息吹を運ぶもの

昔々、人は魔法を使うことができました。魔法と言っても、人を傷つけるような物騒なものは存在していなかった頃ですから、争いもなく、いたって平和なものでありました。

 さて、その魔法を使う人の中に、ある風変わりな少年がおりました。とても長命で老いを知らない一族の生まれで、耳はとがり、瞳の色は緑と赤の混じる草花のごとし。髪も蔓のように自由気ままに遊ぼうとするのを色とりどりの結い紐でとめている。いつも腰のベルトに不思議な液体の入った瓶を持っており、細い筒を差し込んでは、空に泡を吹いて遊んでいました。筒を抜けてとりどりの泡に姿を変えた液体が雄大な空へと旅立つ。それはいつしかはじけて地に降り、水へと還る。ただその繰り返しだというのに、少年は飽くこともなく、筒を吹いては泡の旅立ちを見送っておりました。


 ある日のことでした。少年は突然、泡の行く末を見てみたくなりました。泡の行く末を少年は知識としては知っていても、実際にその目で泡が還っていく瞬間を見たことはなかったのです。

 ――追うてみよう。そして、そこにどんなものが生まれるか、見てみたい。

 彼はそう考えました。

 かくして泡の行く末を見届けようと決意した彼は仕度をしました。泡を生み出す液体の入った瓶、泡を吹くための細長い筒、どんなものもよく見える魔法の虫眼鏡、それらを鞄につめていると、少年はなんだかワクワクしてきました。長い長い散歩道を思いながら彼は外へと出ます。

 ――さあ、僕を遠くへ連れて行っておくれ。

 少年は細長い筒の先に液をちょいとつけて、それを優しくふぅと吹きました。立ち上った泡は浅葱色、風に乗ってふわりふわりと川の方へと流れていきます。彼は少し早足でその後を追いかけました。

 野原を越え、苔むす岩のほとりに流れる川の上で泡ははじけました。少年はすかさず足を止めて虫眼鏡を目に近づけました。キラキラと輝く粒が空を舞い、光を孕んで七色に煌めいておりました。彼はその中を泳ぐ何やら不思議なものを見つけます。思わず声をかけました。

 ――こんにちは小さな君、何をしているの?

 すると、それはくるりとこちらを振り向きました。彼の正体はひゅるひゅると鳴きながら空を泳ぐ小魚でありました。

 ――やあ、ごきげんよう。僕はこの色とりどりの粒の中を泳いでいたんだ。

 弾んだ声に少年は思わず笑みをこぼしました。

 ――そうかい、心地はどうだい?

 ――すこぶるいいね!この泡は僕に色々なことを教えてくれるから。

 小魚はひゅるりと宙返りをしながら上機嫌に言いました。

 ――何を教えてくれるの?

 そう聞いてみます。

 ――うん、この泡の旅してきた空のこと、弾けて落ちた地上のこと、流れ流れた先のこと、色々さ。僕もそれを聞いていると、旅に出たくなってくるね。

 それは素敵なことだね、と彼は言いました。小魚は嬉しそうに泳ぎながら、

 ――君のことも聞いているよ。この泡を創ることができるんだってね、おかげで僕はこの中で素敵な話を聞くことができる。どうもありがとう。

 ――君も僕の泡と遊んでくれてありがとう。君と出会えて、泡たちもきっと幸せだよ。

 少年はそう言うと、小魚に別れを告げてその場をあとにしました。


 ――さあ、次はどこに吹こうか。

 少年は迷ったあげく、真上を向いて泡を吹きあげました。泡は勢いよく跳び上がり、踊る小魚の横を通り抜けて森へと向かって行きました。森は新緑に満ち充ちており、少年の髪を活き活きと輝かせておりました。

 泡は木の上ではじけました。少年はまた足を止めて虫眼鏡を取り出しました。空には蒼玉のごとき泡が散り粒となるのが見えました。小魚の姿は見当たりませんが、ふいに聞こえてきた微かな歌声に少年はキョロキョロと辺りを見回します。

 歌っていたのは小さな白い花たちでした。さも楽しげにきれいな声で歌っております。すると、それに唱和するようにぴちゅぴちゅと鳥たちも歌っておりました。

 ――こんにちは、素敵な歌だね。

 少年はまた声をかけます。

 ――あら、こんにちは。嬉しいお言葉をありがとう。

 愛らしい声がたくさん聞こえてきました。少年は一つ一つの花たちの声に応えながら、

 ――今の歌はなんという歌?

 と訊ねました。花と鳥は、喜びの歌かしら、と口々に言いました。

 ――優しい息吹がやって来たの。私たちがきれいに咲いておしゃべりするのに必要なのよ。

 へぇ、と少年は驚いたように言いました。すると、鳥が彼の肩にハタハタと舞い降りてきて首を傾げます。

 ――君は……。ああ、この泡を創っている子だね、いつもありがとう。僕たちが歌えるのは君のおかげなんだよ。

 少年はそうなの?と鳥と同じように首を傾げて言います。鳥はそうだよ、と言いながら肩の上から飛び立ちます。

 ――僕はこのお花さんたちから蜜をわけてもらうことができる。わけてもらうためには息吹が必要なんだよ。息吹を得たお花さんたちがきれいに咲くことができるからこそ、僕らは蜜をわけてもらうことができる。泡はその息吹の元なんだ。旅をしてきた場所の優しい優しい息吹が泡にはたくさん宿っている。僕たちの命の源なんだよ。

 ――君たちの生命の助けになれたのなら幸せだよ。僕の幸せは君たちだ。

 少年は嬉しそうに言って花と鳥に別れを告げました。


 小魚がひゅるひゅると鳴きながら木々の間を抜けていく。花々の香を尾に乗せて、森一帯に甘くて心地の良い芳香を届けていく。鳥たちはそれを頼りにやってきては、蜜を吸ってぴちゅぴちゅとおしゃべりに興じる。それはささやかな幸せ、自然に生きる者たちの日々の営みでした。

 少年は嬉しくなって泡を吹きました。何度も何度も……。その泡があらゆる万物に息吹を届けてくれると信じて……。

 そうしていつか疲れ果ててしまった少年は原っぱの真ん中でパタリと倒れてしまいました。見上げると鳥や小魚や虫や動物たちが楽しそうに踊り回り、キャッキャとおしゃべりをしておりました。

 ――ああ、幸せだね、しあわせだね……。

 微笑みながら目を閉じる。とっても眠いから、少しだけ眠らせておくれ、と心の内で呟きながら……。その閉じた瞼に蝶が口づけをしました。頬に鳥が嘴を摺り寄せました。彼の周りにはいつの間にかたくさんの動物たちが集まり、少年に向かって口々に言いました。

 ――おやすみなさい、小さなかわいい泡吹きさん。

 ――ゆっくり休んで、また僕たちにたくさんの夢を分けてね……。


 それは名もなき少年の話。彼は後に「夢創師ゆめつくりし」と呼ばれ、息吹をもたらす彼の一族は「エルフ」と呼ばれるようになりました。

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