしていたらしい。
「そろそろ寝ようかな、って思った頃に家の外で物音がしたの。外を確認したら、懐中電灯を持ったLがいて、二階の部屋に光を当ててた」
俺と向かい合って座っていたMは、どこか気まずそうな様子でそう報告する。その隣ではKが、うんうんと頷きながらトーストにバターを塗りたくっている。
「何時頃のことですか」
「2時ごろ……ううん、もうちょっと前かな。すごい薄着で、風邪ひいちゃうからとりあえず中に入れたんだけど、そしたら二階に上げてくれって言い出してさ」
Mの話によると、その時のLはかなり興奮していたらしい。俺に会わせて欲しいと懇願したが、言う通りにしたら何をしでかすか分からない。Mはとりあえず父親を起こしつつ、妹をリビングに誘導した。その後は何時間も、つきっきりでLの話を聞いてやっていたという。
Lが自分の家に戻ることに同意したのは午前6時のことだった。俺とKが目を覚ます30分前。今、Mの父親は車を出して、Lを家まで連れ帰っている最中らしい。
「じゃあ姉貴……親父もだけど、昨日は寝てないのか」
「うん、ずっと起きてた。だって、泊めるわけにもいかないでしょ?」
俺の顔色を伺うように、Mが視線を向けてくる。Lをなぜ泊められないのかといえば、それはもちろん俺と顔を合わせないため――俺を不快にさせないためだろう。彼女に苦労をかけてしまった俺は、後ろめたさから言葉に詰まる。
彼女に聞きたかったことは全て、Kに代弁してもらう形となった。
「Lに何もされなかったか」
「別に、私は大丈夫だよ。すごい勢いで喋りかけてきたけど、もともと乱暴な子じゃないからね。結局はちゃんと家に戻ってくれたわけだし。ただ……」
「ただ?」
「ううん、やっぱりなんでもない」
Mはそう言うと、ぎゅっと左目を閉じる。あからさまに何かを隠すようなその仕草に、Kが一瞬だけ疑いの眼差しを向けた。けれど言葉にはせず、Kは無表情でコーヒーの注がれたマグカップに口をつける。
「……にがっ」
どうやら砂糖を入れ忘れていたらしい。口から離したマグカップを、Kは恨むように睨みつける。馬鹿馬鹿しい悪友の挙動に、普段の俺ならすかさず冷やかしていたことだろう。
けれど、今日の俺は黙っている。残念ながら、そんな気力が湧いてこない。
❇︎
そこからの流れは「いつも通り」だった。適当に身支度を済ませた後、制服姿で玄関に集合する。いつも通りにKドアを開けて、三人仲良く外に繰り出す。
「お父さん、大丈夫かな」
玄関を出てすぐ、住宅街の曇り空を眺めながらMが呟いた。「どうにかなるだろ」とKは返し、
「心配ならついていきゃ良かったのに」
「でも、学校があるし」
「サボれサボれ」
「もう」
Kの軽口にMが笑った。二人の半歩後ろを歩きながら、俺は黙って会話に耳を傾けている。Mは一見いつも通りのようにも見えたものの、寝不足は相当に堪えているはずだ。これから丸一日授業を受けないことを考えると、心の底から同情する。
駅で電車を待ちながら、俺は昨晩の違和感を思い出していた。寝ぼけて何も感じなかったが、今思えば確かに天井は明るかったはずだ。Lはなぜか俺が寝泊まりする部屋を知っていて、懐中電灯で俺を起こそうとしていた。俺と会って、あいつは一体何がしたかったのだろう。本当に「乱暴」な真似を働く気はなかったのだろうか。
Lが手首を刺したのはつい一ヶ月前のことだ。今のLは、本当に何をしでかすか分かったものではない。俺からすれば、Mが「何もされていない」ことの方が却って不思議で、だから先ほどMが何か言いかけていたことも気がかりだった。昨晩本当は何があったのか。Mは何か、本当のことを隠しているんじゃないだろうか。
分からない。
電車が到着し、まばらな人数が出入りする。三人並んで座れる程度には空いている、通学時の車内。乗車時の流れで、Mは俺の右隣に腰掛ける。
鞄を足元に置いた後、意味もなく両手に力が入った。朝食以降、Mとはろくに口を聞いていない。何か言おうと考えれば考えるほど、言葉が出てこなくなってしまう。謝罪。感謝。問い正し。何を言っても不十分な気がして、結局俺は黙って下を向いている。
電車がゆっくりと動き出す。放っておけば、学校に着くまで一切の会話もなく終わってしまうかもしれない。時間が刻一刻と過ぎていくことが感じられ、次第にこの沈黙さえもMに失礼なように感じられてきた。
なんでもいいから、彼女と会話がしたい。
俺は意を決して、右側のMに声をかけた。
「あの、Mさ――」
Mは答えない。いや、こちらを向こうともしない。
ふと気づくと彼女は両耳をヘッドホンで覆っていて、そのまま目を閉じていた。
「寝かせてやれよ。夜勤明けなんだからさ」
左側に座っていたKが言い、俺は「ああ」と間抜けな返事をする。次の瞬間、ゴォーッという音を立てて、列車がトンネルに突っ込んだ。気圧の変化で、耳が痛くなったりしないだろうか。初めて見た彼女のヘッドホンをまじまじと眺めながら、俺は無用な心配をする。一ヶ月間ほぼ毎日一緒に登校しているにもかかわらず、俺は彼女が音楽を聴いている姿を見たことがなかった。いや、音楽くらい誰だって聞くし、別におかしなことは何もないのだけれど。
見覚えのないヘッドホンに、俺は発言の機会を奪われてしまう。
身勝手な話だと思う。俺は彼女に、拒絶されたような心地がしていた。
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